チクタクチクタク、日常に溢れる時計の音に、私はドキドキを重ねて聴く。冷静沈着が売りの彼のそれは、秒針よりも3倍ほど早いスピードで刻まれていた。
温かい。背中に回った引き締まった腕すら、温い温度を帯びている気がした。
「京、俺は、」
『うん、』
言葉を詰まらせる彼に促すように相槌を打ってあげる。一つ呼吸をした彼の胸が、私の目の前で大きく波打つのが見えた。
「もう、あんたを傷つけたくなかった。」
『……うん』
一度聞いたことのある科白を言われて、私はやはりそうかと理解した。何時だって彼は、私のために動いてくれていたのだ。
「京がいくら平気そうに振る舞えど、俺はずっと、あんたが気がかりで仕方なかった。」
『……うん』
「だから俺は、離れようと思った。大学ともなればもっと人の輪は広がる。故に、あんたを傷つける人も増える。」
『……そうだね』
はーくんがしようとしてくれたことを知って、私は罪悪感に苛まれる。彼が身を引いてくれても、私は結局左之先輩に頼りきって、彼が恐れた嫉妬の暴力を受けていたのだから。これでは、はーくんの覚悟を水の泡にしたも同然だ。
二人きりの空間。何年もギクシャクしていたはずなのに、不思議とぎこちなさも気まずさも無い。
『ありがとう、はーくん』
「いや、俺は礼を言われることは何一つ、」
『ううん、ありがとうはーくん。ずっとずっと、ありがとう』
「……京。」
ぎゅっと、加えられる力が増える。ますます彼の胸に額を当てることになるけれど、それすら幸せだった。
『酷いことたくさん言ってごめん、頼ってばっかりでごめんなさい。……はーくんの幼なじみとして、私、何も出来てなかった。ごめんなさい……』
彼を失って気づいた劣等感は、確実に私を蝕んでいた。本当に、何も……何もしてあげられなかった私に、吐き気すら覚えて、頭が痛くなって。
そうして左之先輩という新たな犠牲者を生んで、まさに負のスパイラルを起こして。
『私は最低なんだ』
叶うなら、今までの罪を洗い流したい。けれど許されるどころか一生出来ない願いに、また胸が締め付けられる。
吐露したところで、文字通り最低な事実は何も変わらないだろう。でも、それでも、
『はーくんも傷つけて、挙げ句左之先輩まで巻き込んで……。私、先輩を利用してたんだよ』
言わずにはいられなかった。一人で背負わなきゃならないって、分かってるのに。分かってたのに、はーくんに知っていて欲しかった。こんなに醜い自分を、どうしようもない罪悪感を。
共有して、とか。慰めて、とか、本音はそう思ってたのかもしれない。
だけどこの時私が自覚した感情は贖罪と言うべきものばかりで。
「あーあ、またお前はそうやって自分を悪者にしてるじゃねーか」
「……左之。」 『っ、せん、ぱ、』
「悪いな、斎藤。もうちょっとだけ京貸してくれ。ちゃんと返すから」
泣きわめく暇もなく。どこからともなく現れて私の腕を引いた先輩と、私の腕から離れたはーくんの指が携帯の画面を軽くフリックして暗くしたことに戸惑った。
玄関とリビングを繋ぐ廊下から、慣れ親しんだリビングに入る。はーくんとは違うシトラスの匂いが鼻をつついて、また涙腺が弛んだ。
「利用してたって、そうする話だっただろ」
『そ、れは、でも……っ!』
「なあ京。最初から最後まで、俺たちは何も変わっちゃいねぇよ」
『え?』
「お前は斎藤を想ってたし、俺はお前を想ってた。お互いに補いあってただけだ、足りねぇもんを。ずっと」
『そうかも、しれません。けど、』
「お前は確かに、俺を一時の拠り所として、俺の好意ごと利用してた」
『っ、』
「そんで俺は、大事なもん失って傷心中の弱りきったお前の心を利用して、自己満足に浸ってた」
何も言えない。嘘だと否定もできなければ、真実だと安易に頷けもせず。
ただただ、私は、もう押し付けることのできなくなってしまった彼の広い胸の前で静かに頬を濡らすばかりだ。
「傷ついたし、守られてた。それでも俺らは、ちゃんと幸せだった。俺はそう思ってんだけどよ。京は?」
『ぁたし、はっ、』
「出来りゃあ最後くらい、……嘘でもいいからよ。そうだったって、笑ってくれねぇか?」
涙で滲む視界に、しゃがみこんでくれた左之先輩の微笑が映る。儚くて、愛しくて、哀しくて、この世に溢れているどんな言の葉を寄せ集めたって伝えきれない思いが、首を横に振ってそれから何度も頷かせた。
笑うことは、できなかった。それでも先輩は「ありがとよ」って、私の頭を撫でた。
はーくんと歩くこの道は、いつ以来だろうか。数字にして表すよりも遥かに遠い昔のことのように思えて、我ながら歳を取ったと笑ってしまう。
テレビに映ってた公園にはカメラも人だかりも無くて、もう人は疎らに散って遊び足りない子供たちがはしゃぐ声が夕日の空に飛んでは消えていく。
『懐かしいね』
「そうだな。」
何を、とは、問われなかった。正直訊かれたところで答えられるものもない。
郷愁と言うような、温もりのあるそれが思い出させたのは一つじゃなくて。この帰り道、子供の声、たくさん駆け回った公園、二人で押し合ったブランコ、オレンジ色の夕日、漂う夕飯の香り、カラスの声、並んだ影、隣の存在、掌に伝わる温度。
この街には、はーくんと刻んだものがたくさん埋め込まれている。どれも一人では懐かしむどころか思い出せないものばかり。
「俺は東京に仕事がある。」
『そっか。私も、今の仕事はココにあるよ』
「…………。──────京。」
はーくんの影が伸びるのを止めたから、私も同じように合わせる。視線を斜めに切って張り合わせて、そうしてはーくんが凄くカッコいい顔をして空いた手で私の頬を撫でた。私の感覚はおおよそ中学レベルで、もう少しだけ大人になりたいと唐突に思わせる。
「全部、あんたの生涯も幸せも、全部受け止める準備が出来るまで、……待っててくれぬか。」
『……ちゃんと、迎えに来てくれる?』
「あぁ。必ず迎えに来る。それまで此処には出来る限り多く、あんたの元に一番に帰ってくる。」
『うん』
「俺があんたの全てを背負うときは、この街を出てもらうことになるかもしれぬが、それでもいいか。」
『うん、いいよ。はーくんが一緒なら、何でもいい』
「そうか。単純だな、相変わらず。」
『そうさせたのははーくんだから、責任とってよね』
「……尽力しよう。」
ねぇはーくん。不思議だと思わない?あんなにたくさん一緒に居たのにさ、初めて触れあう場所があるんだよ。
変わっていくものが怖くて怖くて仕方なかったあの頃は、知識も増えることすら怯えてた。そんな日々も、感情も、全部全部貴方がいたから在ったものだって思えば、後悔ばかりだった過去すら愛せる。
これから先、例えばケンカしても、最後は二人で朝を迎えたいな。一日一回は笑って、笑いすぎて苦しくなりたい。
視える景色をもう一度重ねよう。貴方が背負ってくれる私の生涯の中で、貴方に出逢えたことが一番の幸せだと思うけれど。その幸せこそ共有できるように。写真やその場にいなくたって、何時でも全てを思い出せるように。