■ ぎょうしゅ
校内にあるいくつもの廊下を、何度も何度も駆けめぐる。
通る度、あちこちにいた生徒の数は減り、つい先程、仲の良かった友達も、一足先に帰ってしまった。
それでも私には帰れない理由があった。
手にしたアルバムの最後のページ。
そこには、ここで過ごした3年間の間に出会った人たちからの言葉が詰まっていた。
同じように巣立つ友達はもちろん、数々のイベントを通して団結していったクラスメイト、可愛くて可愛くて仕方がなかった部活の後輩、お世話になった先生たち。
「これからもまた会おう」「大学でもそのままの渚でいてね」「先輩がいなくなるなんて寂しいです」など、色とりどりのペンで綴られた言葉に、まだ厳密にはこの学校の生徒でいるにも関わらず、胸が締めつけられる。
しかし、一番欲しい人からの言葉は、まだなかった。
教室、職員室、国語科準備室に校内唯一の喫煙所。
どこを何度覗いても、その姿は見当たらない。
今日のようなイベントは苦手そうであったから、早々に帰ってしまったのかもしれない。
それでも諦めきれず、何往復目かわからない道のりを辿る。
はじめは、単なる担任の先生だった。
朝のSHRと帰りのHR、それにあまり得意ではない古典の授業の担当。
接点はそれだけ。
担任である分、周りの生徒より接していたかもしれないが、クラスの中ではきっと遠い方だったに違いない。
ただ、賑やかなクラスメイトに囲まれる、その背中をみるのが好きだった。
たったそれだけ、それ以上はいらなかった。
「屋、上」
普段は立ち入り禁止の屋上、3年間で終ぞ足を踏み入れることはなかった。
ふと思いついたその場所は、今の自分の気持ちを整理するためにも、適しているようにも思えた。
階段を駆け上り、錆びついたドアノブに手をかける。
立ち入り禁止とはいえ鍵がかかっていないことは、生徒の間では周知の事実だ。
鉄でできた見かけに反して軽い扉に、思わず勢いがついてしまう。
開け放たれた空間から全身に纏わるように吹きこむ風は、まだ冷たさを残しており、間もなく桜の花が咲く季節になろうとは、思えなかった。
胸元のアルバムをぎゅっと抱え込み、視界に入ったある一点を見つめる。
フェンスに寄りかかり、空を見上げる白い影。
「坂田、先生」
その言葉に振り向く背中は、ずっと見つめてきたその人のもので。
「先生、すごく探したんですよ。」
風に揺れる銀色の髪は、今日が式典にも関わらず、いつものように無造作なままで。
「先生、タバコは吸わないんじゃなかったんですか。」
薄い唇がくわえているそれは、生徒の前では決して吸わないもので。
先生、と声に出さないと、その先の言葉が紡げなかった。
もっと伝えたいことがあるのに、先生、と言葉にしなければ、今ここに立っていられそうになかった。
「先生、わたし、今日で卒業するんです。」
卒業式では泣かなかった。
進学先は家から通える範囲の大学だし、今時連絡を取ろうと思えば携帯電話という便利な道具がある。
共に過ごしたクラスメイトとの別れに、悲しさを感じることはなかった。
けれども、この空間で、ここにいた人達と過ごした「時」は、流れゆくだけ。
そしてその中に、先生も入ってしまうのではないか。
私はここからいなくなるけれど、先生はずっと「ここ」にいてくれるのだろうか。
本来ならば先生が残る側であるはずなのに、何故か私が取り残されるような感覚だ。
視界が、滲む。
「白月、」
何時の間に近づいたのか、タバコの香りがしたかと思うと、ぐっと腕をひかれる。
先程まで風に晒されていたその身体は、そのまま先生の温もりに包まれた。
「泣くなら、ここで泣きなさい。」
背中に腕を回され、あやすように囁く優しい低い声は、張りつめていた糸を切るには十分だった。
縋るようにその温もりを求める。
その手を拒まず、受け止めてくれるのは、彼の優しさだろうか、それとも。
顔を埋める力を込める。
床に落ち風にページが捲れるアルバムも、今日という日に悲しいくらい相応しい青空も、嫌というほど見慣れた姿も、全て視界から消し去って。
先生にも、この言いようのない想いが伝わればいいのに。
***
しゃくりも次第に落ち着いたころ、背中に回されていた腕がふと緩まる。
このまま顔を上げるのは気恥ずかしく、依然その温もりに甘えたままだった。
しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。
顔を動かし、視界を広げると、放ったままのアルバムが飛びこむ。
先生、とまた声に出そうとすると、それよりも早く、坂田先生のその手が、アルバムを拾い上げた。
「折角みんなからコメントもらったんだ、大事に持って帰れよ。」
ついでに俺からも書いておくかと、ポケットからペンを取り出す。
4ページほどあったスペースには、白い部分はほとんど残っておらず、表や裏表紙にまで、色彩は及んでいた。
「…書いてくれるんですか?」
思わずそう尋ねると、悪戯を思いついたかのように、口の端をあげこちらをみる。
「俺からのメッセージ、貰いに来たんだろ?」
図星をさされ、顔に血が集まるのがわかり、とっさに俯く。
先生は全部お見通しだ。
パラパラとページをめくり、私が貰ったメッセージや3年間の写真を目で追う先生。
その行動すら照れくさく、声をかけずにはいられなくなってしまう。
「…先生は、他の子にも書いたんですか。」
質問をした後に、その言葉を後悔する。
どうして自分が悲しくなるようなことを聞いてしまったんだろう。
後悔の念に駆られていると、ふっと先生が笑う声がした。
「誰にも書いてねーよ。白月が、最初で最後。」
普段の学校生活では見せないような優しい表情の先生に、せっかくとまった涙が、また出そうになる。
自惚れてしまいそうで、口から出かかった言葉を寸のところでのみ込む。
この想いを抱いてから、決して言わなかったその言葉を。
そんな私の様子を先生はわかっているかもしれない。
けれども何も触れずに、またアルバムに目を戻し、ペンのキャップをはずした。
ペンを動かす音が止むと、その手が頭へと伸びる。
2,3度撫でられ、また離れていく。
名残惜しいが、これで最後。
私が「先生」と共にいるのは、今日でお終い。
「先生、私、ちょっと風に当たってから帰ります。どうぞ、先に戻ってください。」
「おう。あんまり遅くまで残るなよ。一応ここ、立ち入り禁止だから。」
「はい。」
私はフェンスへ、先生は扉へ、その足を進める。
ここで私の学校生活を、終わりにしよう。
正面を見据えていた目を空に向けた、その時。
「白月、」
「卒業おめでとう」
言葉とともに、扉が閉まる音がした。
「ありがとうございますっ…」
大好きな大好きな坂田先生。
どうか私という「生徒」がいたことを忘れないで。
先程渡されたアルバムを開き、先生からのメッセージを探す。
黒板で見慣れたその文字をみつけるのに、時間はかからなかった。
黒いペンで、一言。
文字を指でなぞり、先程までそこにあった香りを、温もりを思い返す。
溢れるのは、涙だけではなかった。
きっとこの言葉で、私は前に進めるに違いない。
“ここで待ってるから、迎えに来い”
ありがとうございました、大好きな坂田先生。
そしてまた、あなたの隣に立つ日を待ち望んで。
fin.
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坂田先生との関係はご想像にお任せ。
全ての卒業生へ。