後ろに視線が無いことを確認して、頷けるようになったのは三日前からだ。どうやら幕府への要請は滞りなく達成されたらしい。
私都恭夜は『くあ、』と一つ欠伸を欠いて、門をくぐる。今や自宅と化した真選組屯所の居心地は芳しくなかった。
二件目の事件からはおおよそ一月が経過したところだ。民衆の不安の形も今となっては様々で、倍増したり薄れかけたり。
被害者を減らさなければならないとは思うが、如何せん相手が相手だ。証拠を何一つ残さず、足さえ捕まえさせない完璧なまでの完全犯罪。
これを可能にする人となればそう多くはないだろうが、この江戸は人の数も多ければ出入りも激しい。私都恭夜が最悪を考えれば、星は特殊能力を持つ天人である可能性も否めない。そうなれば、いくら幕府として動いたところで終いだ。
因みに進展がない、と言うわけではない。
三日以上行方を眩ませた者を対象に、行方不明者の進言をするよう幕府から民に伝えてもらったのは二件目の事件直後のこと。私都恭夜や十四郎の予想よりだいぶ遅いが、その報告(相談)がつい昨日、やっと舞い込んできた。
その時の様子は正に一喜一憂。
行方不明者が次の被害者になる可能性は非常に高いのは言うまでもないだろう。これで犯人に一歩近づける、誰しもがそう思った。
しかし。「かれこれ三週間程前のことです」母親だと名乗る初老の嫗は数秒後にとんでもない爆弾を落としてきた。
申し訳ない話だが、それではこれまでの事件の調査結果より手遅れである蓋然性も否めない。身代金などを要求してくる時期ではないし、聞き込み回るにしてもおよそ一月も前の人間の情報が脳内に残っているとは限らない。むしろ多くはないだろう。
けれど、抜け目は許されない。恐らく目ぼしい収穫は獲られないというのが本音だが、私都恭夜はそれを建前にしてこうして屯所を抜けてきた。
私都恭夜は先日山崎から提出されたプロファイリングの推敲も兼ねて、二件目の事件を頭の中で浚う。
被害者は瀧本健児、28歳。
幸か不幸か、身寄りは無かった。これが一番の痛手である。しかし、仕事場には恵まれていたらしく、彼の同僚や上司から情報を提供された。
仕事場に五分遅れるだけでも手持ちの携帯電話から連絡を入れる真面目な彼だからこそ、平生の出勤時刻から十分経っても一時間経っても連絡が無かった“その日”は皆の記憶に刻まれていた。遺体発見の二日前であった。
携帯電話は通じず、瀧本健児の家には固定電話は敷かれていなかった。心配する職場の中、最も仲の良い同僚、金田直樹が代表で自宅まで様子を見に行ったが、鍵は掛かったまま部屋にいる気配も感じなかった。
“その日”の前日は午後から雨予報で、真面目な瀧本健児も例に漏れず黒い番傘を仕事場に持参している。そして予報は当たり午後一時から窓に水滴が叩きつけられ、瀧本健児が退勤のタイムカードを切った頃には外は土砂降りの二歩手前を行くような雨が降っていた。
勿論、彼は番傘をさしてその中を歩いた。途中まで一緒に帰宅した金田直樹は、それを覚えていた。そして、彼が傘を玄関の外、右横にある格子窓に引っ掻けることも。
金田直樹は、中に瀧本健児が居ないことを知って右手を見た。そこに黒い傘はない。この時の空は憎たらしいほどの蒼い快晴だったと、金田直樹は寂しそうに供述した。
ざわつく胸を焦らせて仕事場へ戻った。「昨日から帰っていないようです」、そう上司に報告をした。瀧本健児は酒が強くないし、雨を嫌っていた。そんな彼の毎晩の日課はジョギングだ。
「外に出れないから、今日は暇だな」、それが、金田直樹に向けられた瀧本健児の最期の他愛ない話だった。
上司は一日様子を見ようと言った。“その日”の金田直樹の仕事は瀧本健児の捜索になった。
─────けれど、全く居所は掴めなかった。
二日目の朝。やはり出勤してこない瀧本健児。
昼になり、市中見廻り組に会社から相談をしようと上司は電話を手に取った。そこでタイミングよく、彼の手の中で受話器が震えた。電話の相手は、見廻り組と相反する色を背負う真選組だった。
告げられた悲報に、金田直樹は椅子からずり落ち足首を捻った。
瀧本健児の遺体は、下半身はスーツのパンツ、上半身は生身の上にスーツのジャケットを着ていた。そのスーツの内ポケットから、瀧本健児の名刺が三枚出てきた。それ以外に見つかったのは、ガムとハンカチだった。
現場の血痕からすると、その場で殺害が行われたと見て節穴は無い。
死体検査の結果、彼の体内から希薄の睡眠成分が検出された。恐らく、嗅がされたのであろうそれは二日間で薄まってしまったようだ。ということは現場で“初めまして”又は“こんばんは”という場面では無かったと見受けられる。
また、殺害方法からして星はかなりの殺り手だ。そして緻密な計算から成り立つ理数系の人間。
睡眠薬を嗅がしたのに外で殺害した。それは断末魔を防ぐためかもしれないが、あの一撃必殺張りの切創から見るとその理由は白に等しいだろう。
────つまり、瀧本は一回被疑者の手から逃れかけた。そうなると非常の事態にも冷静さを保てるような落ち着いた人格も備わっているのだろう。
辺りに落ちていなかった鞄と傘は星が所持していると見て問題はない。現在進行形でそれが言えるかどうかは別の話だが。
ここまで考えたところで、いつの間にか繁華街まで歩いてきていたらしい。通行人と肩がぶつかり、思考が途絶える。
『っ、すまん』 「っ、すいません」
互いに謝りながら、ちらりと顔を確認する。見知った顔ではなく、一瞬だけ目を合わせただけで私都恭夜も相手もまた足を動かした。
私都恭夜は少しだけ眉を細める。他人と肩がぶつかる、など、何時ぶりだろうか。周りに張り巡らす神経が少なかったのか、それともこれは、“鈍くなった変化”であり喜ばしいことなのか。
『(…まだだ。まだ、足りない…)』
月には程遠いこの距離で、満足してはならない。心なし、少しだけまた重みを増した身体を叱咤する。
聞き込みの対象人物の名は常田美奈子。彼女は“呉服屋 にしき”でアルバイトをしていたらしく、看板娘として常連には馴染みの娘だったらしい。
私都恭夜は“にしき”の前に立ち、「またか」と顔を歪ませる店主に三度目となる挨拶をした。私都恭夜自身は三度目ましてなわけだが、大方山崎や原田たちも訪ねているのだろう。
『何度も申し訳ないな』
「真選組の青色さん、今日は何を聞きに来られたんですか?」
それでも、黒い服を纏う彼らよりも楽なのか、下げた眉をあげて目の前まで来てくれた。店主の前でも隊士を髪色で呼んだ私都恭夜を真似て、“青色さん”と呼称する辺り話も分かる人物である。
『最近、男の客が多かったりしてないか気になってな』
「最近、っていっても、美奈子ちゃんが店に来なくなる前だろ?それも儂のこの皺々な脳じゃ覚えてないわ」
『それは有難い。医者として言わせてもらうが、脳は皺が多い方がいいんだよ』
「まじか。てかあんた医者だったんか!?」
『まじだ、どっちもな』
歳にしては随分と元気な爺さんである。
私都恭夜は数日ぶりに心からカラリと笑って、首を回した。
『ま、覚えてないのも無理ないか。また何か気になることがあったら尋ねるよ』
「あれ、青いお兄さんはもう帰るのかい?」
『あぁ。話聞いてくれただけでも有り難かったよ、坊さん』
髪色どころか髪すらない剃髪の店主を初めて呼べば、どこか和やかだったその眉間を寄せて叫ぶ。
「こんの若僧が!!!」
お互い楽しそうな雰囲気を醸したまま、私都恭夜はひらりと花浅葱の羽織を翻す。
一件目の事件では、被害者の失踪から一週間余りで遺体が発見された。ところが二件目はたった二日。三件目の被害者候補として上がった娘は、三週間前に行方を眩ましている。
犯人は前述からして冷静沈着タイプという判断が賢明だろう。だとすると、殺害のタイミングがこうも疎らであるというのは考えにくい。
要するに、二件目の発見が早すぎるのだ。
果たしてこれも計算の内か。だとするとかなり状況は厳しくなる。
それとも。
三番目の殺害はもう既に起こっていて、遺体が見つかっていないだけなのか。けれどこれはあまりにも安易な考えである。
一件目の事件の死亡推定時刻は、発見からそんなに離れていなかった。二件目もそこについては同じことが言える。しかも場所はどちらも住宅街。この範囲に共通点は見つけられていないが、一日に一度は必ず人通りがある。
何れにせよ、殺害の周期を図るにはあまりにも情報が少なすぎた。
──────『………っ!!』
嗅ぐわすのは、誘惑の薫り。望んでなどいない、残酷なもの。
その匂いを察知する嗅覚はこの世で一二を争うものであることなど、認めたくはなかった。しかし、本能の一部であるソレは、本人の理性などまるで存在していないかのように、身体を奮わせる。
『おい、坊主』
背中を向けたまま、私都恭夜は店主を呼んだ。
『…その子、甘いもん、好きだったか』
「は?」
店主は瞬時に意味を飲み込めず、惚ける。だが耳に残る私都恭夜の声色にただ事じゃないと悟った彼は、直ぐに頷いた。
「────あぁ。美奈子ちゃんは、年頃の女の子らしく、甘いものが大好きだったよ」
『…そうか、……残念だ』
「え、ちょ、青色さん!?」
ポツリと呟けば刹那、私都恭夜の花浅葱は店主の目の前から消えていた。
木偶の坊の役立たずが
舌打ちをして、足元の亡骸から目を逸らす。辺りに飛び散る飛沫形の血痕は酷く小範囲に帯びている。そして、脇腹から地面を濡らす真新しい猩血色が眼に刺さるようだった。
咄嗟に鼻を覆い、もう片方の自由な手で喉を掴み絞める。暗示をかけるように圧を加えて瞼を下ろす。
「……私都?何して…、」
悔恨に菱ぐ私都恭夜の目に、次に飛び込んできたのは光に反射する銀色。
『…なんで、此処に…』 「おい、それ…」
双眸を見開いたのは同時だが、銀時の方が眼孔が大きい。直ぐ様私都恭夜の足元に膝を付いては叫ぶように訴えた。
「…っなに突っ立てんだよ!!!早く救急車を…!!」
『もう遅い。心臓の拍動も呼吸も見られないし、その出血量じゃ、どちらにしろ術はない』
「っ、くそ…!」
戦場を知る銀時なら、私都恭夜の見解にケチをつけるほど愚かなことはしなかった。ただ、拳を地面に打ち付ける。
私都恭夜は、静かに息を吐いて息を止める。嗅覚を遮って、屍を見た。
着ているというよりも、ただ掛けられただけのように見える着物。揉み合いになったのかは分からない。
はだけた胸元から見える心臓に、一つ、見覚えのある切創。形と深さからして、恐らく同類のものだろう。
ならばなぜ、こんなにも流血があるのか。現場に血が残っているのか。
これでは────“吸血”事件と名をつけることに障害が生じてしまう。
目眩がした。