はーくんの後ろでガチャリと金属らしい音がして、彼の肩より高い位置に探していた赤を見つける。その存在を、鍵とドアの開く背中越しの音だけでなく私の表情でも把握したんだと思う。
はーくんはまた少しだけ困ったように眉を下げて、身体を90度反転させた。当然、私と彼の間には一本の空間が真っ直ぐ明け渡される。
「ぁ、何だよ、お前らまだいたのか」
“結構待ったからもう平気だと思ったんだけど” 。そう溢される苦笑と気遣いに、酷い不快感が心を真っ黒く塗りつぶす。
「ったく、早く連れ出せよ斎藤。邪魔しちまったじゃねぇ「いや、良いタイミングだ左之。もう俺も帰るところだった。」
「…………どういう意味だよ、それ」
への字に曲がる眉は、はーくんに疑問よりも不信感と苛つきをぶつける。
嗚呼、いざこうなると、自分の犯してきた身勝手な行動に怒りしか沸かない。どこかで悲観的に “仕方ない” と片付けて、絶望に視界を染めて。都合が良いにも程がある。
息を吸って、吐いて。一歩だけ踏み出せば、フローリングの床が少し軋む。
『違うん、です、はーくんは悪くない』
「……話が見えねぇな。結局、どうしたいんだよ京」
『私、は、』
ドクン、心臓が脈打つのが耳元で聞こえる。だって今の先輩の声音は、私にも痛みを与えるから。
ぎゅっと手を握り混んで、俯いた。こういうとき、いつもはーくんに助けを求めてしまっていた。だから今は決してそちらに視線を向けないよう堪えた。アイコンタクトなんてすれば、彼に誤解を産んでしまうだろう。
けれど、なかなか言葉が出ない。何て言えば良い?どんな言葉を使えば、彼に嫌われずに済む?
この期に及んで強まる自愛と自己保身を蹴れず、私は固まった。
「京、」
頼らないって決めたのに、優しすぎる幼馴染みは助け船を差し出した。
「俺は、ずっと、あんたを好いていた。」
『っ、』
乗ろうか否か迷う矢先、はーくんが突然の告白をしだす。何で今、その話を?
顔が上げられない。警報がわんわんと脳を揺らす中で、はーくんの声が柔らかく入ってくる。
「だが、京。あんたは、左之を好きになってしまったんだろう?」
『ッ──────!』
堪えきれずにはーくんを見る。焦りが熱に変わったのか、それとも逆か。はーくんは、沖田くんと一緒に居すぎたのか、まるで彼の茶化すような笑みで私を見下ろしていた。
心の準備なんて出来ているわけがない。否定してはならないけど、とりあえずこういうのには順番というものも大切だと思う。
ぐらぐらと揺さぶられる心地のなか、はーくんに一言申そうと渇れた喉から必死に手を伸ばした。
『な、に、「何、言ってんだよ、斎藤」
けれど、私のその手を喉に押し戻したのはピエロのよえな嘲笑を浮かべた人だった。
「ふざけんなよてめぇ。この期に及んで、そんな嘘で京からまた逃げようってのか!?」
彼が怒声を上げて捉えたのは、物理的にはーくんの肩だ。なのに、その言葉は私をも殴り付ける。
“この期に及んで” ……そうだ、その通りだ。
“そんな嘘で” ……でもそれは、嘘じゃないんだよ、先輩……。
信じて、なんて。それこそどの口が言えたものか。散々、そう、散々、振り回してきた。はーくんに再会して、初めて気づいたこの鈍感な想いは、今更先輩には信憑性の欠片もない。
全部全部、私が悪いのに。冷たい水が、頬を滑る。
「お前もこんなんで終わらせるつもりかよ、……っておいおい。ちょっと待てよ」
拭うことも隠すこともせず、ただ締めが甘かった水道の蛇口のようにぱたぱたと水滴を落とす私を見て、彼は片手で顔を覆う。
「ざけんなよ、今更、何で、今更……っ」
「俺と京は、既に和解した。あとはあんたとの問題だ、左之 “先輩” 。」
「っくそ、やってくれるじゃねぇか、斎藤」
「……幼なじみ共々、長らく大変世話になりました。また連絡します。」
礼儀良く御辞儀をして、狭い廊下の合間を縫って外に出た彼は、律儀にドアノブを回しながら外から戸を閉めた。カチャン、軽い音は重い空気には不似合いで、駆け足にリビングの部屋へと逃げ込んでいく。
残された私は、一歩だけ後ずさった。それしか、動けなかった。
「……京、『ごめんな、さい』
放置し続けた涙のせいで、ひりひりと頬が痛い。彼の顔を見ないまま、私は瞼の裏、黒く視界を染めて謝った。
傷つけた。たくさんたくさん、傷つけた。どうしてこんなに馬鹿なんだろう、どうして全て自分で出来ないのだろう。
はーくんを好きだったことも、先輩を好きになっていたことも、結局はーくんに教えてもらったことで。能無しの自分に苛立ちしか沸かない。
『わたし、気づかなくて。はーくんに会うまで、全然分かんなくて、』
手持ち無沙汰になった手で、前髪を握る。掌に爪を立てる。
『わたし馬鹿だからっ、先輩の存在が、大きすぎたことにすら、今更分かって! 失う直前に知るだけで、上手く生きていけないんですっ』
「…………」
『それでいて、自分自分ばっかで、他人ばっかり傷つけて!! 私、これまで生きてて好きな人に嫌な思いさせるだけだった……っ』
布擦れの音が、廊下に溶ける。
『はーくんのことも先輩のことも、傷つけてばかりだったんです! なのに、なのに私は離れられなくて、他人を犠牲にしてたんですっ、だから、だからごめんなさい……っ』
恥ずかしい。情けない。
何かを問われる前に全てを吐き出したこの手口も内容も酷い有り様だ。けれど、こうするしか選択肢が見つからない。
突然ぐっと背中を後ろから押されて、前のめりになる。涙でぐしゃぐしゃの顔が、先程まで視界で潤んでいた黒いシャツに押し付けられた。縋ってばかりだったあの温もりに突然襲われて、息が詰まる。
「泣くなよ。女ばかりにそんなこと言わせて、俺がすげえ惨めじゃねぇか」
『どこ、が、先輩は惨めなんかじゃないです。わたしが、私が惨めです』
「京、」
前髪を掴んでいた手に、先輩の指が入り込む。そのまま指と指は絡め取られ、腰を引き寄せられた。
次の瞬間には、逆らえない速度と力で向きを反転させられて、壁に背中が当たる。握られた手はそのまま顔の横に縫い付けられて、先輩の唇が音もなくいつもの場所にくっついた。
「そんなに自分ばっかせめても、俺の罪悪感が増すだけなんだよ」
『せん、ぱ、』
「俺だって、お前が振り向いてくんねぇから……本当は、知らないとこで女抱いてた。最低だろ?」
『っ、』
性懲りもなく傷ついた顔をしたのであろう私に、先輩が謝って、そしてまたキスをする。温かい。
それは、はーくんの手や言葉を思い出させるけれど、先輩から与えられているという事実がどうしようもなく胸を焦がす。
「だから、おあいこだ。なあ京。俺たちはとんとんで事を終わらせる関係でいよう」
『でも、』
明らかに、非はこちらが多い。納得出来ずに俯く。
「もういいんだよ。俺は、お前がちゃんと俺だけを見て此処に戻ってきてくれたから。それだけで死ぬほど堪らねぇ」
ゆっくりと瞼の縁から涙の痕をなぞられる。痛みは薄れて、代わりに熱が残った。
「ごめんなさいじゃなくて、もっと言わなきゃなんねぇことあんだろ」
ある。あるけれど、それは。
『それは、とても、我が儘です』
首をゆるりと横に振るのは、我ながらベストな答えだったと思う。私を奈落の底に突き落とすその欲望を堪えて、そしてこの温もりも振り切って進むべきなのだから。
だけど、先輩は真っ向から私の決意を崩していく。
「言えよ」
力強い。それに引かれて浮きだつ心に、ぐっと重石をかける。
『だめ、です。私は強くなりたいんです。先輩と、とんとんの関係でいられるように、貴方と肩を並べられるように、強くならなくちゃ、」
「とんとんかどうか、それを決めるのは俺の仕事だ。俺を基準にするなら俺が決める。それはお前の本音を聞いてからでも遅くねぇだろ?」
『で、も……、私、酷いことばかりしました。本当に、謝ることしか出来ないくらい……っ』
「ああ。だけど、それでも俺に求めることがあるだろ」
透き通るような夕日に似た色の瞳が、あの頃の独占欲を呼び起こす。不変に確信を持っていて、それでも手探りで手繰り寄せた “当たり前” 。
貼り付けられた手に加わった力に、もはや抵抗の術はなかった。
『でも、でも先輩、────嫌いに、ならないで……』
まさか互いに手放すなど、誰が予想できただろう。しかも今の私が欲しいそれは、ただの存在だけでなく、彼の身体も気持ちも含めた、全てだ。
望みすぎている。けれど、望まずにはいられない。
『最低なのはっ、分かってます! だけど、先輩に嫌われるのは、はーくんの時より怖いんです……っ』
ポロポロとまただらしなく涙を落とすから、先輩は呆れたように息を吐いた。
「馬鹿野郎、嫌いになれるわけねぇだろ」
なんて苦しい言葉だ。甘い毒に侵されて、私は沈む。
「俺の全部、愛してくれんだよな?」
コクコクと頷けば、くつくつと喉を鳴らす。
「じゃあ問題ねぇな」
“ほら、とんとんだ” 、先輩はまた毒を流し込んだ。
あいつとの思い出も、あいつに焦がれた日々も、傷つけあった痛みも、何もかも。例えそこに俺が居なくたって、それがお前のもんなら愛してる。
そう、貴方が言ってくれたから。特別がひとつ増えたと、何十年先も笑っていられるんだ。