黒尾鉄朗


ぽかぽかの陽気、ちゅんちゅんという鳥の声、眠気を誘う抜群の環境の中で黙って授業を受けろというのは酷な話だ。
睡眠欲に従順な俺は先生の声を聞きながら「先生ゴメンナサイ」と心の中でお詫びをし、諦めて目を閉じた。それが数十分前の出来事。


「黒尾くん」


数十分後の今、机に突っ伏して安らかな寝息をたてていた俺は名前を呼ばれて目を覚ました。

まだ自分の腕に額を押し当てているので視界は暗いが、ゆっくりと瞼を開ける。同時に記憶を呼び覚ます。今ここはどこで、俺は何をしていて、今が何時なのかと言うことを。
全てを思い出した時、がたんと大きな音をたてながら上体を起こした。


「やっっっべえ!」
「わっ」


さっきの授業は1限目の英語だった。2限目は移動教室だ。慌てて黒板横の時計を見るとすでに2限目が始まってから15分が経過していた。だからここには俺と、なぜか今俺の名前を呼んだ女の子しか居ない状況。彼女は俺が大慌てで起きたのに驚いていた。


「爆睡してたけど大丈夫?」
「……大丈夫じゃないね。白石さんこそ移動教室は?」
「私、今来たとこ。遅刻」


白石さんは今日、病院に行っていたらしい。病院っていうか眼科で結膜炎の治療を受けていたようだ。昨日までしていた眼帯が外れているので治ってきたらしい。
正直少しだけ残念だ。眼帯をした白石さんはどこか色気があってとても神秘的な感じだったから。まあ眼帯なんか無くても程よい肉付きの身体や丸くてピンク色の頬があるだけで、充分俺の心を掴んでいるんだけど。


「眼帯外れたんだ。よかったな」


だから、とりあえず「本当は眼帯の姿に興奮しました」というのは内緒にしておく。


「ありがとう。片目だと生活しづらいから良かったー」
「だよなあ」
「生物室行かないの?」


生物室は今まさに2限目が行われている教室。どうして教室内で爆睡する俺を誰も起こしてくれなかったんだろう。と思ったら俺の机の端には「俺はちゃんと起こしました。」というメモが夜久の字で書いてあった。ごめん。


「俺はサボりかな…今から行くのも微妙だし」
「そっかあ」


白石さんは真面目な人だから、今からでも生物室に向かうんだろう。そういう真面目なところも好きだが、本当はここで2人でサボりたいなと思う。

今年初めて同じクラスになった白石さんは目立たず騒がず大人しく、お世辞にも華やかで面白い人ではないけど不思議とそれに惹かれて行った。
授業をちゃんと聞いてるし、スカートは少しだけ短くしているのが控えめで可愛くて、友人たちと会話している時のふんわりした笑顔は部活で疲れた俺の心を温かくした。…とか言って、俺めちゃくちゃ気持ち悪いな。ポエマーか。

まあ、そんな人だから白石さんが教室を出ていくのをこっそり眺めようかなと思っていたんだけど彼女は席に座った。


「…あり?行かねえの?」
「うん。なんか、そういう気分じゃなくて」


珍しいな、白石さんが授業をサボるのは。
でもラッキーだ。2限目が終わるまでの残り30分ほど、ここで2人きりになれるという事。だからって俺はどんなアプローチをすればいいか分からないから、あまり積極的に動けていないのだが。でも今なら少しだけチャンスがあるかも知れない。


「白石さんがサボるなんて珍しいね」
「そうかなあ?」
「真面目な人だと思ってたから」
「えー、そんな真面目じゃないよ」


照れ笑いする白石さんの白い歯が見えて、危うくこれだけで満足しそうになってしまった。すげえ可愛いんですけど。


「黒尾くんこそ凄いじゃん。バレー部勝ち進んでるって聞いたよ」
「あー、ウン…そうね」


勝ち進んでる、と言われれば聞こえは良いけどまだまだ先は長い。インターハイ予選は決勝までに残り3試合。だんだん相手は強くなり、試合ごとの疲れも増して、勝利が嬉しい反面身体は悲鳴をあげているってのが本音。


「今週末も試合だから、けっこう大変だけど…今年が最後だから」
「……そうだね。最後か」


そう言いながら白石さんが少しだけ遠くを見たような気がして、その目がとても色っぽかったので思わず見惚れた。さっきのは撤回、眼帯が無くても充分素敵だ。
そして何度か瞬きをした白石さんはうっすらと口角を上げて言った。


「今年が最後だから、私、今の授業サボったのかも知れないなあ」
「………はい?」


どういう意味なのかよく分からずに聞き返すと、白石さんはもう少しだけ笑った。


「黒尾くんとゆっくり話したこと無かったから。今しか無いかなと思って」


窓の外はぽかぽかの陽気で、あと数時間でてっぺんに登る太陽の光が真っ直ぐ教室内の白石さんを照らし、それがまるでスポットライトみたいに見えて目が眩んだ。え、眩しいんですけど。美しくて。今の言葉が嬉しくて。


「…ちょっとタイムもらっていいですか?」
「あはは、どうぞ」
「俺も白石さんと喋りたいなとは思ってたんだけど、まさか御本人からそう言われるとは想像もしてなくてですね」


眩しさに耐えるふりをしながら自分のこめかみに手を当てた。こうする事で冷や汗を隠すことが出来るのと、赤くなった自分の顔を少しは誤魔化すことが出来るだろうと思ったからだ。でも白石さんは容赦なく言葉を続けた。


「…黒尾くんも私と喋りたかったの?」
「んー、まあ。はい」
「いつから」
「…いつって………」


同じクラスになった数ヶ月前、白石さんの姿や雰囲気を目にした時からだ。それをどんなふうに説明しようかと思っていると白石さんが先に言った。


「私は、1年のときから」


しかもそれが、俺が答えようとした時期の2年も前だったもんだから再び思考停止を余儀なくされた。


「…2回目のタイムいいですか?」
「どうぞどうぞ」
「俺…え、ちなみに何で?」


1年、2年と白石さんとはクラスが離れていた。俺が彼女の存在を知ったのは3年になってからだったし、それまで委員会とか行事で喋った事は無いと思う。


「1年生のとき、夜久くんと黒尾くんがうちのクラスに来たのを見て…かな」


夜久と一緒に他のクラスに行ったことなんてあっただろうか。
2年前の記憶を必死に辿る。と、一度だけ確かにそんな事があった。夜久が「5組の女の子が可愛い」と言うのでどんな子なのか見に行ったのだ。念のため聞いてみると白石さんは1年生の時、5組だったらしい…ビンゴだ。

でもその一度限りで、夜久も気付けば失恋してた(その子に彼氏がいることを知ってしまったとか言ってたっけ)ので、5組に足を運ぶことは無かった。俺の姿を見たのはその時くらいじゃないか?


「…一目惚れかなあ…」
「え。」
「でもそれ以降は何度か見かけただけで、3年に上がるまでクラスも違ったし」


そのように赤面しながら話す白石さんを見て俺も顔が熱くなるのを感じた。


「やっと同じクラスになれても、なかなかチャンス無かったから。だからサボってしまいました」


そこで俺の顔面の温度は頂点に達したかも知れない。


「黒尾くんはいつから私と喋りたかったの?」
「………あのー…ちょ…」


嬉しさと驚きと照れくささで頭が沸騰しそうなのを堪えて、なんとか言葉を紡ぎ出すけど何も出てこない。
女の子の前でまともに喋れないなんてガキかよくそっ、と思ったが俺は高校3年生のガキだった。最後に女の子と付き合ったのは1年以上前だ。あの頃俺は女の子に、どんなふうに接していたっけ?


「…もう機会無いかも知れないから言うけど、黒尾くんのことが好き」


女の子への接し方をぐるぐる考えていたのにまたもや思考停止した。それどころか逆回転を始めてしまったかも。


「……タイムいいですか…」
「タイムは2回までだよ。もうだめ」
「………」
「…黒尾くんは、どうなのか聞かせて」


思いのほかぐいぐい押してくる。答えあぐねる俺に痺れを切らした彼女は席を立ち、俺の目の前へと腰を下ろす。逃げられない。いや、逃げちゃいけないんだ。
けど好きな女の子にこんなに押されて平常心を保てる男が居るだろうか。絶対に居ない。

そんな俺の焦りが顔に出ていたらしく、白石さんははっと我に返り顔を伏せた。


「ごめん…」


どうやら、自分の行動に自分で驚いているらしい。無意識ですか。けしからん女の子ですね。


「…白石さん意外と積極的、だね」
「今しか無いって思ったらつい…ご、ごめん」
「……そだね。今しか無いか…」


高校生活最後の年に同じクラスの女の子に恋をして、まだまだ部活も忙しく受験勉強も本格的になる。これから同じような告白の機会も女の子と仲良くなれる時間もきっと限られている。もしかしたら全く無いかもしれない。今しか無い。


「俺はけっこう最近なんだけど…でも白石さんが好き。かなり好きだよ」


インパクトに欠けたような気がして「かなり好き」を付け足したところ白石さんは目の前で大きく目を開いた。あ、あと口も開いてた。


「………ほんとに?」
「うん…やだ俺恥ずかしいわ」
「えっ わ…私も、ちょっと…恥ずかしい」


この子、俺の気持ちを全く予測していなかったくせにあんな強気の態度を取ってきたのか。
そう思うとたまらなく身体が震えてきて、今更恥ずかしさで顔を隠そうとする白石さんに意地悪をしたくなってみた。


「く、黒尾く…」


白石さんの手首を掴むと彼女は固まった。俺も固まった。

ふたりの距離はもう30センチを切っている。ちゅんちゅんという鳥の声、隣のクラスから微かに聞こえる授業の声、グラウンドから響く体育の声や笛の音。目が合うとそれらが一瞬聞こえなくなり、互いに対する集中力が高まっていく。この世界には俺と白石さんしか居ない、みたいな。


「…今しか無いと思わねえ?」
「………」


白石さんの返事はなかったものの、彼女も外の世界をシャットアウトするかのように目を閉じた。

この移動教室を寝過ごしたのはとんでもない奇跡だ。後から夜久に報告すると、最近また別の子に失恋したらしい彼は「置いていかずに殴り起こしてやれば良かった!」と悔しがっていた。ごめん。

ロマンスの素粒子

あさ様より、好きな人の前では余裕が無い黒尾・というリクエストでした。黒尾って基本的には余裕綽々なので不自然だったらゴメンナサイ…なんですが、女の子に押されてたじろぐ黒尾さんも良いですね(笑)ありがとうございました!