淡いクリーム色のカーテンが、初夏の風を孕んで大きく揺れる。目の前が一瞬優しげな色で覆われて、すぐにまた普段の見慣れた光景が戻ってくる。
放課後の教室は、真昼の騒がしさが嘘であったかの様に落ち着いていて静かだ。開け放った窓からは心地よい風に混じりながら部活動に取り組む生徒の声が聞こえてくる。サッカー部も練習を開始している頃だろうか。そうだとしたら、急がなければ。目の前の真っ白な日誌を書き上げてしまえば、日直の仕事は終了だ。俺はペンを手に取り、出来うる限りの早さで白い頁に文字を書き込んでいく。
氏名、天気、欠席者と遅刻・早退者、それから本日の授業内容。それらの欄にペンを走らせながら、今日の練習メニューは何か、自主練はどんな事をしようかととりとめもなく考えていると、不意に脳裏に一人の人物が浮かんだ。あどけなさの残る楽しそうな笑顔に、一生懸命ボールを追いかける姿が鮮やかに脳内で描かれる。俺は思わず自分自身に苦笑いしてしまう。随分惚れ込んだものだ、と思う。
窓の外に視線を向ける。この教室からはサッカー部が使用させてもらっているグラウンドを見ることは出来ない。天馬はもう練習に参加しているだろう。きっと、俺がグラウンドに現れたら真っ先に駆け寄ってきて笑顔で挨拶をしてくれる筈だ。そう考えると自然と口角が上がってしまう。はっとなって慌てて口元に手をやるが、気持ちはもうどうしようもなく天馬に会いたいという思いでいっぱいだった。
その時、ぱたぱたと廊下を駆ける足音が耳に届いた。徐々に大きくなっていくそれが妙に気になって、外に向けていた目を廊下の方にやると、間もなくして開けた扉の影から俺と同じ青い制服に身を包んだ姿が飛び出してきた。柔らかそうな茶色の髪を小さく揺らしながら走るその人物に驚いて、思わず声を出してしまう。
「天馬、」
声が届いたのか、速まるばかりだった足音が、急速にスピードを落として止まった。そうして今しがた通り過ぎた扉から覗いた顔は、やはり、ついさっきまで俺の思考の大部分を占めていた人だ。
「キャプテン!」
俺に気がつくと、天馬は表情をぱっと明るくさせた。
珍しい事だと思った。いつも信介と一緒に、部員の誰よりも早くサッカー棟へ向かって準備を始めているのに、こんな時間まで校舎内に残っているなんて。
手を使ってこちらへ来いと合図すれば、机の合間を縫いながら俺の席に近づいてくる。「何かあったのか。」そう尋ねると、天馬は「友達に委員会の代理出席を頼まれたんです。」と答えた。
「キャプテンこそこんな時間まで…どうかしたんですか?」
不思議そうな顔をして尋ねてきた天馬に、俺は机の上に開いたままの日誌を指先で軽く叩くことで答える。日誌は、もう全ての欄を埋め終えたからあとは職員室にいるであろう担任の元へ返しに行くだけだ。
天馬は合点がいったという様な顔をした。それから、何に気付いたのか、軽く腰を曲げてじっと日誌の開かれた頁を見つめはじめた。その動作によって、俺と天馬の顔の距離が一気に縮まる。心臓が大袈裟な位に跳ね上がった。
けれども天馬はそんな事を気にする素振りは一切見せず、書かれた日誌を熱心に見つめるだけだ。顔を背ける事も、声をかける事も出来ない俺は、跳ねる心臓を宥めつつただ黙ってその様子を見つめた。少しだけ開いた唇、先程まで走っていたせいかほんのり赤みのさした頬、真剣な眼差しを縁取る睫毛。そんな風にまじまじと彼を観察をしていると、唐突にその唇から小さな溜め息が漏れる。
「キャプテンって字を書くの上手ですよね。こんなに綺麗な文字、俺書けませんよ。」
感嘆と賞賛の入り交じった声を上げて天馬は楽しげな笑顔を浮かべる。文字一つで何故ここまで楽しそうに出来るのか、甚だ疑問ではあるがその曇りのない笑顔に俺は何も言えず、また褒められた事への嬉しさと気恥ずかしさもあって、曖昧に笑うことしか出来ない。
「サッカーも出来て、ピアノも弾けて、さらに字も綺麗で…キャプテンて、本当にすごいですね!」
そう言って、天馬がこちらに顔を向けた。ばちりと音がしそうな程勢いよく瞳が合わさる。近かった顔の距離が、更に近づく。
今度は天馬が焦る番だった。その顔に、一気に赤みが走る。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
慌てて身体を引こうとするのを、腕を掴んで止める。
天馬は言葉にならない声を上げながら、右へ左へ忙しなく視線を動かした。その初な様子に、一旦は落ち着いた心臓が苦しい位に締めつけられる。
「謝らなくていい…。」
額にかかった前髪を指先でそっと避けると、天馬は小さく肩を揺らした。青い瞳が目蓋の内側に隠れるのを確認して、あらわになった額へそっと唇を寄せる。
「――っ」
息をのむ音が聞こえた。緊張のせいか、か細く震える身体にほんの少しの罪悪感と抑え難い欲とを同時に感じる。けれどもここは学校であるし、放課後といえども俺達二人きりなわけではないから、これ以上欲に任せて衝動的になるのはよろしくない。
俺は額からゆっくりと唇を離した。天馬の目蓋がゆるゆると上がり、その口からぽつりと小さな声が漏れる。
「キャプテンは、狡いです…。」
「…?」
「かっこよくて、狡い。俺、文句も何も言えないじゃないですか…。」
そう言って、照れた様にして前髪を手櫛で戻す。
なんて殺し文句だろうか。顔に熱が集まる。押さえつけた筈の衝動が、またむくむくとわき上がってくる。
いけない、そう思って俺は急いで鞄に荷物を詰め込んだ。このまま二人きりでいたら、歯止めがきかなくなる気がする。さっさと部活へ行こう。思い切り、くたくたになるまで練習しよう。そうすれば、多少は落ち着く筈だ。
少し乱暴に日誌を閉じ、ガタガタと音をたてて椅子から立ち上がる。天馬は俺の傍らで、俺が何をこんなに急いでいるのかわからないといった表情をしていた。けれども正直に現在の心情を吐露するわけにはいかない。
「部活に行こう。」
なるべく平静な声を繕って言う。鞄を肩へ掛け、扉へ向かおうと歩を進めた。
「拓人さん。」
天馬は普段、俺を名前では呼ばない。呼ぶ時は必ず二人きりの時で、それも所謂恋人らしい事をしている時だけだ。学校で呼ばれた事なんて、一度もなかった。
吃驚して振り向く。と、驚く程近くに天馬の顔があった。頬に柔らかな何かが触れる。
「は…。」
間抜けな声が漏れた。肩にかかった鞄の紐がずるりと落ちる。
開け放したままだった窓から一層強い風が吹いて、カーテンをはたはたと揺らした。淡い、日の光の様な色が視界を掠める。
何が起きているのか、わからない。名前を呼ぶ声、視界に広がる日の色、頬に触れる柔らかなそれ――。困惑した頭でぐるぐる考えていると、頬に感じた柔らかさがゆっくりと離れていく。
「さっきのお返しです!」
天馬の顔は赤かった。けれどもそこには、どこか満足気な、してやったりといった笑顔があった。
「………!!」
自分でもわかってしまう程に、顔が赤くなる。足が縺れて、思わず側の机に腰を預ける形になった。掌で赤い顔を必死に隠す。そんな俺を見て、天馬は「ど、どうしたんですか!?」と心配そうに俺の顔を窺った。
初なのか、大胆なのか。本当によくわからない奴だ。初めて会った時から、俺は彼の言動に振り回されてばかりいる。でもそんな彼の言葉の一つ一つにも、どうしようもなく惹かれてしまう。愛しいと思う。嗚呼、もう、
「好きだ。天馬。」
それだけ言って、照れ隠しに勢いよく立ち上がった。顔を見られない様窓辺に向かい、ふわふわと揺れるカーテンを纏めて窓を閉める。さあ、もう今度こそ部活に行こう。そう決意も新たにした時、二人だけの教室にいやに大きく天馬の声が響いた。
「俺も、拓人さんの事好きです。大好きです。」
ガラスに映った自分の顔は、そりゃあもう、情けないものだった。









「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -