「これ」


午後6時15分。
外も陽が沈みかけ、珍しく溜まっている仕事もなく、今日は一杯ひっかけて帰れそうと鼻歌交じりにジャケットに手をかけたその時。

ばさばさっとものすごい音を立て、私が座るデスク横のキャビネに振ってきたのは資料の山だった。


「あの、これは…?」

「週明けにある職員会議に使う資料だ」

「それがどうして私のデスクに…?」


恐る恐る、できるだけ機嫌を損ねないようやや上目遣いで尋ねたはずなのに、無駄だった。
初めから不機嫌さMAXのその人物は、眉間に皺を寄せたまま言い放った。


「来週の職員会議の議題について、過去に発言された記録を浚う。手伝え」


さようならアフターシックス、こんにちは残業。
とてもじゃないが拒否できるような様子ではない状況に、私は無言で椅子をひき腰をおろした。


鬼のような形相で、無言のプレッシャーをかけてくる教師、土方歳三、先生。

彼は私と同じ国語科の教員であると同時にこの高校の副校長を務めていた。
共用の職員室では副校長席なるものがあるが、ここ国語科ではただの教員だからか、副校長だろうが何だろうがお構いなしに、普通にデスクが置かれている。

しかし、それが何故私の後ろなのだろうか。

一方の私といえば去年入職したばかりのひよっこ同然の新米教員で。
学内では最年少教員ということもあり、何かと雑用やら雑用やら雑用を言い渡されるのも仕事の一つだ。
主に土方先生からのだが。

土方先生は普通に国語科教員としても、そして副校長としても、とんでもなく仕事のできる人間だった。
この学校はこの人で持ってるんじゃないの?と思うぐらい休みなく働いている様子は、一社会人としては大変尊敬できるものであることは間違いない。
しかし一上司としては、それはもう恐ろしいものがあった。

「ここ、職名が間違ってる。それからこの数字、根拠は?」

「はい、すみません…やり直します…」

「こっちは俺が見ておく。お前は向こうの棚から翌年度のファイルを探してきてくれ」

「はい、すみません。本当に…」


だったら最初から先生が見ればよかったですよねぇぇ!!??
などということは口が裂けても言えず、私は大人しくその言葉に従う。
これ、手伝いになってるのか?と己の行動に疑問を感じるものの、帰りますとはとてもじゃないが言える空気ではない。

土方先生は何かにつけて私に雑務(というなの先生の手伝い)を言い渡すのは、先に述べた通りである。
しかし繰り返すようだが、私はまだまだひよっこ教員。
とてもじゃないが、ハイスペック人間土方先生をサポートできるような能力など持ち合わせていない。
初めのうちは、これは先生なりの新米教員の育て方なのだろうかとポジティブな解釈をしていたが、最近は絶対にこれは単に後ろの席だからこき使いやすいだけだろうと思い始めている。
というか、絶対にそうである。

そういえばよく3年1組の沖田君が「土方先生って何であんなに女子生徒から人気あるんでしょうね。単なる鬼なのに」とかなんとか言っていたが、私も彼に同意見である。
あの怖さがまたいいというようなことを副担任を持っているクラスの女の子たちは花を飛ばすような勢いで語っていたが、きっと土方先生は生徒の前ではさすがにあの不機嫌度MAXの表情までは見せないのだろう。
(沖田君はよく怒られているのをみるのでわからないが。)
女子高生たちよ、君たちはあの眉目秀麗さに騙されているに違いない。
あと同じく3年1組の斎藤一くん。
彼も土方信者だと沖田君から話を聞いている。
信者って何の宗教なんだと話半分に聞いてはいたが、先日丁度土方先生が留守の時間に国語科室に訪ねてきた斎藤くんと一緒になり、すぐ戻ってくるだろうと中で待たせてあげると同時にちょっと何の用だったのかを聞くついでに話を始めたら、中身の10分の9くらいが土方先生に関する話で(もしかするとわざわざ共通の話題を提供してくれたのかもしれないが)、さすがの私も引いたのだった。
信じるられるのは残念ながら己のみである。


***


「はぁー…」

コキコキと首をならし、軽いため息とともに肩の力を緩める。
「これを全部打ちこめ」と渡された紙の束を片付けられたのは、時計の長針と短針がちょうど9で交わろうとするころだった。

「土方先生、終わりまし、た、よ…?」

くるりと椅子を回転させ、背後にいるはずの人物に声をかけるも、驚いたことにそこには誰もいなかった。

机の上には、まだスリープ状態にはなっていないPCがあるため、今さっきまでは席にいたはずである。
辺りを見回すも、そこまで広くないはずの国語科準備室は、どの教員の机も高い本で埋まっており、さらには壁も本一面のためあまり視界は良好ではない。
加えて目下節電が叫ばれるのは何も夏場だけではなく、特に学校なんて機関は年中無休で最大限の消灯が標準装備。
蛍光灯は己と土方先生の机のみを照らし、その他は暗闇が包んでいた。

「せんせーい…?」

おかしい、一体いつの間にいなくなったんだ。
暗闇に呼びかけても帰らない返事に、途端に不安が襲い掛かる。

残念ながら忍者でもなんでもないため人の気配など探れないにしろ、土方先生がどこかへ行くことにすら気づかないほど集中していたのだろうか。
確かに最後に時計を見てから一刻ほどたってはいるが、それにしても不安が先立つ。

もしかして、学校の怪談的なものに巻き込まれたのでは…?(土方先生が)

昔からこの手の話は苦手なため、思い至った途端不安は恐怖へと変わる。

ぎぎぎと身体を己の机へと戻し、鞄の中から携帯電話を取ろうと手を入れる。
…中々見つからない。
落ち着け、落ち着くのよ私。
大丈夫、PCの時計は21:45だもの、携帯の時計が4:44とかありえないから、大丈夫大丈夫だいじょうぶ。

ようやく見つけたそれを手にし、落としたままの電源を入れようとしたその時。



「白月」

「ぎゃあああぁああ!!!」


準備室の扉が開くと同時に発せられた声に、私は手にしていた携帯を放り投げ、絶叫した。


その叫びに、お互いに硬直したのはほんの数秒のことである。


「ひ、土方先生…」

「…大丈夫か?」


何が、といわない辺りに込められたものに気づきたくもないが、知っている人物であったことにくたりと力が抜けてしまった。

「よかった…」

怪談的なものに巻き込まれてなくて。(←重要)

ほっと息をつく私に怪訝そうな目が向けられるが、それよりも気になったのは先生の手に握られたものである。
あぁ、と視線の先に気づいた先生は、手にしたものをコトリと私の机に置いたのだった。

「これ…」

「途中で声をかけようかと思ったんだが、思いのほか集中してたからな」

まさに淹れたて、といったばかりに主張するのは立ち上る白い湯気。


「生憎菓子はもってないが、それなら飲めるだろ」


それは、糖分補給はこれに限ると疲れた時によくのむ、ココアだった。


「それ飲んだら帰るぞ」


自分用に入れたコーヒーと思われるものを口にしながら、土方先生は私に背を向けた。


「あ、ありがとうございますっ!」


至近距離にも関わらず場違いな大声に、一瞬土方先生がびくりとした気がしなくもないが、そんなことは気にならないくらいの驚きと嬉しさがその時私を襲っていた。
あの鬼の土方先生が新米教師のために飲み物を入れてくれるとは!
しかも特には言わなかったが、さりげなく私の動向を把握しているとは。
ココアですよココア。
土方先生が自分のためにココアを入れているところなんて見たことがない。
しかもココアのストックは共用の職員室にしかなかったはずである。(私調べで)
職員室に用があったついでか、はたまた本当にこれを入れるためだけに足を運んだのかは定かではないが、それでも普段からは想像もできない思わぬ優しさに、私は自然と笑顔になるのであった。


「にやにやしてないで、早く飲め」

「……はーい」


後ろを向いてるはずなのに恐るべし、土方先生。
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