私の部屋から見える唯一の景色は、代わり映えしない。カーテンが閉められていて、その隙間から覗ける向こうは暗闇しかなかった。
彼は、まだ私の隣にいてくれる。幼馴染みも嫌がる私の隣に、もう4年も。
休日も平日も一緒に過ごす。彼がそこの会社員だったことを知らずに就職した話は本当だ。偶然に驚く私に、彼が「いや運命だ」とニヒルっぽく笑ったのは忘れない。
そんな生活が2年続いている今日この頃、日曜日。同棲こそしていないけれど一人暮らしの彼宅に入り浸る私はテレビのチャンネルを回していた。
「京ー、俺酒買ってくるわ」
『はい。行ってらっしゃい』
リモコン片手にソファーから立ち上がり、財布を握って靴を履く彼を真後ろで見守る。
「なんか欲しいもんあるか?」
『え。うーーん、400円のアイス!!』
「このバカ」
ぺしんと叩かれた頭を自分の手で擦って笑いながら送り出す。何だかんだできっと買ってきてくれちゃうな、なんて予想した私は、キッチンにある陶器製のグラスを冷凍庫に入れておいた。
ソファーに座り直して、リモコンをもう一度弄る。地方番組は彼らがよくやる生放送で、マイナーな芸人さんが地域のお父さん会なる者をインタビューしていた。それは自分の子供を連れて、父子とパパ友の関係を強くする狙いの町内会の催事だ。
まだやってたんだ、懐かしい。何となく、鼻の奥がつんとする。小さな時は何度か連れてかれて、工作はもちろんみんなで花いちもんめとか鬼ごっことかやったな。
子供よりはしゃぐ大人の姿は、テレビという媒介物を通して初めて楽しそうだと感じる。当時は自分とその隣にいる男の子の “楽しい” に精一杯で、気づかなかった景色だ。
ほのぼのした雰囲気に、背もたれに寄りかかる。
カメラマンの人が、季節外れの突きたての餅を口から伸ばして笑う子供と、その先を箸で摘まんで引っ張るお父さん、そしてそれを笑う芸人さんを撮している。それから、公園の入り口を経由して時計台のある方へ回そうとスワイプしたカメラ画面。その一瞬に映り込んだ藍色に、私は握っていたリモコンを落とした。
カーペットの上に、ぼすっと鈍い音を立てて落ちるそれ。足元のはずなのに、どこか遠くから拾ったみたいに小さな音だった。
なんで。
どうして。
どうしてそこにいるの。
いや、何でもなにも、彼の実家は勝手知ったる目の前の公園の近所だ。公園を出て、右に曲がって、そこから三本目の角をまた右折して。見えてくる、日本様式チックな一戸建て。そして、その左隣にあるのは紛れもなく私の住処だ。
……まただ。
脳では理解している。なのに、心が余計な別の理由を探る。
でも、だって、仕方ない。私たちはそう幼なじみで。画面越しでさえ、かち合ってしまったのだ、あの瞳と。
『っ……、はー、くん……、』
掠れた声。こんなの、彼には聞かせられない。
そ う思い立って、玄関に向かう────その足を、止める。
なに、しようとしてるの。
(なにしてくれてるの。)
だって、此処で待ってなきゃ。
(待ちくたびれちゃった。)
彼を待って、言わなきゃ。
(彼に、伝えなきゃ。)
────何て? | |
────何て? |
覚束ない身体に鞭打って、私はソファに雪崩れ戻る。手が震えている、こんなこと初めてだ。
戻ってきた? 戻ってきてた……。……戻ってきて、くれた?
都合の良い方向へ処理を続ける自分には、もはや呆れすら覚えるのもかったるい。
『……左之、せんぱい、』
彼の名前。何度呟いたって、私はそこに蟠りを消せない。好きなのに、違和感を覚えてしまう。
キスだって温もりだってこの空間だって、幸せで嬉しいのに、どうしたっていつも何かが心に燻っていて、気持ち悪い。見て見ぬふりを続けては、私は、彼の優しさにつけこんでる。
ソファの上で仰向けになって、閉じた瞼の上に腕を重ねる。眩しい、何もかも。
ガチャリとドアが開く音がした。
起き上がらなきゃ、迎えにいかなきゃ。ビニール袋を受け取って、彼の手を引いて。冷蔵庫のグラスとスプーンを出して、それから此処にまた戻ってこなきゃ。
体が心がそう指令するのに、鉛のように重くて動けない。こんなんじゃダメ。心配かけてしまう。
布擦れの音が、リビングに近づく。何時もよりゆっくりの足音に、私は目を覆ったまま彼を呼ぶ。
『左之先輩、』
人肌がとてつもなく恋しい、……のに。待てども返事が来ない。
『? 左之せんぱ、い……、』
視界に入るはずの赤は、そこになかった。正反対の色に、私は息を飲む。突然の暗さに、眉を顰めてしまう。
「……すまぬ。」
『─────んで、』
「左之は、……否、今呼んでくるからそこで待っていろ。」
『なんで、はーくん、』
「具合が悪いなら、そこではなくベッドに寝てろ。左之に言われて持ってきたアイスなら冷凍庫にいれておく。」
『……って、』
「……頼むから、そんな顔をしてくれるな。」
あのときと同じ、距離しか感じない背中が玄関に向かってしまう。ダメだ、そんなの。また同じことを繰り返して、私は、また不変に苦しむのか。
そう思えば突然、さっきまで重くて仕方なかったはずの体が、急に私を急かした。6年ぶりの背中に手を伸ばして、コートを掴む。
『待って!!!!』
ああ、そうだ、この高さ。見上げるこの首の角度。良かった、良かった、はーくんも、変わっていない。
「京、『どうして、どうして!』
ぼろぼろと、涙が溢れる。独りで泣くなと言われてずっと彼の前でしか見せなかったそれは、綺麗なフローリングの廊下を濡らす。
『行かないで、やだ、はーくん、』
「っ、」
『まだなんも、聞けてないよっ』
「京、」
『まだなんも、言えてないよ……っ』
はーくんの身体がコチラを向く。振り解かれて居場所をなくした指先で、私はだらりと力なく涙の痕を指した。
彼が口を閉ざせば、それは私の話を始める合図だ。でもいざとなると、久しぶりだからか何を話せばいいのか分からない。伝えなきゃならないことはありすぎて、それを上手く言葉に出来ない。
『あ、私は、なんで東京に、はーくん、置いてくから、……たし、私、先輩のことも傷つけて、もう、もうっ、』
次から次へと、泡のように沸き上がる思い。飲み込むことも整理することも許されなくて。私はただただ、はーくんの居なかった日々を嘆いた。
『もう、ダメだと、思った……っ、』
「それは、」
眉を下げるはーくんは、やっぱり少しだけ背が伸びているのかもしれない。首が痛くて、俯く。頬を流れる間もなく、指が指す方へ雫が落ちる。
『苦しかった、ずっと! はーくんのいないこの街も、左之先輩の優しさも!! 好きで大切なのに、はーくんがいないだけで、全部全部苦しかったっ』
「京、」
『ごめ……っ、なさぃっ』
顔を覆う。左之先輩の面影が瞼に焼き付いて離れない。彼を、もっと素直に好きになれれば良かったのに。
『わかんなかった、はーくんのスキの意味、ずっとわかんなかったのっ』
その意味を教えてくれたのは彼だった。彼がくれるエゴという名の愛は、はーくんがくれていたものにすごく似てた。視線の熱さも、触れるときの熱も、安心感も。
すれば必然と答えは出る。認めまい認めまいと圧し殺してきたそれは、2人の注ぐものと何ら変わりはなかった。
『けど、わたし、わたしもずっと、はーくんが好きだったよっ』
「っ、」
ああ、終わる。
止まっていた刻が回り始める音がする。
薄れかけていたはーくんの笑顔が、瞼の裏で彼の笑みと重なった。