(拓天)


広い広いキャプテンの部屋で、時計の針が時を刻む小さな音とキャプテンの微かな息遣いだけが耳に届く。こうなってから何分たつんだろうな、と、キャプテンの背中をさする手を止めずにぼんやりと考えた。背中にまわった腕から、淡い温度が流れてくる。
キャプテンはたまに、こうして何も言わずに俺を抱き締めてくる。それは二人きりの時に限られているけれど、とても唐突だ。今回は二人で紅茶を飲みながら談笑していた時、自然と会話が途切れた一瞬の間の事だった。キャプテンの目が悲しげに細められ、「天馬、」と名前を呼ばれたかと思うと、返事をする間もなく抱き締められた。過去にも何回かあった事だけれど、こうも唐突だとやはり吃驚する。そしてこの行為はほんの数秒の時もあれば、今日みたいにどれくらい時間がたったのか分からなくなる程に長い時もある。
でも、キャプテンがこうなるのは決まって何かあったとき―――例えばそれは何かに傷ついたときだったり、重圧に押し潰されそうなときだったり、或いは何か不安な、若しくは悲しいときだったり――であるのを俺は知っている。
キャプテンのやんわりと丸くなった背を、手のひらで覆うようにしてゆっくりと撫でる。
今日は何があったんだろう。聞いてみようかと考えるけれど、考えは考えのまま、胸の内に押し込めた。聞いたところで俺に何か出来るわけではない。ちょっと寂しいけれど、こういう事は本人が言いたくなった時に聞けばいい。
それに今は、目の前で落ち込むこの人を早く元気づけてあげたい。
「キャプテーン。」
わざと間延びした声で呼んでみた。反応はない。
「拓人さん。」
今度は名前で呼んでみた。すると、肩が小さく動いた。俺の背にまわった腕が力を増して、さっきよりもきつく抱き締められる。少しだけ苦しい。でも、この腕の強さで、拓人さんが俺をどれだけ必要としてくれているのか分かる様な気がして嬉しくなった。
「………天馬。」
ポツリと、囁く様な音で名前を呼ばれた。久しぶりに声を聞いた様な感覚に胸がふわりとした温かさで包まれる。
「何ですか、拓人さん。」
声に嬉しさが滲み出ていた。あからさま過ぎて、少し恥ずかしい。そう思っていると、拓人さんは少しだけ大きくした声で「ごめん。それから、ありがとう。」と言った。謝罪もお礼も要らないのに、この人は毎回それを律義に言葉にする。別にいいのに。むしろ、こうして甘えてきてくれる事はとても嬉しい。いつも頼ってばかりの自分だけど、この時だけは、僅かでもこの人の力になれているんじゃないかと思えるのだ。こんなこと口にしたら何て言われるか分かったもんじゃないから、黙っておくけれど。
返事をする代わりに、気にしてませんよ、という意味を込めて背中を軽く叩くと、拓人さんは肩口に額を擦り寄せてきた。常日頃の大人っぽさは見る影もない。まるで小さな子供の様な仕草に口端が緩む。
「今日は随分甘えたさんなんですね。」
ゆるやかに波打つ灰色がかった髪を手ですくと、ほんの僅かにシャンプーの香りがした。
背中にまわっていた腕がほどける。ゆっくりとした動作で上がった拓人さんの顔は、薄赤く色づいていた。滲んだ琥珀色の瞳と目が合わさると、その手のひらが頬を包みこんでくる。直に触れた肌の温度が心地いい。徐々に近づいてくる拓人さんの顔に思わず目を瞑ると、額と額が軽い音をたてて合わさった。
「お前が、俺をこんな風にさせるんだ。」
少し震えた声。目蓋をあげれば拓人さんは恥ずかしさに耐える様な表情をしていた。
視線が絡まる。喜びで胸がいっぱいになり、ふふ、とか、あはは、とか、小さな笑い声が断続的に口から溢れた。突然笑いだした俺に、拓人さんはムッとした、ともすれば半分泣きそうな表情になった。おそらくは、今の発言を笑われたと思ったのだろう。恥ずかしい、言うんじゃなかったという後悔がありありと顔に浮かんでいる。
俺は言いたかった。違うんです、と。俺は嬉しいんですよ、貴方がそうやって、俺しか知らないだろう顔を見せてくれる事が、本当に、堪らなく嬉しいんです、と。でも、胸がいっぱいで、言葉にする事すらまどろっこしい様な、そんな気分になってしまって、結局何も言わなかった。
「そ、そんなに笑わなくてもいいだろう……!」
遂に拓人さんは、半泣きの顔で抗議してきた。これ以上は本当に怒らせてしまう。急いで笑うのを止めて真面目な顔を作ったけれど、そこでハッと気付いた。拓人さんの纏う空気が、さっきよりも格段に明るくなっている。悲しみばかり一杯に称えた様な瞳も、今は色々な感情の混じった、ある意味生き生きとした色をしていた。
よかった、もう大丈夫だ。安堵で、作ったばかりの真面目な顔はいとも簡単に崩れた。
拓人さんは訝しむ様な目付きで俺を見た。
慌てて謝るけれど、拓人さんは何だか納得がいかないという顔をしている。普段じゃ絶対に見れない子供みたいな表情に、愛しさが込み上げてくる。
「拓人さん。」
名前を呼んで、思い切ってその首に腕をまわす。驚いた様な声が耳朶をかすめる。
「好きです。」
突然の告白に、拓人さんの動きが止まる。しどろもどろな、意味を為さない言葉が次々に聞こえるけれど、構わずに続ける。
「拓人さん、好きです。練習中の厳しくて、でも優しいキャプテンも、試合中のかっこいいキャプテンも。それから、こんな風に俺に甘えてくれる、子供みたいな拓人さんも、大好きです。」
言うだけ言って、まわした腕に力を込めた。遅れてやって来た羞恥心のせいで顔に熱が集まっている。
ややあって、背中と頭に優しく手のひらが添えられた。まるで包み込む様なそれが気持ちよく、自然と目が細まる。
好きです、ともう一度だけ胸の内で呟けば呼応する様にして拓人さんが口をひらいた。
「      」
聞き逃してしまいそうな程の小さな声に、へへ、とまた笑い声が漏れた。
髪をすき、背を撫でてくれる手のひらの温かさが、泣いてしまいそうな位幸せだった。













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