「げ…降ってきやがった。」
熱を持った空気が匂う様に辺りに漂っている。見上げた先の白っぽく明るい空からぱたぱたと控えめに雫が落ちてきて、瞬く間にそれは土砂降りの大雨に変わった。
「ついてねぇなぁ…」
ぼそりと独りごちる。練習が終わり、疲れきった身体でサッカー棟から出てきた途端これだ。
朝はあんなに晴れていたのに、と恨めしい気持ちになる。雨が降るなんて考えもしなかったから、もちろん傘なんて持ってきていない。どうしたものかと頭を悩ませるけれど、友人達は既に帰路についているし、親は仕事で家にいない。かといって、この雨の中を強行突破して帰れば確実に制服がびしょ濡れになるだろうし、そうなった時の母さんの鬼の様な形相が目に浮かんでここから動く気にもなれない。
纏わりつく様な湿った空気に苛立ちが積る。運動後のさっぱりしたものと違う、蒸し暑さによるベタつく汗が不快だった。
雨粒が地に打ち付けられる濡れた音がひっきりなしに耳に届く。地面の窪んだ所には既に水溜まりが出来ていて、いくつもの波紋が我先にと広がっては消えていく。
手の甲で額にじとりとかいた汗を拭い、苛立つ気を落ち着け様と一つ溜め息をつく。
仕方ない。雨足が弱まるまでここで待とう。
どうせ夏場によくある夕立だろうから、室内に戻る気も起きず玄関の軒下で立って待つことにする。
これくらいの雨、すぐに止む。そうしたらまた馬鹿みたいに晴れた青空を拝める筈だ。


そう思って、待つこと数十分。
雨宿りに使っている軒の端からぼたぼたと雨水が流れ落ちていく。地を打つ音は大きくなる一方で、止む気配は一向に見えない。むしろ強まっている。完全に、帰る機会を逃した。
落胆して、口から大きな溜め息が零れる。
やっぱり無理をしてでもさっき帰っておけばよかった。いや、でも、さっきも今もびしょ濡れになる事に変わりはないか……。
今更考えたって仕方のない事を、疲労で鈍った頭は際限なく考え始める。
何にせよ、当分帰れそうにはない。その事実に再び出そうになる溜め息をぐっと飲み込む。
「うわぁ酷い雨…。」
扉の開く甲高い音と共に聞こえた声に、思わず眉間に皺が寄った。
聞き知った、けれど出来うる事なら関わりたくない奴の声だった。そっと視線を後ろに向けると、そこにいたのは案の定後輩の松風天馬だった。音をたてて降る雨のせいか、その表情は珍しく曇っている。
「あ、倉間先輩。」
俺を見とめると、松風は途端に顔を明るくさせた。練習お疲れさまでした、と言って頭を下げる。
返事をする気にもなれず、無言のまま目を反らした。
どうにもこの後輩は苦手だ。どれだけ邪険に扱っても怯む事なくまっすぐに向かってくるその姿勢も、サッカーに対する屈託の無さも、『本当のサッカー』なんていう幻想を、馬鹿みたいに真面目に信じ込んでいるところも。
こいつを見ていると、胸の奥がチリチリと焦げて火傷をした時の様な痛みを感じる。俺がやっとの思いで捨てたモノ、それと引き替えに手に入れた安寧に小さな亀裂が生じる感覚。足場の崩れる様な恐怖と焦燥感、そして、認め難くも確かに在る微小な羨望に苛まれて、こいつを前に口から出る言葉は悪態ばかりだ。
靴音が耳に届く。こっそりと後ろに目をやれば、松風は何を思っているのか、薄明かるい空をぼんやり眺めたまま俺の真横の辺りまで歩いてきていた。手には鮮やかな空色の傘が握られている。
さっさと帰ればいいのに。そう思ったけれど、何も口に出す様な事でもないから黙ったままでいた。
松風との距離は僅か数十糎。仮にも同じ部活の部員であるのに、お互いに会話はない。あるのは沈黙と微妙に重たい空気だけで、それが酷く気詰まりだった。何だか落ち着かなくなって視線をふらふらさ迷わせていると、唐突に松風と目が合った。しまった、と思ったけれど、その青い大きな瞳から、何故か目を反らす事が出来ない。
時間にすればたった数秒の事が、いやに長く感じられた。
沈黙を破ったのは、松風だった。
「あの、倉間先輩……傘、忘れたんですか…?」
おずおずとしたその問いに、は、という間抜けな声が漏れる。突然の松風の発言に図星を指されたせいか、何か言おうとはするものの中々言葉が出てこない。
そんな俺の様子には微塵も気づいていない松風は、ぽつぽつと言葉を続ける。
「先輩、俺が来てからも一向に動かないし、誰かを待ってるって訳でもなさそうだったんで……気になって。」
松風の声には珍しく躊躇いが含まれていた。おそらくは、俺が次に口にする言葉がお決まりの嫌味か悪態かと予想をして、少なからず身構えているのだろう。
松風の傘の柄を握る手のひらにギュッと力が篭り、その幼い指先が色を無くす。
自分が如何にこの後輩に対して辛辣な言葉を吐いてきたのかが嫌でも意識されて、何だかばつが悪い。何か言わなくてはと、口を開いた。でも、そう簡単に今までの自分の言動を変えられるわけがない。
「…だから何だよ。お前には関係ない。さっさと帰れよ。」
口から零れた言葉は、自分でも驚く程に乾いた低い声だった。
不味い、そう思った時には遅かった。
「……余計な事言ってすいませんでした。」
そう小さく謝る声が雨音に混じって鼓膜を揺らす。
松風は傷ついた様な、困った様な笑みを浮かべていた。
途端、後悔にも似た気持ちが胸に押し迫って、松風の顔をまともに見れなくなる。
そんな顔をさせたかったわけじゃない、そんな言葉を言わせたかったわけじゃない、なのに。
「……っ。」
必死に言葉を探すけれど、どれもこれもが違う気がして力なく唇を噛んだ。こんな時ばかり言葉の出てこない自分が情けなく、歯痒い。
俯く先の視界には灰色のコンクリートと自分の靴先ばかりが映っている。そこに、唐突に鮮やかな空色が飛び込んできた。驚いて顔を上げると、松風がいつもの笑顔で傘を差し出している。
「あの、これ。よければ使って下さい。」
「は、あ、おい!」
松風は少し強引に俺の手に傘を持たせると、小さく身を引いて頭を下げた。「それじゃあ、練習お疲れさまでした!さよなら。」
それだけ言って未だ雨の降りしきる薄暗い外へと飛び出していく。突然の事に一瞬、言葉を無くす。けれど松風の制服の肩が重たく濃い色に染まっていく様に慌てて声を張り上げていた。
「ち、ちょっと待て!!」
気付いた時には傘を放り出して松風を追いかけていた。制服が濡れる事なんて、ちっとも気にならない。精一杯に伸ばした腕の指先が松風の腕に絡む。驚いた顔が振り返る。何か言おうと動く唇を無視し、有無を言わせず掴んだ腕を引っ張り軒下まで戻った。
「倉間先輩……。」
「お前は馬鹿か!!何で俺に傘預けて、自分は雨の中帰ろうとするんだよ!」
怒鳴る俺に松風は一つ二つ瞬きをすると「だって、」と呟いた。
「だって、倉間先輩、その………俺の事嫌いだろうから一緒にいたくないだろうなって…。」
「だからって、傘を俺に渡す必要はないだろ!」
「う……先輩もう随分長い間外で待ってるみたいだったんで…そろそろ帰らないとお家の人が心配するでしょうし、でも、この雨の中じゃ帰りづらいだろうから………。」
絶句してしまう。あまりにもお人好しがすぎる。
もう一度怒鳴ろうと息を吸い込み、でも止めた。目の前の、雨に打たれてぐっしょりと濃く染まった制服に、柔らかな輪郭を伝って落ちる雫に、情けなく下がった眉に、怒る気力が急速に萎んでいく。
堪えきれなくなった溜め息を吐き出して、鞄の中を漁る。確か、使っていないタオルがあった筈だ。
制汗剤やらペンケースやらを無造作に突っ込んである中身から目当ての物を探し出し、松風に放り投げる。きょとんとした間抜け顔に「使えよ。」と一言掛ければ、みるみる内に表情を明るくさせ、本当に嬉しそうな声で「ありがとうございます。」と礼を言われた。
タオル一つにここまで喜ばれてしまって、何だかむず痒い気持ちになり顔を反らした。
視界の端に空色が映り込む。あ、と気付いて先程放り投げた傘を拾い上げた。乱暴に扱ってしまったためか、少し埃をかぶっていた。それを払い落としながら、目を外に向ける。
空は相変わらずぼんやりと白く奇妙に明るい。ピークを過ぎたのか雨足はほんの少しだけ弱まっていた。といっても未だ傘無しでは帰れそうにない。
「松風。」
声を掛けると、松風は使い終わったらしいタオルを畳む手を止めてこちらを見た。
手元の傘の下はじきを押し、開く。目の前いっぱいに広がる鮮やかな空色が、目に痛いくらいだった。
「帰るぞ。」
「え、あの、」
「雨止まねーし、ここで突っ立っててもどうしようもないだろ。」
それだけ言って、松風に傘を手渡した。癪に障るが俺とこいつの身長差では、俺が傘を持つよりもこいつが持つ方が都合が良い。恰好が付かないが、仕方ない。
「一緒に帰っても良いんですか…?」
戸惑いがちにそう聞いてくる松風に、さっさとしろ、とぶっきらぼうに返せば、ぱっと音がしそうな笑顔と共に嬉々とした返事が返ってきた。
慌てた様にして畳んだタオルを鞄に仕舞い込みながら「洗って返しますね。」と言われた。別に今返してくれても構わなかったのだが、頑として聞き入れないだろう事が予想出来たから何も言わないでおく。
乾いたコンクリートから一歩、濡れた地面へとどちらからともなく足を下ろす。傘の布地を雨粒が叩く。
一歩一歩、なるべく松風の歩幅に合わせる様にして歩いていく。
「倉間先輩。」
「あ?」
「俺、先輩と一緒に帰れて嬉しいです。ありがとうございます!」
見上げた先の松風の笑顔が、普段のそれと何ら変わりない筈なのに妙に輝いて見えた。聞いてるこちらが恥ずかしくなる様な言葉もそうだが、何故か得意の皮肉や嫌味を言う気にもなれなくて、鼻を鳴らすだけに留める。
雨が止まないから。放っておいたらこいつが風邪をひきそうだから。だから、仕方なく一緒に帰るんだ。
胸中で考えられるだけの言い訳をつらつらと並べて、僅かでも松風と帰る事に喜びを感じてしまった自分に蓋をした。
次第に明るくなっていく周囲に、雨粒は光を反射させて白く輝く。
「あ、先輩、ほら晴れてきましたよ!」
松風が声を上げて指差す先。傘の向こうに覗いた空、その雲間からは確かな光が差していた。









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