「ねぇねぇっ、京ちゃんだよねっ??」
『えっと、……誰?』
「あ、私、斎藤くんと同じB組の小林───『悪いけど、急いでるから。ごめんね』
心許ない謝罪をまるで口癖のごとく滑らせて、私はこの日も廊下を早足で鳴らした。走ると土方先生が煩いのはこの半年でよーく理解していたから、あくまで早足で。
いや、先生が煩いという理解は半年以前に既にしていたんだ。言い直せば、その煩さを実感した。
─────薄桜学園に入学してから。
横に並んでいたはーくんの前に飛び出し、受験票と彼の顔を見比べてから抱きついた時から、もう半年以上経ってしまった。
どんなに風を送ったって腕を捲ったって抜けない纏わりつく暑さの下、コートもマフラーも手袋も、今となっては憎い。とはいえ、楽器を理由に冷房を駆使する我等吹奏楽部員はまだマシな方だとも思う。
上履きからローファーに履き替え、そのまま校舎を出る。カンカンと照り注ぐ太陽には睨む気も失せて、せめてもの思いで風の音に耳を澄ますが、聴こえてくるのは聞きなれた楽器の音とむさ苦しい運動部の掛け声だけ。額に滲む汗を拭うも、その腕が生身であることに眉間を寄せた。
出来るだけ日陰を選びながら、離れである体育館に沿って裏道を目指す。体育館の白い壁と緑ばかりを映えさせる桜並木に挟まれれば、自分の影は日陰にすっかり溶け込んだ。
僅かに髪を揺らす風を受け、少しだけ暗い顔を上げた先に見えた離れ。あの場所にとって異端者であることを最近知った心は、性懲りもなく縮んだように思えた。
彼に会うだけなのに深呼吸をするようになったのは、何ヵ月前だろうか。さっきテキトーにあしらったコバヤシさんを思い出して、罪悪感と嫌悪を感じてしまう私は、何時からそんな人間になったのだろうか。
問いながらも、考えたって埒が開かないのは知っていた。答えがほぼ見つかっているからこそ、納得できない問題は日に日に重みを増していく。
その重みに負けないよう、しっかりと手をかけた木製の片引き戸に手をかける。そうして私は、力を入れ直してから一気にずらした。
「「あ。」」
ただ口を開ける人もいれば、私の名前を呟く声も聞こえる。中には羨望と嫉妬の混じった視線に口を歪ませた人もいて、心底帰りたくなった。
「お、京じゃねーか!」
声をかけてくれたのは、剣道部の部長である原田左之助先輩。
“斎藤一の幼馴染みの女子生徒、篠塚京” という肩書きを良い意味で気にしてくれる一派の彼は、チラリと流し目で道場内を確認しながら言った。
「斎藤なら、今丁度買い出しに行っちゃってんだよな……」
『あ、……そう、ですか』
たぶん、その付き添いとして沖田くんも一緒なのだろう、姿が見えない。そうなると私は非常に肩身が狭いのだ。
「伝言かなにかあるか?」
優しい原田先輩は、私を覗き込んで問うた。左手に握る手提げ袋の感触を確かめながら、それをずいと前に出す。
『それじゃあ、お言葉に甘えて。これ、はーくんの忘れ物です。渡しておいて下さい』
「おう、じゃあ預かるな」
先輩が私の頭を一撫でしたとき、奥にいた女子の声が小さく響いた。
『ありがとうございます』
締め付けられた胸の痛みをひた隠しにしながら笑った私たちに、何時の間にやら女子が集まっていた。原田先輩に渡った手提げ袋を覗きこみながら、彼女たちは言う。
「斎藤くんが忘れ物なんて珍しいねー」
「本当本当。初めてなんじゃない??」
「あれで結構天然なとこあるもんねーっ」
にこにこと愛想の良い笑みを振り撒きながら談笑し始める集団に、サッと心の温度が低くなったのが分かる。噛むように結ばれた唇、その内側には発せない感情が押し寄せては閉ざされた出口にぶつかった。
「京、───『それでは、私は部活に戻ります』
貼り付けた笑みを原田先輩に見せて、逃げるように踵を返す。まだまだ子供だと言ってるようなもんだった。でも私はこれ以外に堪える方法を知らない。
私が知らないはーくんのいる空間は、どうしてどうして凄く辛い。
『失礼しました』
「あ、京!」
原田先輩の呼ぶ声よりも後ろから刺さるのは、女子の視線。先輩のものも、同級生のものも、他人のものも、こればっかりは何時まで経っても慣れない。中学生から感じている居心地の悪さには、精神よりも身体が先に悲鳴をあげてしまうようになっている。
道場に背を向けて、校舎へ戻ろうと顔を上げたとき、見慣れた横顔が体育館裏へ回ってきた。お互い気づくタイミングは同じ。
咄嗟に立ち止まる私に、彼は逆に小走りで駆け寄ってくれた。
「京、なにか俺に用事でもあったのか?」
『……うん。はーくんが今日珍しくお弁当忘れちゃったから、おばさんから預かってきた』
「弁……あ。」
『ふふ、今まで思い出さなかったの? 今日は雨降るのかなぁ。ねー、沖田くん』
「やめてよはじめくん。僕今日傘持ってきてないんだけど」
「京、総司! 俺が忘れ物したくらいで雨など降らない!」
茶化され慣れないはーくんは、少し慌てた様子で私たちを戒めた。
この3人の空気は、私の肺から心まで浸透してそのまま嫌な気持ちを全て吐き出すのに持ってこいの手段。蝉の声が少し小さく聞こえて、届けに来てよかったと人知れず自分を誉める。
「京ちゃん、もしかしてこれ届けるためだけに夏休みなのに学校に来たの?」
『まさかっ! 私も今日午後から部活なんだ。はーくん、お弁当は原田部長に預けてあるから。じゃあ、そろそろ行くね』
腕時計を確認して、私ははーくんと目を合わせる。
「あぁ、ありがとう。帰りに一緒になれたら帰ろう。」
『うん、終わったらメールね。はーくんと沖田くんも部活頑張れ』
心からの笑顔で私は2人に手を振り、そのまま体育館の表へ回った。そこから隠れるようにはーくんたちを確認すれば、案の定彼らの周りにはさっきの女子軍団がお菓子に集まる蟻のように集っている。その中で淡い微笑を溢すはーくんを見て、ギュッと胸が押し潰されたみたいに傷んだ。
今見える光景にも、知らない気持ちにも。
傷つくのなら蓋をしてしまえば良い。
私はゆっくり瞼を下ろして、深呼吸をした。