はーくんの隣は、私には今思うと贅沢過ぎたんじゃないか。
「京、もうあんたとはあまり会えなくなる。」
『え?』
「向こうで一人暮らしをするつもりだ。……今まで言えなくてすまなかった。」
『え、なに? まって、はーくん。いきなり何言って……、』
「話はそれだけだ、帰ろう。」
『まっ、待ってよはーくんッ、』
だからこうして今、はーくんの背中を見つめているんだろう。
進路先に悩んで、その中でも体育祭や文化祭を楽しんで。はーくんと沖田くんの最後の剣道試合で嬉し泣きをして。
ちゃんと彼の隣にいたはずなのに。
ちゃんと今まで通りに会話して、笑いあったのに。
どうして、
『どうしていきなりそんなっ、なんでっ、』
どうしてどうして。
『東京の大学だなんて、嫌だよっ』
私を隣に居させてくれないの?
はーくんは振り返ってくれない。
どんなに人混みに紛れたって、どんな場所で迷子になったって見つけてくれたはーくん。不安で押し潰した喉が役立たずな声だったとしても、必ず聞き取って探しだしてくれていた。だから、聞こえていない訳がないのに……。
「幼なじみだからって、斎藤くんの人生決められる権利無いよね」
「幼なじみって、そんなに偉いのかな」
「篠塚京? ……あぁ、斎藤くんに纏わりついてる幼なじみか」
「はーくんはーくん煩いんだよ。斎藤くん可哀想」
今まで無視と言うバリアを張って上手いこと躱してきた数々のナイフは、まだすぐ傍にいたらしい。
どうして躱せただけで消えたなんて思ったんだろう。
ちゃんと警戒を怠らなければ、……いや、しっかりと向き合っていれば。今更こんな風に心に刺さることなんてなかったはずなのに。
ずくり、刺すと言うより抉るような痛みが奥底まで突き抜ける。痛い、痛いよ、はーくん。どんなに叫んでも声にならないのは、どこかで悟っているからだろうか。
きっともうはーくんは、……はーくんじゃない。
お隣に住んでいるはじめくん。
クラスメイトの斎藤くん。
剣道部の斎藤くん。
風紀委員長の斎藤くん。
『…………そう、分かった』
酷い人だ。納得の言葉に漸く振り返った彼は、少し眉を下げている。今更、罪悪感を感じているのかな。そんなのもう、必要ないよ。
いらないよ、もう。 全部全部、受け取れない。
朝のお迎えも。寒い日に伸ばしてくれる右手も。
よろけた時に抱き止めてくれる見かけによらず逞しい腕も。
寝坊したり忘れ物したりして聞かされる説教も。
それを全て失うなら、相応の準備と環境が必要なんだから。
『じゃあ、今日ココからばいばいだね』
「っ……京、待て、」
待て? いつもいつも先に待ってくれなかったのは、はーくんなのに。
その慣れ親しんだ私の名前も、声も、表情も冷たい手も。もう全部、いらないから。
『やだなぁ。篠塚って呼んでよ』
「っ、」
『お願いだよ、……斎藤くん』
私は、両親よりも誰よりも、はーくんに名前を呼ばれるのが一番嬉しかったんだよ。
嗚呼、残念だねはーくん。
私が知らなかったはーくんがいるように、はーくんが知らない私だっていたってこと。 “幼なじみ” なんて、ただの飾りつけの言葉を、鎖に……鍵にしていた私たちがとんだピエロだったこと。
本当は、こんなセリフ言いたくない。はーくんって呼びたい。京って呼んでほしい。
でも、もうダメなんでしょう?
隣には、いられないんでしょう?
変わることも怖いけど、傷つくのも怖いよ。もう痛いのは嫌なの。
だからごめんね。───終わりにしちゃおうか。
『その方がたぶん、お互いに楽だから……』
お互いに、なんて勝手に巻き込んじゃうけどさ。最後くらい知ったかぶらせてよ。
「そんなわけないだろう! 俺はっ、」
『私はそうなの!!』
喉が裂けるように出した声が醜くくてビックリする。
なんだ。やっぱり全然相応しくないじゃん、私。
『ごめんはーくん。本当は、はーくんを応援しなきゃいけないのに、……出来ないの』
解ってる。
去年の夏に原田先輩が私を訪ねてきてくれたのは、彼にはーくんが相談事をしていたからで。私からもはーくんの背中を押してあげて、って頼みに来たんだ。
はーくんがそれだけ悩んでて、今まで言えなかったのも私への優しさが含まれてるって、解ってるのに。
『隣にいられないのは、私の方だったんだよ』
ごめん。
ごめんね。
いれない、じゃなくて、居ちゃいけなかったのかもしれない。
私がずっと隣を独占しなければ。今頃はーくんはもっともっとはーくんのことを考えて、こういうときに笑顔で送り出せる彼女がいたかもしれないのに。はーくん目当てで私と友達になろうとする色んな子達を蹴ってきた自分が途端嫌になる。
『だから、だから「俺は、篠塚とは呼ばない。」…………っ』
珍しくわがままだと、どこかで苦笑いする私がいる。冷静なのは理性か本能か、分からない。
「…………好きだ」
『……え?』
ココロがどこにあるのか、誰か教えてほしい。脳の動かしかたも、教えてほしい。だって、耳の塞ぎ方も息の仕方も忘れてしまった。
「俺はずっとずっと、あんたが、」
『……なに、言って、』
「ッすまない、忘れてくれ。」
『はーく、「先に帰る。あんたも気をつけて帰れよ。」
彼の背中は、どんどん離れていく。向かう場所は同じなのに、もう隣には並べない。
─────すき?
私もはーくんはスキなのに、どうしてあの時みたいにすぐに同意を返せなかったんだろう。……なんて、頭の中ではちゃんと理解していることが、ココロでは噛み砕けない。
『はーくん……』
小さく小さく呟いたとき、角を曲がろうとしていたはーくんが振り向く。
ほら、その耳。その顔。はーくんは嘘が下手くそだ。
やっぱりこんな声でも聞こえるんじゃん。……ごめんって、そんな顔、はーくんはしなくていいのに。……するくらいなら、堪えたりせずに全部投げ打ってくれればいいのに。
謝らなきゃいけないのは、そんな風に思う身勝手な私だよ。はーくんの言う “好き” に応えられなくてごめん。
───私がはーくんの幼なじみでごめん。どこまでも優しいんだから、やっぱりはーくんは私には贅沢過ぎた存在だったんだよ。