室内に漂う微かな甘い匂いが、無意識の内に頬を緩ませる。
 皿に盛られたすべらかな白いそれにフォークを突き刺す。尖端が果肉に食い込む感触。柔らかすぎず固すぎず、丁度食べ頃のそれを持ち上げると、ポタッと一粒果汁が滴った。
「ほら。」
 そう言って、向かい合って座る天馬の口元まで運んでやる。天馬は「自分で食べれますよ…。」と照れたみたいに顔を赤らめたけれど、素直に従って差し出されたそれに小さく噛みついた。
 鼻孔をくすぐる甘さが、一層強まった様に感じる。
「美味しい……!」
 感極まった様に瞳を輝かせながらたった一言呟かれた言葉に、俺は心底満足した。天馬は更にもう一口、今度は少し大きめに食んだ。口内を満たしているであろう甘さにやんわりと弛んだ頬を見ると、何だかこちらまで嬉しくなる。
「俺、こんな美味しい桃初めて食べました!」
「だろ?今年のはいつものに比べて、格段に味が良いんだ。」
 毎年夏場のこの時期に親戚から贈られてくる桃は、我が家での楽しみの一つになっている。つい先日贈られてきたそれも、箱に等間隔に収まった薄い桃色と淡く匂いたつ芳香から、上等な物であることが窺い知れた。
 冷蔵庫である程度冷やしてから食すと、それは思っていた以上に甘く、瑞々しく、夏の暑さで疲れた体に染み渡る様だった。
 咀嚼しながら、俺はふと、あいつにもこれを食わせてやりたいな、と思った。甘いものが好きだからきっと喜んでくれる筈だ、と。真っ青な空の下、同じ色の瞳を細める笑顔が脳内でくっきりと映し出された。毎日毎日サッカーばかりで、ロクに恋人らしいこともしていない。丁度いい機会だと、部屋着のポケットから取り出した携帯で簡単なメールを打った。期待と、ほんの少しの不安が一瞬にして胸の内を支配する。間も無くして、買ってもらったばかりという携帯で返ってきたたどたどしい返事は肯定を表していた。それに密かに安堵しながら、直ぐ様時間を指定したメールを返し携帯を閉じた。
 そして今日。案の定、天馬は顔を綻ばせて喜んでくれた。ふわふわと嬉しそうな顔のまま、また一口差し出された桃をかじる。
全てが天馬の口に収まったことを確認してから突き出したフォークをテーブルの上に置いた。そうして頬杖をついて、じっと天馬を見つめる。幸せそうに下がった目尻、甘さを噛み締める様にゆっくりと動く色づいた頬、果汁に濡れた唇。
 キスしたいと思った。その唇に噛みついて、めちゃくちゃにしたいと思った。まるで地面から水が滲み出る様にしてじわじわと、それは俺の頭を浸食していく。部屋中に満ちる甘い匂いや、珍しく恋人と二人きりという状況が、いやが上にもその欲を掻き立てる。
「霧野先輩。」
 天馬の声にハッとなって意識をそちらに向けると、ずいっと白い果実が目の前に差し出される。
「食べないんですか?」
「……いや、食うよ。」
 鼻先に突き付けられたそれを一口かじると、口内に優しい甘さが広がる。
 天馬はその目をいたずらっぽく光らせて、にんまりと笑んだ。もっと食べて下さい、という様に尖端に突き刺さる果実を微かに揺らす。
「はい、あーん。」
 まるで幼い子供に対して言う様な口調に少々ムッとして口をつぐむ。目だけで子供扱いするなと訴えてはみるが、天馬はそんなものどこ吹く風といった様子で楽しそうに笑っている。無邪気極まりないその様子に、つい先程までキスしたいとか、めちゃくちゃにしたいとか、少々いかがわしい想像をしていた手前、文句を言うのも憚られた。それでも目だけの抗議は止めずに、大口で目の前の桃にかじりつく。どこまでも甘いそれに一瞬目尻が下がりそうになるが、そこはぐっと堪えた。
 何だか面白くないと感じながら、そのまま更にもう一口、口に含もうとした時をだった。
 フォークの尖端の果実から甘い汁がじわりと溢れ、フォークの柄をゆっくりとした速度で伝っていく。玉の様な雫は、そうして天馬の人差し指を濡らした。
 天馬はちっとも気にしていない様だった。相変わらずのにこにことした笑顔を俺に向けている。
「………。」
 頭の中に一つの考えがひらめく。これを実行すれば、天馬はその顔を赤く染めて、戸惑いを見せてくれるだろうか。
 目の前の桃の最後の一欠片を口にする。それを確認すると、天馬はスッとフォークをひこうとした。その手首を掴んでひき止める。驚きに目を丸くするその表情はきょとんとしていて、あどけなさを強く感じさせる。
「霧野先輩…?」
 握られたままのフォークを抜き取り、適当な場所へ置く。そうしてフォークを持っていた時の状態で固まる天馬の指先を、パクリとくわえた。
「っ、き、きりのせんぱっ…!?」
 慌てた様な天馬の言葉を無視し、爪を軽く食んだ。柔らかな肉とは違う硬質な歯触り。ちゅ、と音をたてて吸うと、びくりとその体が揺れた。ゆっくりと舌を這わせば、天馬は小さく震えて微かに声を漏らした。 果汁に濡れたそこは仄かに甘く、じんわりと温かい。
「せん、ぱ、い……も、や、」
 ちらりと顔を上げれば、濡れた瞳と視線が交わった。真っ赤な顔と羞恥に滲む青い瞳、言葉をなくして震える唇。
 思惑通りの反応に気をよくして、思わず口元がつり上がる。
 指先に軽く口づけて口内から解放してやると、銀糸が尾を引く様にして流れた。
 掴んだままの手首から高めの体温が手のひらに移って、そこだけがぼんやりと温かい。
 天馬は顔を赤くしたまま硬直している。信じられないという様な顔だ。けれどその瞳には確かな色が灯っていて、とろりと溶けてしまいそうな位に熱っぽかった。あえかに開く唇が、妙に艶かしく俺の目に映った。
「天馬。」
 テーブルに手をついて、身を乗り出す様にして天馬の方へ顔を寄せる。突然近づいてきた俺に天馬は一瞬、びくりと肩を揺らした。それからほんの僅かに惑って視線を左右に動かし、観念したのかその瞳をゆっくりと閉じた。量の多い睫毛がふるりと震える。
固く閉ざされた唇に、自分のそれを押しつける。柔らかなそこは、桃の果汁のせいで少しベタついていた。そっと舌を這わせれば微かに甘い。 恥ずかしさに耐える様にギュッと目を瞑り、口を開けまいと力を込める天馬が可愛くて仕方がなかった。
「天馬、天馬。」
「ん、ぅ。」
 名前を呼んで啄む様なキスを繰り返せば、その内天馬も応えてくれる様になった。つたないながらも一生懸命なそれに胸の内がじんわりと熱くなる。
 可愛い、好きだ、と募る想いをキスに込めて繰り返す。
 この部屋にある全てのものが幸福な甘さに満たされている気がした。砂糖みたいなベタベタしたものじゃない、もっと透明で柔らかな、甘い空気。感じたことのない、驚異的なまでの充足感が身体中に染み込んでいく。
 最後に軽いリップ音をたてて唇を離すと、隠されていた青い瞳と目があった。熱に浮かされた様にぼうっとした顔。照れて赤く染まった眦が愛おしい。
「……もう、ほんと、恥ずかしい…。」
 困った様な声とは裏腹に、満更でもなさそうな照れた笑みに胸が締め付けられる様に痛んだ。甘くて苦しくて、すぐそばの小さな手のひらを力を込めて握り込む。天馬は溶けそうな瞳でそれを見つめたあと、僅かな間をおいて指先を絡める様に握り返してくれた。
 幸福を詰め込んだ様な甘さに酔いながら、俺たちは見つめあって笑う。
「なあ、天馬。」
「?はい。」
「もう一回。」
「……どうぞ。」
 ふわりと細められた青が、ゆっくりと隠される。
 傍らの白い皿に盛られた桃は、時間がたってもなお柔かな白色をしている。甘い匂いを放つそれが、けれど今はいつもより色褪せて見えた。何せ目の前には、もっと魅力的でもっと甘いものがあるのだ。
 俺はもう一度、目の前の薄く色づく唇を食んだ。









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