22
「名前、浮かない顔してんなー」
「…そう?」
結局部活が始まってからはこちらで手いっぱいとなり、他のことに労力を費やす余念もないまま半日が過ぎ、夕飯前の合奏も終わってしまった。
私の顔を不思議そうに覗きこむ凪に、一瞬沖田とのやり取りを知られているのではないかとひやりとする。
加えて斎藤くんに少しばかり相談したいにも関わらず、今日に限って凪がべったり張り付いていて(単なる偶然ではあるが)千鶴ちゃんのことを切り出せずにいた。
そして佐藤さんのことは、先程の一件故に尚更切り出しにくく、こちらに関しては己の中だけでどうにかしようとアンナちゃんにすら口を開いていない。
「うーん…あれか、そんなに土方先生が嫌か」
「…じゃあそういうことにしておく」
「じゃあってなんだよじゃあってー」と何やら喚く凪をスルーしつつ、脚は剣道場へと向かっていた。面倒ではあるが、ここまでの活動報告を土方先生にしなければならないのである。何が悲しくて休み事にこんなことをしなければならないんだ。いや、そりゃ面倒見てもらってるけども。
「俺、そういえばここの剣道場初めてかも」
「そっか。昨日も私一人で来たからね」
「夏の剣道場って最悪だよなー。むわってするもん、むわって」
「それ斎藤くんの前で言うのやめてね。喧嘩売ってると思われちゃうからね」
言いたいことはわかるが剣道部に喧嘩を売るほど私の度胸は大きくない。
それに斎藤くんの前で剣道部についてあれこれ言うのなんて以ての外である。私の株が下がったらどうしてくれるんだ。
「名前って最近斎藤贔屓だよなー。ひどい!俺というものがありながら!」
「誤解を招くようなこと言わないでよ!それに凪と斎藤くんじゃ比べ物になりませんー!」
「う、浮気者!アンナに言いつけてやる!」
「言いつけたところで何も起こらないけどね」
「確かに…」
ふふん、と少しばかり勝ち誇った気分に浸っていると、数メートル先の剣道場から原田先生が扉を開くのが見えた。
あれ、まだ練習中の時間のはずだけど…。
喋りながら来たせいで以外に時間を喰ってしまったかと二人で首をかしげていると、原田先生は苦笑しながらこちらに歩み寄った。
「お前ら、仲いいのはわかるけどこっちにまで筒抜けだぞー」
「…」
「夫婦漫才ってこういう感じなんだな」と大変不本意な感想をもらい、思わず苦虫をかみつぶしたような顔をする私とは対照的に、「よく言われるんですよねー」と間違いなく一度も言われたことのないであろう台詞を平然と口にする凪を、とりあえずしばき倒したいと思った。
***
合宿である以上当然ではあるが、中々一人になる時間がない。一人になろうと思えば、尚更である。
先生への報告も終わり、ようやく凪や吹奏楽部員から解放されたと考え事ついでに人の少ない宿泊棟の裏道を進んでいると、視界に人の影が過る。
わざわざ人気のない道を選んだというのにどうして今日はこうも人との遭遇率が高いのだろうか。
相手には申し訳ないがちょっとぐらい一人にさせてくれと、身を隠すように木の陰に隠れ、その人物が過ぎ去るのを伺うことにした。
しかしその心配は杞憂だったのか、こちらに人がくる気配はない。
今の時間出歩くのは夕食に向かう生徒ぐらいなはず。それならばこちらに向かってくるはずが、不思議に思いそっと顔をのぞかせた私の視界に入ったのは、昨日と今日で見慣れた人物の背中が消える瞬間だった。
それは見間違えるはずもない薄桜色のジャージ姿。
「千鶴ちゃん…?」
剣道部も練習は終えているはずなのでその姿が見えたことに不思議なことはないが、彼女が向かった先が問題だった。
今は使われていないはずの、旧宿泊棟。
彼女は間違いなく、その建物の中へと消えて行った。
新棟が建てられてから立ち入り禁止となったそこは、数年間人の手が入っていないためかまだ外見こそ綺麗なものの何処か不気味さを感じるものがある。日が暮れたら一層のことだろう。
まだ日没まで時間があるとはいえ、そもそも立ち入りが禁じられている場所へと消えて行った彼女をこのまま見過ごせるほどのスルースキルは生憎持ち合わせていない。(普段は発動してますけどね、対凪と沖田には)
今から追いかければすぐに見つかるだろうと、私は千鶴ちゃんの後を追い、夕焼けに照らされる棟の中へと踏み入った。
「どこ行ったんだろ…」
予想に反して千鶴ちゃんの姿は見当たらない。
マンモス校の宿泊棟だっただけあり、縦横共に広く、向かう方向を間違えば簡単には見つけられなさそうだ。
彼女が迷いなくここへと足を踏み入れていた以上、おそらく何か目的があってのことだろう。
誰かに呼ばれた、とか。
こんな趣味の悪いところに一体何の用なんだか。
埃っぽい校舎内をひたすら上へ上へと登り、千鶴ちゃんの影を探す。
そろそろ日の光だけでは先を見通すのが難しい。
最上階にたどり着いてもやはりその姿はなくて、もしかすると入れ違いになったのかもしれないと肩を落とす。彼女が無事に戻っていることに越したことはないが、とんだ取り越し苦労である。
とぼとぼと所々割れた窓から外を見降ろし廊下を端から端へと歩いていると、L字に曲がった廊下の先に人の姿を捉えた。
窓越しに見えたその人は間違いなく千鶴ちゃん。
階下に行かれて見失う前にと、慌ててその姿を追いかけた。
「千鶴ちゃん!」
「っ名前さん…」
すっかり薄暗くなった廊下を慎重に進んだ先にいた彼女は、ちょうど階下へ向かおうとしていたのか手すりに手をかけこちらに視線を向けた。
驚いたように目を見開く一方で、まるで私が追いかけてくることがわかっていたかのようにこちらに向き直る彼女。
どことなく不自然な様子に、怯えさせないようにとそっと近づく。
「こんなところで、どうしたの?」
問いかけに俯く彼女の表情は暗さも相まってわからない。
ただ、何かを伝えようと言葉を言い淀む仕草があり、「落ち着いてからでいいから」と宥めるよう声をかける。
「あのっ…」
「うん、どうしたの?」
「…っごめんなさい…私にもわからなくてっ…」
「…?」
面を上げた彼女に、「なにが、」と投げかけようとした私の言葉は、突如我が身を襲った衝撃に、全て紡がれることはなかった。
「…っ」
ふわりと襲う浮遊感。
咄嗟のことで何もできなかった私の体は、ただ力のかかった方向へ身を落とす。
「…っ名前さんっ!」
この後襲ってくるであろう衝撃に暗転する直前、最後に瞳に映ったのは、私の名を叫びしゃがみこむ千鶴ちゃんと、そして。
そうか、彼女の目的は、私だったのか。
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