バイトから疲れてアパートに帰ったある日、部屋を間違えた。
茶色のシルクハットに片眼鏡、時代遅れな花柄のベストを着た隣人は、優雅に紅茶カップを傾けながら「構うまいよ」と言ってふふんと笑った。
言葉に甘えて扉を閉めたが、それから直ぐに、いや、そんな筈はない。と思い直した。
廊下に佇む俺は、端から扉を数える。
1、2、目の前の扉が、3。
俺の借りた部屋は二階三号室。間違ってない。

「!?」

俺は慌てて扉を開けた。

「おや、どうかしたのかね青年」
「あああああ貴方誰ですか、ってかここ、俺の部屋じゃ」
「まぁ落ち着きたまえよ青年、そこに座ってお茶でも飲んで」

隣人が立ち上がる。
部屋にはソファーとローテーブルしかなくなっていた、…俺の家具は。

「さぁさ、遠慮なく」

不審人物が近づいてくる。身構えた。何をするのかと思いつつ見ていると、トンと軽く肩を押された。

いつの間にか唯一のソファーに座らされていた。
深々と腰掛けて完全に部屋の主のごとく寛ぎ、片手には紅茶のカップが握らされている。
中には黒々とした液体が満ちており慌てて手首と指に力を入れて支えた。
ちょっと零れた。
不審人物はソファにかかった滴を白いハンカチでにこやかに拭った。

「さて、此処が青年の部屋であるかどうかという問いに答えるならば、三分の二は正解だ、間取りは君の所を借りたのだよ。多少狭いがね」

何気に失礼かつ背後で得意げに語っているらしい不審人物の言葉に腰を浮かせるが、肩をぐっと押され座らされる。

「いや、意味分かりません」
「そうだな、此処は三分の二号室とでも言おうか。青年の部屋はきちんと元のまま隣に存在するよ。もちろん二号室も無事だ。ここは擬似的な空間でね、私の秘密基地かつ新居なのだよ。引っ越し挨拶に穿ったのだが、どうやら青年とは活動時間が著しく異なるようだね。」
「そうなんですか、半分も貴方の言ってることが分からないのですが」
「暫くは機会を待っていたのだが気を抜いたとたん案の定このような事態になってしまった。申し訳ないね。そうだ、引っ越し祝いを渡していなかったね」

先ほど黒い液体を拭いた白いハンカチを渡される。要らない。
そして話を聞け。

「でも俺の部屋の鍵で扉開きましたし、いい加減にしないと警察を呼びますよ。」
「やや、警察はいけない、警察は奴らと手を組んでいるから見つかってしまうじゃないか…。むむ、青年。紅茶は嫌いかね?」
「…はぁ」

液体が減っていないのを指摘され嫌々口をつける。
醤油の香りがした。

「ごふっ」

噎せて吹き出す。
それも先ほど渡されたハンカチを取り上げられ拭われる。
俺の背中をさすりながら不審電波者は「すまない、口に合わなかったようだね、こちらの世界のことはまだ良く分からなくてね。見様見真似だったのだよ」と宣った。

見様見真似ならこれは紅茶でなく珈琲で、それにしてもなぜ醤油風味。
口を付けなくては解放されないかもと付き合った俺が馬鹿だった。
逃げなくては、と思う。
しょんぼりしている電波に向かい渋面のまま言う。

「あの、俺、帰ります、俺の部屋は隣にあるんでしょ、晩飯の時間だしそれじゃ」

立ち上がったが今度は止められない。

「そうかい、持て成すつもりがこんな事になってしまって残念だよ。これから隣人として気兼ねなく仲良くして貰いたかったのだが…醤油を貸し借りするような関係を築きたいものだね」

だから醤油味か、ふざけるな。
怒りだしそうになるが下手に刺激しても怖い。
明確な返事をせず愛想笑いもそこそこに玄関へと急ぐ。
靴はちゃんと揃えて置かれていて、ねじ込むようにして足に突っかける。

「失礼します」
「ああ、また来ておくれ」

断る。

扉を潜って廊下に出る。部屋はやっぱり三番目にあった。
俺がおかしくなったのか。
フラフラと一階に降りようとした俺に扉から覗いていた不審者が言った。

「そっちは青年の部屋ではないよ?だまされたと思ってこっちの扉に鍵を入れて回してごらん」

…。
……。
………。

ほっといてくれ、舌打ちしそうになりながら、4号室に鍵を差し入れ回した。

子気味良い金属音と共に、開いた。

「へ。」

どうにでもなれ、という思いが奇跡でも起こしたのか、開かれた扉の向こうには見慣れた景色があった。
俺の部屋だ。

「ほら、言ったろう。」
「そうですね、俺疲れてるのかな、立ったまま夢をみているのかな」
「それはいけない青年、夢に現実を食われてしまう前に早くおやすみ」

常識が覆され日常が崩壊しすっかり頭が働かない。
誰かがドッキリです!と看板を持って突撃してくれないかと期待する。

「あ、ああ…、おやすみなさい」
「挨拶は基本的な交流だね、すばらしい。では、また。」

ぱたん。

あっけなく扉が閉まった。俺は良くわからなくなってしまった世界に一人取り残された。



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