薬物とユリウス
その路地裏に用があったのは小さな子猫のためだ。誰かに捨てられたのかある日突然現れて、母親を探してかにぃにぃ鳴いていたのがどうしても放っておけなくて、ここ三日ほどスバルは大学の帰りにその場所に立ち寄っていた。コンビニで買った猫缶と水を携えて、のんきに鼻歌を歌いながら誰も来ないような奥まった場所に足をむける。

「・・・・・・・・んん?」

普段は人っこ一人いない場所に、その日は先客がいた。簡素なYシャツにダメージジーンズを履いた、紫色の髪をした男性が、汚れなど気にせずに路地裏の壁に身をもたれかけて座っていた。スバルが懐かせるのに二日半かかった小さな子猫がその指先にすり寄っている。なんだか意中の子を寝取られたような気分になってすこしだけスバルは眉を寄せた。男の横顔が美しかったからというのも、少しはあったかもしれない。まさか猫までもが面食いなのだろうか。

「あの、」

あんたもその子猫が気になるんですか、と声をかけようとしただけだった。細い体が過剰なまでにスバルの発した二文字の音に震えて、男が勢いよくこちらを見た。そのこわばった頬に、緊張した体に、誰かにおびえているのだと察して足を止める。男の様子は二日前の子猫によく似ていた。

「え、と、悪い。話しかけて」
「あ、いや・・・」

スバルを認めて、緊張に張りつめた瞳が安堵にかかすかに緩んだ。俺はその子猫に餌をやりに来ただけですよ、とビニール袋を見せてアピールすると男はよろよろと立ちあがって後ろにさがり、その場所を譲ろうとした。スバルとしてはただ子猫をこちらによこしてくれればいいだけだったので、あわてて止める。

「いやいいっすよそんな退かなくて・・・ってかあんたふらふらじゃん。座っててよ」
「すまない・・・君の場所だったろうに」
「え、それはテリトリー的な?そんなん気にしませんて」

がさがさと袋を鳴らしたスバルに反応して、子猫が男の手を離れる。うにゃーんと餌をねだる声に微笑んで、猫缶をぱきりとあける。小さな動物がおいしそうに餌を食べる光景は良いものだ。特にそれがモフならば。スバルは動物の毛や手触りがよいものに目がないモフリストなのである。

「・・・・君の、子猫なのか?」
「いんや、三日前にここに捨てられててさ、今ようやく餌付けできたところなんだ。持って帰れるまであと2日は必要そうだけど」
「飼うのか」
「まぁここにいたら死ぬっしょ?」

餌をとれるような大きさではないし、周りに飲食店もない。猫が毎日にぃにぃ鳴いているのに助けようとする人間もいない、ならば、とスバルはその役を買って出た。幸いなことにスバルの住むアパートはペット可能なのである。

「てか、お兄さん大丈夫かよ。めちゃ顔色悪いよな」
「・・・・・・・・」

ぽた、と男の顎をつたってしたに落ちた汗に顔をしかめる。具合が悪そうだし、顔色は今にも倒れるんじゃないかと思うぐらい白い。息も荒くなってきているし、目は充血している。どこからどうみても体調不良です、それか重度の病人です、とでもいうような有様だった。
子猫に飯を食わせながら、男の体調をうかがったスバルに男が薄く微笑む。ぎゅう、と自分の右腕を強く握りしめて、よろよろと立ちあがったのに声をかける。

「ちょっと!座ってたほうがいいって」
「・・・・・・君は優しいんだな」
「へ」

壁にもたれかかりながら、男がよろよろとスバルへ近づいてくる。冷や汗に濡れた額に髪が張り付いているのがどこか凄みを感じさせて、無意識に足が一歩後ろへ下がった。スバルの前でへたり込みそうになった男の腕をあわててつかんで、地面に倒れるのを防ぐ。

「ちょっとあんた・・・うわ、すげぇあついんですけど!なんでこんな体で外に・・・・」
「・・・・君に、頼みがある」
「え?何?今ここでゲロ吐くからそれを受け止めてください以外のことだったら聞いてやるけど・・・なんならパシリも可能、ちょっとしたとこにコンビニあるし、たぶんポカリ飲んだほうがいいと思うし」
「いや、それはいい」

力なく肩をつかまれる。全く力が入っていない手は男の体調が本当に悪いことの表れだろう。救急車を、と言ったスバルに力なく首を振って、男がまた笑う。濁った色をした黄色がスバルを見た。病んだ星の色だ、とスバルは思った。男の息はどこか甘く、退廃的な香りがしている。イケメンの息は甘いのか、知らなかった、ととても近い顔に半ばスバルが現実逃避をしていると男がすがるような声音でスバルに言った。

「捨てられた猫に慈悲をかけ、見知らぬ人間の心配をする。君のその優しさに付けこむ私のことをいくらでも罵ってくれて構わない、・・・・・・どうか、私を、助けてもらえないだろうか・・・」
「えっ」
「・・・・頼む、」

お願いだから、と絞り出すように言って男が崩れ落ちそうになる。肩から落ちそうになった手首に、Tシャツの陰になって見えなかった、まるで何かで縛られていたようなひどい擦過傷を認めて、それからうなだれた男の首の後ろにいくつか押されたタバコの痕を見て、見てしまって、それでもって縋られてしまったスバルは覚悟を決めた。猫缶を食べ終わって満腹になった猫が、人間の事情なんてしらないわとでも言うようににゃあと満足げに鳴いた。







スバルに縋り付いたあと半ば気を失ってしまったようになった男に肩を貸しつつ、スバルは自分の部屋へと戻ってきた。立つのが相当つらいらしく、玄関の壁に寄りかかったまま動かない男をどうにかクッションを下に敷いた場所まで誘導する。背中を壁につけるようにさせて、コップに水をたっぷり2杯、それも少々塩を入れて飲ませる。熱があるからだろう、男はかなり発汗していたのだ。

「……ありが、とう。頼みを、聞いてくれて…」
「どーいたしまして。まぁ……うん。その、連れて来ちまったからにはある程度助けるけどよ。まず風呂入ってもらっていい?」
「………」

汗がすごいから、と言うと男は少しの沈黙の後、目を伏せて頷いた。自分で動くのが非常につらそうだったのでとりあえず上だけはスバルが脱がせてやることにした。風邪を引いて体に力が入らない時、何よりも苦痛だったのは手が滑ってなかなかとれないパジャマのボタンだからだ。ぷち、ぷち、とボタンを外していくと、外見通りあまり肉のついていない薄い体が現れた。しかし、そこに刻まれている大小様々な傷跡があまりにも痛々しくて思わず少し顔をしかめると、スバルの表情をじっと見つめていた男の体がかすかに強張った。

「なんだこれ、あんた奴隷でもやってたの?」
「……そう、だな。そのようなものだ」
「…ぅ、ごめん、無神経なこと言った」
「いや、かまわない」

スバルの質問に男がうっすらと笑った。自虐的な輝きを瞳に見て、あまりにも無神経だったと謝ったスバルに男がさらりとそう返す。かまわないわけがない、火傷のような跡もあれば、刃物で傷つけられたようなものもある。幸いなことに打撲痕のような目立った皮膚の変色はないが、元はそうだったのだろうと思わしき箇所がいくつかある。しかしそれにしてもやけに切り傷が多かった。まるで嬲ることを目的としていたかのように。

赤の他人に服を脱がせられているからだろうか、やけに強張っている体を少し前に倒してもらって、袖から腕を引き抜く。その際に、次は右腕に大量に残る青く変色した注射痕を見つけてしまってスバルは思わず息を呑んだ。それが一つ二つならまだよかった、しかし内出血するほどに、となると話は違ってくる。

「………これ、」
「それ、は」
「ちょっと前に大量に予防接種打ちましたーとかじゃないんだよな?」
「……ちがう、騙されて、うたれたんだ。…裏社会とも、関係はないから」

スバルの顔色を窺うような表情をした男の、生気のない瞳が泣きそうに歪んだ。騙された、という言葉もそうだし、見るからにヤク打たれてるし、どうやら先ほどスバルが口にした「奴隷」という言葉は当たらずとも遠からずだったのだろう。また他人の弱いところをつついてしまった、と心の中で頭を抱えながら男に手を差し出す。謝ることは後でいくらでもできるが、さしあたって解決しなければいけないのは今の状況だ。

「わかった。とりあえずズボンは脱衣所で脱いでくれ。風呂、案内するから」
「……訳を、きかないのか?」

差し出された手と、その後のスバルの言葉を聞いて、男があっけにとられたようにスバルの顔を見た。そりゃあ訳はききたい。スバル自身の保身のことも、単純で下世話な好奇心も多量にある。しかし。

「聞くだけなら後でも聞けるし、今んところ俺が一番重要だなって思ってるのはあんたの体調だし」

だからとりあえず立ちあがってくれ、と促すと男はなんだか惚けたような顔をして、それから立ちあがろうと、したのだと思う。少し力を入れただけで後ろに倒れこんで、というより壁に寄りかかってしまった。思わず逆だぞ、とつっこむと何度かもぞもぞと体を動かしたあとに、とてもすまなそうに男が言った。

「たいへん申し訳ないのだが、腰がぬけたようだ」
「え?!なんで!?さっき腰が抜けるような要素あったかな俺わっかんねーわ」
「……その、はずかしいのだが…安心した、のだとおもう。体にちからがはいらなくて」

言われてみれば、先ほどまで硬直しているといってもいいほど強張っていた体から力が抜けている。たったあれだけの言葉でか、と少し驚きながら見つめるとぐんにゃりと壁に寄りかかった男が恥ずかし気に身を捩った。それは他人からのほんの少しの心配だけで脱力してしまうほど今までがよほど劣悪な環境だったのか、もしくは単純に男がスバルを信じていなかったのか、まぁどうせ両方だろう。前者はともかく、自分から頼ってきたくせにこの男はバカなのだなとスバルは思った。

しょうがない、と屈みこんで両脇に手を差し入れる。他人の肌のべたつく感触が少々気持ち悪いが、そんなことは言っていられない。抱き起こして、肩に背負う。細くてもなんだかんだで成人男性なら50キロはあるだろう。筋トレをしていてよかったと思いながら風呂場まで男の補助をする。

「……すまない、めいわくをかける」
「そんなこと言ったらこっちは拾ってきた時点で迷惑かけられっぱなしだ!承知でやってんだよ。お前も承知で俺に頼ってきたんだろ?……よし、謝るの禁止な。謝ったら思いっきり尻を叩くぞ。覚悟しろよ」
「なんだ罰はそんなものでいいのか」
「そういう闇をにおわせるような発言、やめな?」

なにやら闇を抱えた人間が言うと全く洒落にならない。抗議の意味をこめて脇腹を軽くつつくと男は目を細めた。唇がかすかに弧を描いたのを見て、なんだ一応笑えるんじゃんとスバルは思った。だってこれまでスバルが見てきた男の笑みときたら、媚びと怯えと諦めに塗れていてそれはそれはひどいものだったので。




風呂場に連れてきたのはいいものの、どう考えても転倒するかシャワーヘッドを足に落としたりする未来が見えたのでスバルも一緒に風呂に入ることとなった。ひとり暮らしの部屋の狭い浴槽の中に全裸の男同士で二人きり・・・ぞっとするぜと思いながら男がもたもたとズボンから足を引っこ抜くのを見守る。ようやく全裸になった男がそれだけで力尽きたように壁にもたれかかるのを見て、やっぱり一人きりで何もかも任せることに不安要素しかないなと思った。しょうがない、しばらくは介護生活だろう。

「よし、風呂入るぞ」
「……しつねんしていた」
「ん?」
「たいへんすまなく思う…君がさきほど言った通り、わたしはどれいのような扱いをうけていてね。その、なんだ。なんといえばいいか」

壁に頭をつけたまま男が何かをボソボソとつぶやいた。聞き取れなくて耳を近づけたスバルをちらりと見て、男は何もかもを諦めたような深いため息をついた。何勝手に絶望してんだこいつとスバルは思った。

「どしたの」
「……尻に性具が入っている」
「え、なに?せいぐ?なに?」
「アダルトグッズのことだ」
「それはわかってるよ。……俺にどうしろと?いや、抜いてくれって言ってんだよな。…ええ?」

どこのAVの世界だ、と思わずスバルは絶句した。こいつは男、つまり穴は1つ。そしてそこにはアナルという単語が名称に入っている何かが挿入されているのだろう。なんで入れたままなんだよ、という気持ち半分、着の身着のままで隙を見て逃げ出してきたんだろうな、という気持ち半分。まざりあってなんとも言えない気分になる。

「……まぁ、いーよ腹くくるよ。やってやろうじゃん何が入ってんだ?!ディルドか?アナルパールか?それとも俺が知らないなんかよくわかんねーえげつない何かか?!」
「私もしっかり把握はできていないのだが、腹の歪な圧迫感やこれまでの傾向から考えると…恐らくアナルパールだろうな」
「わかった。いらない情報をどうもありがとう」

体験談と腹部の違和感の感想はちょっと要らなかった。どうすればいい、と男に尋ねると少し首を傾げて、自分の尻に手をやった。くぷ、と小さく粘性の音が聞こえて、それから男の人差し指に、紐がついた小さな輪っかを引っ掛け出されてくる。

「…これを、ゆっくりと引っ張ってくれればとれる」
「自分じゃ無理?」
「奥まで入り込んでいるんだ。腕の力が足りなくて…」
「左様でございますか…」

困ったような顔をされて、スバルも釣られて困ったような顔になった。なんだかあまりにも非日常すぎてこちらまで体調が悪くなりそうだった。とりあえず男が楽だろう体勢になってもらって、人差し指の輪っかを引き受ける。ぬる、とわっかについていた滑りがある何かの液体の存在は考えないことにした。

後ろ向きになって、壁に手を付け、少し足を開いた男が顔をわずかに後ろに向けてじっとスバルを見た。生気のない瞳が無言で謝罪を伝えてきたのを見て、喉に上がりそうになっていた文句を飲み込んだ。そもそもこいつが悪いわけじゃない。悪いのはこいつを騙して、シャブ打って、こんなのを中に仕込んだどっかの人間だ。

「……じゃあ、引きぬくんで」
「よろしく、たのむ」

ゆっくりと紐を引っ張ると何かがやわらかい場所をかき分けて進み始める感触がした。男がぐ、と息を詰める。震える太腿と尻のその奥、薄ピンク色をした穴から真っ赤な球体がその一部をのぞかせたのを思わず見てしまって、後悔した。あまりにも生々しくて、まるで現実じゃないみたいだった。本来なら排泄のために使われる場所がローションとみられる液体に濡れてこんなに艶めかしく、柔らかそうで、本当に性器のようになっているだなんて正直なところスバルは全然知りたくなかった。

「ぅ、あ、…」
「……痛い?」
「…もんだいは、ない。それよりもはやく」

かすれた声で早く抜いてくれ、と言われたのでぐいと少し強めに引っ張る。ぐぽ、とこれまた何とも言えない卑猥な水音がして、球体が穴から排出された。すこし大きめのゴルフボールほどもあるその球が男の腹の中に入っていたとは到底思えなくて思わずまじまじと眺めてしまった。疑似的な排泄の余韻にかひくつく穴がこれまたエロい。うっすらとその口を開けて、時折収縮するのが「触ってくれ」とでも言われてるような気分になる。

「……きみは、じらすのが好きなのか?」
「あ、あーわり。ごめんちょっと現実逃避を…」
「気持ちは十二分にわかるが、この状況で、そうされている身としては……すこし、恨むぞ」

潤んだ目で睨みつけられて、しかしいっそう白くなった顔色と浮かんだ汗のせいで頬に張り付いた髪の毛を見て我に返る。先程は喘ぎ声のような声を上げていたが、よく考えれば気持ちがいいはずがない。体調が最悪なときに性欲が優先させられるような体を持つ人間はいないだろう。

慌ててゆっくりと、しかし比較的早く紐を引く。球が体内から出て行くたびに男の体はどんどん崩れ落ちそうになっていくし、穴の入り口は美味しそうに赤く熟れていくしで地獄のようだ。主にそれを見ていなくては行けないスバルの心境が。

七個目に一際大きな球が出てきて、それで終わりだった。ほとんど壁に縋り付くようになってしまっている男の荒い息が脱衣場に響いている。床にごろりと転がった七個目の赤い球体はちょっと想像したくもない液体に塗れている。あとでアルコール消毒しよ、と思いながらひとまずそれを打ち捨てて、かりかりと爪で壁をひっかき始めた男の腕を慌てて捕まえた。

「ちょ、ちょ!うちは貸し賃!」
「ぁ……ぁあぁああ……っ!」
「は?まて!おいこら!こっち戻ってこい!」

ぼんやりとした瞳がここではないどこかを見ている。スバルのことなど目に入らないかのように、恐怖で彩られた瞳がきょろきょろと焦点を結ばないまま動き続けている。口の端から溢れだした唾液の泡と、がくがくと大きくなり始めた震えにこりゃあかんと焦って、一旦手を離して男の肩を揺らす。

「……っガ、ぁぐっ、グ、……ぇ」
「うええええ嘘だろ?!」

一体何がきっかけだったのか、恐慌状態になった男の口端から出てくる泡が増えて、こぷ、と喉が変に鳴った時から嫌な予感はしていた。ぐぶぶ、と何かがあふれるような音と共に先ほど飲んだ水と胃液を口からダラダラと出されて、それが服にもろにかかってスバルは思わず悲鳴を上げた。






「すまなかった」
「おう」

謝ったら尻を叩くとは言ったが、流石にこの謝罪は受け取っておいた。吐いたらスッキリしたのか、男は先ほど恐慌状態などありませんでしたよみたいなすました顔をしている。ごうんごうんと洗濯機が回る音を聞きながら、スバルは全裸で腕を組んだ。あの怯えの理由を聞くか聞かないか迷ったスバルの顔をちらりと見て、男が口を開いた。

「本当にすまない。腹に仕込まれたものを抜かれたあとにはいつも地獄が待っていたのでね。ここではそんなことは無いと理解していたつもりだったんだが、逆にそれがよくなかったようだ」
「いいよそういうのは教えてくれなくて」
「しかし理由を知りたそうな顔をしていた」
「ポーカーフェイスが出来なくてごめんな?」

馬鹿正直に教えてくれなくてもいい、と言うと男は本当にいいのか?という顔をしながら頷いた。スバルが男の立場だったら絶対にそんなことは話したくない。逃げ出した場所での自分の扱いを他人に話すだなんて。

(………あ、ちがうか、縋ったから、正直に話してんのか)

スバルよりすこし大きな体を縮めて床に座っている男の顔を見る。無意識にだろうか、またあの媚びのような笑いを浮かべたのでそのほっぺを軽く引っ張って風呂に入るぞ、と告げた。

「俺も体洗いたいから」
「わかった」

よろよろと立ち上がろうとした男の腕を掴んで倒れないようにしながら風呂場に押し込む。まず洗うのは男が先だ。浴槽の中に座らせて、適温のシャワーを足からかけていく。

「自分で頭洗えるか?……いや、いいや。今日は俺が洗う」
「……ありがとう」
「初回特典特別サービスな」

シャンプーを泡立てて、汗でべたついている髪の毛を柔らかく洗っていく。すると男の体がどんどん脱力して、先ほど腰が抜けたと言っていた時のように柔らかくなっていった。ぐんにゃりと浴槽にもたれて、目を閉じている姿はまるで寝ているようだ。

「……起きてる?」
「うん…」

ふにゃふにゃと返事が帰ってきて、ぎりぎり寝ていないのだとわかる。しょうがなく湯船の中で頭を流してやって、リンスもそこでつけた。

「お客さん凝ってますねー」
「ううー」

リンスが髪に馴染むまで時間があるので、項にいくつかつけられている根性焼きの痕を避けて肩を揉んでみる。結構凝ってたのでしっかり揉みほぐしてやると男の口から気持ちよさそうな吐息が漏れた。未だ顔色は悪いものの血の気のめぐりは良くなったらしく少しは人の肌の色が戻ってくる。

「やべ。起きろー、おーい」
「ぅ、………」

そうやって調子に乗ったのが悪かったのだろう。リンスをあらい流し終わった後にやけに頭がゆらゆらし始めたなと思えば男は半分以上眠りに落ちていた。まだ体を洗ってない!と頬を軽くひっぱってもむずがるような顔をするだけで、睡眠の誘惑からは逃れられないらしい。

「……ま、いいか明日で」

そこまで汚れているとは思えない。とりあえず汗を流したからいいやと思って、男の上半身を浴槽から抱き上げる。裸同士で密着するのは正直避けたかったが仕方がない。何故ここまでしているのか、スバルにもよくわからないが、縋られていろんな暗い事情を少しとはいえ話されて、それで邪険にすることは出来なかった。男が子供のように、安堵したような表情で眠りについているのも理由の一つだが。

「…あ、そうだ」

一応ここは洗っておいたほうがいいのだろうか、とちょっと色んな意味でどきどきしながら男の尻に手を伸ばす。そこに対する大した知識はないが、尻の薬を買う羽目になる方が勘弁だ。シャワーを少し出して、男の腰骨の当たりに当てて、形のいい尻の奥へ指を進める。ふに、となんとなく想像してたよりも、包み込まれるようなすごく柔らかい感触がして思わず腕に鳥肌が立った。多分ローションと思わしきぬめぬめでぬるぬるしている穴が、生き物のようにスバルの指先をかすかに食んだ。

「………いれたいなら、どうぞ、君の好きにしてかまわない」
「うわひゃ?!」

突然耳元で掠れた声でそう囁かれて思わず奇声が漏れる。男の顔を見るとまたあの笑顔をしていた。笑いたくなんかないだろうに笑っている。歪な表情、昏い瞳。先ほどの安堵した顔が一瞬でどこかに消えてしまった。彼をそうさせたのは今のスバルだ。一声かければよかったのだと思ったらぐうと喉が鳴った。

「……起きてたのか。その、ちがうんだ、触ってごめんな」
「わたしはかまわないが。このからだが少しでもきみの役にたつのならば」
「違うって。炎症起こしたら嫌だなって思って、洗おうとしたんだ。ほんと悪かった」

だからそんな顔をしないでくれ、と半ば懇願のように言ったのだと思う。男が笑みを消した。困惑に揺れる瞳がスバルを見つめる。少しのあいだ見つめ合って、先に目をそらしたのは男の方だった。





「なんだ、寝ててよかったのに」
「……そんなおんしらずなまねはできない…」
「いや口調がぽやっぽやかよ寝ていいよ」

風呂から出して新品のパンツを引っ張り出して適当にスウェットとジャージを着せて(足の長さの違いによる殺意が沸いた)、先に万年床に放り込んでおいた男はスバルが風呂から出た時にもまだ眠っていなかった。きついのは我慢してもらおう、とスバルも布団の中に滑り込む。ソファなどがあったらそこでスバルが寝ればよかったのだが、貧乏大学生の一人暮らしの家にそんなものはおいていない。友人が来た時も基本は雑魚寝である。

「うわ、あったかい布団って最高……」

歯を磨いたり明日の準備をしたりと歩き回っている最中に冷えた足を布団に入れて、そこがちょうどよくあったまっているのに思わず声を漏らす。スバルのその感想に男の瞳がゆる、と微かに弧を描いて、あ、ちょっとうれしかったのかなと思った。この男はどうも目で感情を表すクセがあるようだ。なんとなく向かい合わせで顔を見合わせるとゆっくりと瞬きをされた。猫みてぇ。

「寝るか」

布団のそばのリモコンを使って電気を消す。消す前にもまだスバルを見ていた、猫みたいな黄色い瞳が光らないかなと思ったけどさすがに人間だったので光らなかった。おやすみ、と言うと少しの間のあとにおやすみなさいと返事が帰ってきた。その声が眠気でふにゃふにゃしているのにちょっと笑って、スバルも目を閉じる。

「……ありがとう」
「おうよ」

眠りに落ちる前に、聞こえるか聞こえないぐらいかの小さな声でそう聞こえた。だからもうほとんど寝ていたけれど、スバルは律儀に適当な返事をしてやった。ぐす、と鼻を啜る音が何度かしたような気がしたけど、それからもう男の声は聞こえなかった。

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スバルの爽やかだったはずの朝の目覚めは低い獣の唸り声で邪魔された。動物は飼ってねぇはずだと飛び起きたスバルの目に飛び込んできたのは部屋の隅で自分の手を思いっきり噛んでいる男の姿で、血こそは出ていないもののその明らかに様子がおかしい男を見て思わず喉から変な声が漏れた。

「お前、それ、何してんの・・・・・・・?」

ふ、ふ、と食いしばった歯の隙間から小刻みに息を漏らして目を瞑っていた男がスバルの声に反応してこちらをみた。ぎらぎらと血走ったその目は理性と狂気のはざまで揺れている。しかしスバルのことを認めたとたんにわずかに理性のほうが勝ち始めた、だろうか。スバルの問に答えようと手から口を離した時にぐち、と嫌な音が聞こえた。

「・・・・・・がきれた」
「あ?」
「くすりが、きれた。聞こえる、見えないもの、が見え、て」

だからこうして耐えている、と震える声で男が言った。そういえばこいつは打たれてたんだった、と急いでスマホをひっつかんで薬を抜く方法を探す。なんでも書いてあるネット様によれば水を大量に飲む、サウナに行く、とにかく汗をかいて排出すればだんだんと体から抜けていってくれるらしい。とりあえず、とコップに水を汲んで男のそばに近寄った。そういえば昨日は飲んだものを全て吐いてしまったのだったか。

「とりあえず水のめ、それでどんどん出すのがいいってネットに書いてあったから」
「・・・・わかった」

手が尋常じゃないぐらい震えていたので、スバルがコップを抱えて男の口に当てた。幾分他人の補助をするのが初めてのことなので、すこしこぼしてしまう。口と胸のあたりを濡らしてしまったことを詫びてタオルを持ってきて濡れた箇所を拭く。タオルをコップの下に当てないと難しそうだ。そうやって世話をしている間、ぼんやりとうつろな瞳がスバルを見つめ続けている。

「俺の顔になんかついてる?」
「・・・・・・・いや、きみの、顔を見て・・・」

かりかりと、深い歯形だらけの男の手が腕を掻いている。執拗に掻いている場所は注射痕が大量に散らばっているところだ。無意識になのだろうか、スバルの顔を食い入るように見つめつつ、どんどん強く激しくなっていくその行動に自分の顔は引きつっていないだろうか、とスバルは思った。静かな狂気が目の前で繰り広げられている。こんな半分正気ではなくなっている人間を見るのは初めてだった。

「見ていると・・・いま、わたしのまわりにあるものは見えているものと呼ぶ声はすべて本当のものじゃないのだと・・・すこし、それがわかって、助かっている」
「何が聞こえてんの・・・」
「何が?あれからはわたしをだましたおとこの声が聞こえるな」

そこから、と指さされたのはゴミ箱だった。男から丁度対角線の部屋の隅に置いてあるそれを見て、なんでこんなところにいるのか理解する。逃げようとしたのだろう。おもわずまじまじとそれを見つめているとゴミ箱を指さしている指が虚空をつかんで何かを脇に捨てるしぐさをした。幻覚もしっかり見ているようだと思っているうちにスバルの顔を覆ってしまっている何かをよけるように片手で顔の周りを払われる。次いで伸ばされた手がスバルの頬についていたものを、ものと言っても何もくっついていないのだが、を摘まんで捨てた。

「ああ、よかった・・・・」

顔色は相変わらず悪い、しかし触れた手だけは灼熱のように熱かった。きっと熱がでているせいでもあるのだろうが、何かをスバルの顔から捨ててそれでほっとしたような表情を見せられて、どうにかかけようとしていた言葉もとうとう口の中でしぼんでなくなってしまった。





放っておけなくて、大学は休んだ。今日は金曜日だ。明日明後日と休みで良かったとつくづく思う。友人にとりあえず代返のメールを送って、それから昨日の脱衣所のもろもろを片づける。二重にしたゴミ袋にアナルパールとそれからYシャツを押し込んで、薄めたアルコールでいろいろ拭いて、それからとりあえずズボンのポケットの中を調べる。もし男が何かを持ってきていたとしたらこの中に入っているはずだ。

尻ポケットには何もなかったので、脇についているポケットに手を突っ込むと折りたたまれた紙のたばが指に触れた。何の気なしにひっぱりだすと厚い金の束が出てきたので思わず取り落とす。床に福沢諭吉が描かれた紙幣がばらばらと散らばった。

「え・・・?やばい金じゃねーよな・・・」

裏社会とは関係がないとは言っていたが・・・とりあえず紙幣を拾い上げる。数えるとちょうど20万あった。後でこの金のことも聞かなければいけないだろう。あの状態の男に話が通じるかどうかは分からないが。

昨日何が何でも聞いておけばよかった、と舌うちをしながら脱衣所から出る。部屋の隅にうずくまった男がガリガリと今度は足首を掻き続けている。虫が湧いてくるから摘まんで捨てないといけないんだと怯えたようにスバルに言い訳をするのでどうしようもできずに放っておいている。幻覚のゴミ箱に幻覚の虫を放り込んで捨てている男の前に札束を出すと驚いたようにスバルの顔を見た。

「これ、なんだかわかる?」
「・・・・・お金かな」
「あんたのぽっけの中に入ってたんだけど・・・心当たりは?」
「ああ、あれなら逃げるときにとってきたんだ。しんぱいしなくても本当ならわたしが貰うべき正当な対価だ、これからめいわくをかけるだろう君につかってもらいたい」
「対価」
「いちじかん、五万円だったかな」

予想外に言葉が通じることにほっとしながらも、そういわれた言葉に眉をしかめる。体を売っていたということか、その割にはあれだけ嫌がっていた。騙されて薬を打たれた、逃げ出してきた、もらうべき正当な対価、つまりもらってはいなかったのだ。何気なく男からもたらされる情報の端から推測される事実はスバルにはひどく重苦しく感じる。何が楽しいのか今度はにこにことし始めた男がヨシュア、とスバルの向こう側に向かって微笑んだ。

「なんだ、あれから一年たってるのに、かわらない・・・」

肉と血が入り込んだ爪が虚空を掻く。母さまは元気なのか、と続けてこぼされた言葉に家族の幻覚を見ているのだと知った。思わずつかんだ手首など意に介さないように、まるでスバルがそこにいないように、男は幻覚にむかってしゃべり続ける。

「わたしはいま親切な人の家でせわになっているよ」

「しんぱいしなくてもきっともうすこしでもどれるとおもう」

「そうかヨシュア、今は何歳になったのかな・・・」

どこも見ていないからっぽな目が三日月の形に歪んでいる。14かぁと幸せそうに笑ったところでもう見ていられなくなった。なんでそんな家族の幻覚がよりにもよって、こんな状態の男を目の前にしているスバルの前に現れるのだ。狂気と現実の境目を漂い始めた不憫な男の目を覆ってやっても、きっと眼球なんて本当は使っていなかったのだろう。ただただ虚空を撫でて、男は笑っていた。






一人にするのは心配だったが、だからといってどこにも出かけないわけにはいかない。すぐに戻るから、と言い含めておいて、子猫に餌をやって、それから男の金で必要そうなものを買いそろえていく。生理食塩水、下着類、ポカリスエット、タオル、エトセトラ。それらを両手に引っ提げて、家に戻ってきたときにスバルを出迎えたのは玄関でうずくまる男の姿だった。

「・・・おい、どうした?」
「・・・・・・、・・・」

肩をゆすると正気の瞳がこちらを見返してきたので、とりあえず今は幻覚を見てないようだと安堵した。がたがたと震えているのは寒いのだろうか、腕をつかんで立ちあがらせて、布団へ向かう。ぶすくれたスバルの顔を男が伺っているのがわかる。やはり怯えたようなその表情が気に食わなくて、軽く頬を引っ張った。

「あのさ、俺のこの顔は元から・・・まぁ、あんたは十分めんどくさいけど、捨てるほど良心ないわけじゃないから」

布団に押し込んで、毛布でぐるぐる巻きにする。ぱちくりと瞬いた目の前でウィダーインゼリーの封を開けて、乾燥した唇に押し当てた。ぢゅ、と遠慮しいしい一口吸って、それから自分が乾いてたことに気づいたのか、そろりと布団の中から手が伸びて、ゼリーをつかんだ。

「・・・・ありがとう」
「はいはい」

ゆっくりとゼリーを時間をかけて胃に入れて、そのあとは生理食塩水とポカリも飲ませた。もう飲めない、と男が根を上げるまで飲ませたのは水責めのようになってしまったが薬を抜くにはこれしかないと書いてあったのだからしょうがない。

熱を測ったら38度近くあった。氷嚢を作ってやって頭の下に置く。相変わらずスバルの一挙一動を見つめる男が、自分の前の空間をうるさそうに払ったのを見てしまって結局幻覚自体は見えていないわけではないのだなと悟る。一日のうちどれほどが正気で、どれほどが狂気なのだろう。は、は、と荒い息を吐いて自分を抱きしめている男が抗うのは薬への欲求か、それとも脳裏に広がる極彩色の世界か。どちらもスバルには想像がつかない。手袋でも買ってきてやるかなぁ、とそんなことを思いながら漸く眠りについた男の爪を切った。少し深爪気味になってしまったけど、元から血と皮膚で赤く染まっていた爪の色は切るまえも切るあともそんなに変わらないのだった。





そんな生活が土日、と続いた。スバルもよく根気よく付き合ったと思う。こいつがもとに戻ったらなんか高いものおごってもらおう、と思いながらダラダラと顔中の穴という穴から体液を垂れ流してスバルにすがっている男の背中をぽんぽんと叩く。薬への欲求からか、ふらふらと玄関へ向かって扉を開けようとした男を止めたのはこれで10回を超えた。ドアノブをひねる寸前の手をつかむと、そこが限界だったのだろうか、くしゃりと顔をゆがめて縋りついてきたのを突き放す気力はもうなかった。というか、スバル自身もすげー疲れていた。

なんで俺バイトも休んでこんな粗大ごみに付き合って土日をつぶしているんだろう・・・とふと思って首を振る。たかが一介の学生にすぎないスバルにすがって震えて苦しんでいる姿ははた目から見ればかわいそうなのだが、それを世話しているスバル自身からすればこいつは人間の形をした粗大ごみのようなものだ。金をもらっていなかったらそろそろキレてもおかしくなかった。なんたってスバルに介護の経験はない。

「・・・・・おい、水飲むぞ」
「う、ぅぅうぅぅうう・・・・」

ぽんぽんと肩を叩くと唸り声が返ってきた。薄手の手袋をはめた指がスバルのTシャツをぎゅうぎゅうつかんでいる。それとこれとは別だが、薬への欲求に狂いながら大人しく指示に従う理性があるのは認めている。男を腕の中に抱きながら台所にずりずりと這いずっていって、コップに水をくむ。だんだんと目に狂気を宿し始めた男の口に当てると、震える手でもって受け取って飲み始めたぐらいにはここ数日でその行動は習慣化しているのだ。3杯ほど飲ませて、もう飲めないと自己申告をされたのでコップを回収する。

「わたし、は・・・・」
「ん」
「つくづく、きみに、めいわくを、かける・・・・」
「あーいいよもうあきらめてっから」

本人の意思でこうなっているわけではないのは知っているのだ。そういわれてはスバルが男を責めるわけにもいかない。いまだに名前も聞けていない男の背中を一定のリズムで叩いてやりながらずるずると壁を背に床に座り込む。スバルを離す気はないらしい男も一緒に。

「・・・・・お前さぁ」

片方で背中を宥めるように叩いて、もう片方で美しい色をした紫紺の髪を梳いて、ぽつりと男に問いかける。スバルの胸にぼろぼろと止まらない涙をこぼしながら男が上目遣いでスバルをみた。せっかくのイケメンなのに涙と鼻水と涎で台無しだ。もっとも、スバルはこんなものは序の口と言ってもいいほどに狂気で歪みまくった男の顔を見てきてはいるのだが。

「俺、大学生なんだよね。んでもって明日から平日、学校」
「・・・・・そう、だったのか」
「おう、ピチピチの大学3年生な。だから明日は俺、いないんだよな」

言ってる意味わかるか?と言うと男は呆然としながらもうなずいた。ぎゅう、とTシャツをつかむ手の力が強まって、不安になっているんだろうなとは思った。なんせスバルが止めないと外に出て元いた場所に戻ろうとするほどだ。ちなみに10数かい回中5回は殴り合いの喧嘩になった。男の力の入らない体と筋トレを欠かしていないスバルでは軍配はもちろんスバルに上がり、現在男の腹にはスバルが殴った内出血の痕が3か所はある。いいか、どんなことをしてでも私を止めてくれ、と正気の時に言われたので容赦なしに殴っている。ちなみに力を籠めすぎて一回だけ水と胃液のゲロをひっかぶった。

「もし、部屋から外に出たとして、俺はお前を探しにはいかない。てか、行けない。どこに行ったかもわかんねぇの、探せるわけがないから」
「・・・・・・・・・」
「だからいいか、絶対にドアに触れるな。触れたらお前、もうだめだから・・・それだけは脳みそに叩き込んどけ」

は、は、と男の息が荒くなり始めている。喉から漏れ始めた獣の唸り声はさっと首にかかっているタオルを噛ませて封印する。ぐいぐいと遠慮なく耳を引っ張ると少しばかり目に正気が戻り始めてほっとした。男には悪いが痛みが一番こちらに戻しやすい。むぐむぐと口を動かしてタオルを外に出した男が、ぐす、と一度鼻をならした。

「わ、かった。わたしは、ドアの、そばにいかない・・・やくそくする。きみと、やくそくする。違えてなるものか」
「俺はお前が間違ったってかまわない。いいか、俺と約束するな、お前自身と約束しろ」

それが出来なかったら、終わりだ。スバルにはどうすることもできない。いろんな液体に塗れた男の頬を両手で包んで、目をしっかりと合わせた。目を通りこして、その脳にその命令を焼き付けるように水晶体の奥を見た。ふる、と体を震わせた男が狂気とも何とも知れぬ感情を瞳に宿して頷いた。



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