31
ポツリポツリと、時折落ちる涙とともに。彼はひたすらにその心境を吐露していった。
長い長い夏の日にも関わらず、影のできる角度が変わり目が眩むような眩しさもいくらか軽減したころ、ようやく落ち着きが見え始める。
「落ち着いた?」
「…はい」
何度目になるかわからないが、彼は着ているシャツで目元をぐっと拭う。
念のために弁明しておくと、私が奇跡的に所持していたハンカチはとうにその役目を果たせなくなっており、彼はすみませんと謝りながら結局は自身が身に着けていた服で拭うしかなかった。
最もその服すらも随分と元の色と変わってしまった部分が目立ちはする。
ぐしょぐしょだね、と指摘すれば「本当だ」と照れくさそうに笑うその表情に、もう大丈夫だろうと数刻振りに腰を上げた。
「平助くん!」
タイミングを見計らったように聞こえた声の先には、千鶴ちゃんに加えて土方先生の姿もあった。
弾かれたように立ち上がった彼へ、彼女は駆け寄る。
続いてこちらへ向かう土方先生も珍しく慌てた様子であるように見えるが、私を認識しているにもかかわらずその点についてはさして驚きを見せないのは、おそらく凪辺りが上手く伝えてくれたに違いなかった。
先生の姿を確認した平助くんは一瞬身構えてはいたが(怒られると思ったに違いない)、それよりも涙ぐんだ声で「心配した」という千鶴ちゃんに、思わずつられてまた涙腺が緩みそうになっていた。
先生も先生で怒っている様子はなく、やはり心配したという感情が優先されているようで、二人が話す様子をほっとした目で見つめている。
もう大丈夫だろう。
あとのことは剣道部内で解決しそうだ。
そう判断した私は、3人が立つその場をそっと後にした。
「名前さん!」
後方から声が聞こえる。
「…ありがとうございました!」
返事の代わりに私は振り返ると、そっと微笑んで手を振った。
***
「おかえり」
まさかの合宿へきて半日練習不参加という暴挙であったにも関わらず(しかも昨日の夜のこともある)、そっと戻った先に待っていたのはさしていつもと様子の変わらないアンナちゃんや部員たちだった。
つい先日のようにお通夜のような雰囲気でないのはありがたいが、既に合同練習も終わり皆徐々に片付けだしている最中であるとはいえ、こうも普通の反応だとそれはそれで恐怖である。
「剣道部の方、大丈夫だったの?」
「凪から聞いたの?」
情報が早いなと思いつつ、アンナちゃんくらいになら確かに事情を細かに説明していても何らおかしいことはない。
しかし「それもあるけど、」とアンナちゃんは言葉を続けた。
「土方先生がわざわざ顔だしてったわよ。『名字は今日は剣道部の方で借りてるー』って」
「…そんな職権乱用ありなのかな」
「いやないでしょ」
いくら先生、しかも鬼と恐れられる人物の言葉とはいえ、当然部員の中には納得しきれない者もいるわけで。
「凪がOK出した、って説明もしてくれたのに加えて、頭を下げたのよ」
「…誰が?」
「土方先生が」
「なんと」
そんなことがあったとは。
「そういえば凪は?」
戻ってきたらある意味真っ先に駆けつけてきそうな人物の姿が見当たらないことに疑問を投げかけると、アンナちゃんは「ああ」と同じように辺りを見回す。
「多分今頃名前信者に囲まれでもしてるんじゃない?」
「ん?」
「ほら、流石に土方先生にそうまでされちゃ怒るに怒れないでしょ。なんでOK出したんだーって怒りを凪にでもぶつけてるんじゃない?」
「そうかそうか…ってそこじゃなくてさ」
名前信者って何?
「……」
私の問いに、アンナちゃんはただ無言で遠い目をするだけだった。
「ところで、結局そっちの問題は解決したわけ?」
「多分大丈夫なんじゃないかな。話を聞くに、結局みんなお互いを大事にしてるってところは揺るぎなさそうだったし」
必要だったのは、踏み出すきっかけ、今回の場合は話すきっかけだったのではないかと思う。
「そう、片が付くならよかった。正直これ以上剣道部にこっちの練習邪魔されちゃたまらないわよね」
「今剣道部のファンが近くにいたら刺されそうだよアンナちゃん」
辛辣っぷりは相変わらずの絶好調だが、こういう時、さして興味がなさそうに踏み入らないでくれるアンナちゃんはありがたい存在だ。千鶴ちゃんのことは彼女だって気にかけていたのだから、顛末を尋ねる権利はあるといっても過言ではない。
千鶴ちゃんの怪我の原因。それを平助くんは知っていた。
というよりも、千鶴ちゃんに怪我をさせていたその人物が、彼だったのだ。
「怪我をさせていた」という表現には語弊がある。
彼が少しずつ説明をしてくれたことを踏まえると、それは決して故意ではなくお互い承知の上のものであった。
「千鶴に、剣道の稽古を頼まれたんだ」
元々同じ剣道の道場に通っていたため、彼女が竹刀を握るがあることも、加えて決して素人ではない腕であることも十分に承知していたが、そうであるにも関わらず千鶴ちゃんは「強くなりたい」と願った。
頷くことに躊躇ったものの、その固い意志に稽古を承諾してしまった。
皆には知られたくないと道場ではなくお互いの家の近くで毎日少しずつ手合わせをしていたらしい。
防具をつけないという道場の方針から初めは加減をしていたものの、それでも力の差は生まれてしまう。加えて、受け流せず身体に竹刀を受けてしまうことがあっても、それでも千鶴ちゃんは頑なにそのまま続けることを望んだそうだ。
「千鶴、一部の女子生徒からはマネージャーって理由でよく思われてなかったんだ」
そのことを知った時、平助くんは真っ先に先生や先輩への相談を考えた。けれどそのことに千鶴ちゃんが頷くことはなく、稽古は続けられた。
千鶴ちゃんが何を思って剣を手にしたかは、彼女本人にしかわからない。
半ば強引な形で秘密を共有することになったことが、二人にとって負担にならなかったはずがない。
特に、高校入学以前からの付き合いのあったという剣道部の一部の面々へ対しては、ある意味罪悪感に似たような思いを抱いたことであろう。
結果的に先に耐えきれなかったのは、平助くんの方だった。
合宿へ来てから、レイの一件が起こる前に二人だけで話したのは一度だけ。
その時に皆へ打ち明けるか否か、小さな諍いを起こしてしまったきり。
この先をどうするのか、未だ定まらないまま千鶴ちゃんの怪我が周囲へ露呈してしまったのは昨晩。
そこからは今までの話通りの展開である。
「とはいえ、皆全く知らなかったってわけじゃなさそうだったしなぁ…」
「名前、何か言った?」
「ううん、こっちの話」
土方先生に斎藤くん、そしてレイも。
謀らずも話を聞くこととなった人たちの様子から、千鶴ちゃんも平助くんも、二人が思っている以上に周りは彼らのことを見守っているのだと傍から見た私は感じずにはいられない。
この後はきっと剣道部皆で平助くんと千鶴ちゃんを囲むんだろうなぁと想像すると、不謹慎ながらその光景が微笑ましく思えてしまった。
アンナちゃんの言う通りとまではいかないが、吹奏楽部も剣道部も、これで合宿に来た本来の目的を無事果たせるといいと一人ひっそりと思いながら、私は音楽室を後にした。
prev /
next