■ 濡羽色に手を伸ばす
カタリと鳴る戸の音に瞳を開けると、先程まで隣で床を共にしていたはずの彼が静かに去ろうとしている姿が視界に入った。
「起こしてしまったか」
「・・・行かれるのですね」
未だ明けない時刻にも関わらずすっかり支度の調っているその姿は、休む間などあったのだろうかと疑問を覚えずにはいられなかった。本来ならば休息の場であるこの寝屋でさえ、彼にとっては安息の地ではないのだろうか。
「暫くここには来れなくなるだろう」
「・・・そうです、か」
私には、お気をつけて、という言葉以外に彼に向けることが出来る言葉は浮かばなかった。まだ揚屋に勤めていた頃は、口からいくらでも言葉は滑り出たのに。それを生業として過ごしていたはずなのに、どうしてか彼の前では、寡黙な彼と同じように口はその役割を全うしてくれなかった。
次に紡ぐべき言葉が見つからない私の様子はきっとお見通しなのだろう、彼はこちらを一瞥した後静かに戸を閉め、私の視界からその身を消した。
「江戸、ですか」
「ああ」
久しぶりにふらりとこの寝屋へと足を向けた彼に告げられたのは、彼を含めたその集団が、京の都を離れ江戸へと向かうということだった。
「準備が整い次第、都を発つ」
だから、と珍しく饒舌な彼が紡いだ言葉は、漠然と予想はしていたものだった。
「もうここへは来られない」
そっと目の前に差し出された金と共に、私に残されたものはそれだけだった。
「どうか、お気をつけて」
こんな時ですら、口から紡がれる言葉は、その一言だけだ。
政のことなど、微塵も興味はなかった。ただ、生きていければ、それでよかった。
彼が属する集団は、大きく変わろうとするこの国に深く関係していると知ってはいたけれど、だからといって女の身である私に出来ることなんて何もない。ただそれでも、彼の、彼の安らぎになれれば、それで良いと思っていた。
自身がただそれだけの存在だと知っていても、何処かで期待をしていたのかもしれない。
彼のものなど何一つないその部屋で最後にみたその背に、伸ばした手は空しく宙をきった。
***
いくら金があろうとも、女一人の身で屋敷に居続けることなどできるはずもなく、戦火が東へと移るころを見計らい、かつて生きるために必要であった芸とともに私は長年身を置いていた京を発った。
戦の勝敗はすでに決しているようなものだと訪れる先々で耳にする。
かつて戦場となった箇所を通らなければ先へ進めない道で、焼け残った旗印や甲冑を目にする度、脳裏にはあの人の影がちらつく。
江戸へ行った後は、一体どの地へ向かったのだろうか。
彼の大将であったはずの人物は、流山にてその首を落とされたと数ヶ月前に聞いた。そして残された集団は北へと戦地が移るとともに名を変え、更なる激戦の道を辿っていると。
もう、私には関係がないこと。
それでも私の眼は、耳は、彼らに、彼に関する情報を追うことをやめてはくれなかった。
あの時彼の背に手が届いていれば、何かが変わっただろうか。
***
放浪を続けた我が身は、かつて江戸と呼ばれた地でとある一座の目にとまり、そこへと根を張ることとなった。
久しく一つの場に留まることはなかったが、その間に娯楽に興ずる余裕のある世へと移ろったのだろう。
幸か不幸かその一座は日々人が溢れるほどの繁盛を見せており、かつての世を思い出す余念などないほどだった。
「渚さん」
世話になっている座長から、講演後にそっと声をかけられる。
彼の奥方もその昔自分と同じ処にいたことがあるときいてから、何かと気にかけてくれるのも頷ける。ここも、私のような身の人物を匿うためにはじめたそうで、時代の移ろいとともに公の存在になっていったのだった。
「私を、ですか…?」
彼から聞かされたのは、私を娶りたいという人物がここ数日座へと通っているということだった。
名が売れているということはないのに、何故だか私の名を聞いてから毎度のように座に現れるそうだ。
しかしそこまで入れ込んでもらうほどの理由など皆目つかず、またその人物への心当たりも微塵もない。
本当はそのようなことをする場ではないんだけれど、と申し訳なさそうにいう座長の表情からは嘘など感じられず、またここまで面倒を見てもらった恩から、話を無下にしようとも思えなかった。
「こんな行き遅れた女を貰おうだなんて、物好きな方ですね」
薄く笑った脳裏には、かつて見た漆黒が朧げに浮かんだ。
元々ないに等しい荷をまとめ、待つは来訪を知らせる声のみ。
名残などなくとも人生で二度も請けられるとは思いもよらなかった。聞けば相手はお役人のようだというが、芸しか持たぬ女が傍に添うことを許されるのだろうか。
妾にせよ、それに相応しい身でなければ世間に目も当てられない。
表に馬の鳴き声が聞こえ、今では大分珍しくなくなった革の履物であろう音が砂利道を進む音が聞こえる。
時代は、変わったものだ。
ようやく自分が、新しい時世に身を置いた気がした。
かの人がこちらへ歩み寄り、深く被っていた帽を手にとる。
さわりと頬を撫でた風が、彼の濡羽色の髪も揺らした。
「…あなたが、私を?」
問いかけに彼は、あの頃見せたことのないような穏やかな笑みを浮かべた。
「今度は、傍にいてやれる」
「はじめさま」と唇は形を作ったが、言葉は嗚咽でかき消され相手の耳に入ることはなかった。
その代わり彼は確かに私を、私の姿を目に留めてくれたのだった。
「渚」
何度も見送った姿は、今度こそ私の手の中にあった。
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唐突に書きたくなった幕末設定。
捏造だらけですみません…