パンドラにはならない



マダムがいないなんてことは想定の範囲内ですよ。
トム・リドルに手を引かれて連れられてきた無人の医務室をさっと見わたして、逃走経路を計算し最適な場所を割り出しながらベッドに腰かける。古いスプリングがきしりと音を立てた。
一体ここでなにをするつもりか。まさか治療と称してヤキ入れるつもりじゃないよね。
さて、と振り返った彼に思わず身構えるがその手に持っていたのはただの脱脂綿だった。

「上向いたらだめだよ。血液を飲み込むのは身体によくないから、できるだけ飲まないようにして」

そう言ってやさしく血を拭きとるトム・リドル。
言われたとおり飲み込まないように口を閉じたまま静かに治療を受けるわたしに、彼はふ、と小さく微笑んだ。

「今日はいつもと違っておとなしいね」

おとなしいって、わたし普段はそんなに忙(せわ)しないんでしょうか。・・・うん、忙しないわ、どちらかというと。

「いつもわたしを見てるみたいに言うね」
「見てるからね」
「・・・」

からかったつもりがさも当然のように返されてしまい面食らう。女の子が喜びそうな言葉を、よくもまあ恥ずかしげもなく。
彼が赤く染まった脱脂綿をゴミ箱に捨てるのを見ながら嫌味のひとつも言いたくなる。

「ミスターリドルは今日もいつもとお変わりないようでなによりです」

すると彼は楽しげに目を細め問うてくる。

「いつもの僕はきみから見てどうなの?」

言わなくてもわかっているだろうにあえて聞くなんていい性格だ。
しかしそこは空気を読んで発言を慎む日本人スキルを発揮しながら、「そろそろ次の授業に行かないと」と話をそらしておいたわたしはとても賢明だ。蛇の出るかもしれない藪はつつかないに限る。
少なくとも今は知らぬ存ぜぬを通すのが一番いいと判断し、早々に退散しようと立ち上がった。その瞬間、強い力で腕を引かれて体がよろける。

「ここにも血がついてるよ、ミス苗字」

トム・リドルの親指が私の唇をなぞる感触。無意識に肌があわ立つ。
至近距離で初めて見た彼の黒い瞳の中で刹那、どこまでも深い赤がちらりと揺らいだように見えた。


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