04


せっかく補充した勉強道具が役に立ったかどうかと聞かれれば、ギリギリ頷けると思う。
いわゆるナンパらしき男から白石さんを救った日、帰ってから勉強に身が入らなかった。そもそもアレを「救った」と言えるのか分からない。ちょっと間に入って待ち合わせのふりをしただけだ。しかも俺は勝手に自分を「友だちです」と名乗った。友だちか友だちじゃないかの二択なら恐らく「友だち」で合っているけれど、俺が友だちと答えたことで白石さんは嫌な思いをしなかっただろうか?
そのことばかり考えていたおかけで集中できず宿題に時間がかかってしまった。


「じゃあ次の訳を、五色くん」


ぼんやりしていると、遠くのほうで先生の声が聞こえてきた。俺の名前を呼んでいる。英語の先生だ。どうして呼ばれてるんだろう。今はまだ夜で、俺は布団の中にいるはずなのに。

頭に浮かんだ疑問はだんだん派生していき、同時に俺の意識を現実へと引き戻す。手足の感覚が戻ってきた。俺の身体は横になっていないようだ。椅子に座っている感覚がある。肘に硬いものが当たっている。きっと机だ。ほのかに香るチョークの粉っぽいにおい。そうだ、ここは教室だ。


「……五色くん?」
「はいっ!?」


今度は先程よりも鮮明に聞こえた先生の声で、飛び上がるように身体を起こした。静まり返った教室に響く自分の返事。どうやら授業中に居眠りしていたらしく、クラスメートからの視線が痛い。先生は怒ってはいないが笑ってもおらず、俺の様子を見下ろしていた。


「眠いのかな? まだまだあるから頑張って」
「すみません……」
「じゃあ立って、日本語訳書いて」


やっぱり怒っているかもしれない、先生は目が覚めたばかりの俺を立たせて黒板の前に誘導した。自分が悪いんだけど。
昨夜の予習時に和訳を用意していたおかげで、なんとか回答を書くことができた。先生からも「正解」の言葉をもらえたが、自分の席に戻るまでの時間が辛い。この教室内で一番背が高いのは俺なのに、誰にも見えないくらい小さくなりたいと思った。


「居眠り珍しいな、五色」


英語の授業が終わった途端、隣の席のやつが話しかけてきた。彼の言うとおり俺が居眠りするのはかなり珍しい。これでも普段は真面目に受けているのだ。進学校だし、成績が悪かったら試合に出してもらえないから。


「あー……ちょっと寝不足でさ」
「大変だもんなー、練習漬けからの勉強漬けだもん」


そう言うと、そいつはトイレかどこかに行くために席を立った。
今日の俺が寝不足なのは別の理由なのだが、そういうことにしておこう。女の子のことを考えて宿題や予習に時間がかかり結果寝不足だなんて、男らしくない。
幸いさっき先生に起こされてからは目が冴えているので大丈夫そうだ。次の授業に備えて俺もトイレに行こうと立ち上がり、廊下に出ようとした。


「……!」


すると、同じくトイレに行こうとしていた白石さんと鉢合わせた。どっちが先に廊下に出るか、無言での譲り合い。結果として白石さんが先に出たけれど俺も同じ方向に行くので、どちらが先だろうと意味はなかった。しかも俺のほうが歩幅が広いので、先に歩いていたはずの彼女にすぐに並んでしまった。


「大丈夫?」


俺が横に並ぶとすぐに、白石さんが言った。話しかけられるとは思わなくて「えっ」と戸惑いの声が出る。その俺の反応を見て、白石さんも慌てた様子で続けた。


「いやあの、眠そうだったから……さっき」


さっき、とはつまり英語の授業中のことだろう。同じ教室にいた白石さんも俺の失態を目撃しているのだ。恥ずかしい。原因が本人だなんて言えないけれど。


「俺は大丈夫……それより昨日」


この話を俺から出すかどうかは迷った。言わないべきだとも思っていたのに、ついつい口から「昨日」という単語が出てしまった。


「なに?」


白石さんは続きを促している。昨日のことはほんの些細な救出劇だったし、威張れるようなことはしていない。それでもあの後彼女が何事もなく帰れたのかどうか、それは気になった。昨日話しかけてきたあの男に、後をつけられたりしなかったのかなとか。


「……昨日ちゃんと帰れたかなと思って」


そう聞いた時、白石さんがどんな顔をしていたのか見ていない。変な照れがあったおかげで視線を反対方向に向けていたからだ。それでも視界の隅っこで白石さんが頷くのが見え、そのままお互い何も言わずに男女それぞれのトイレに入った。


「何言ってんだ俺は……」


ほんと、何を言ってるんだろう。自分がしていることは最低だって思わないのか俺は。つい最近あの子を振ったのを忘れたのか俺は。優しくしてはならないって思うのに気になって仕方ない。でもそんなの調子が良すぎる。告白されたから気になり出すなんて失礼だと思う。振ったくせに、じゃあ振るなよって話だ。俺が俺の友だちだったら、きっとそう言って喝を入れるはず。


「白石さんってさー」


午後、体育のために着替えていると、別の男子が白石さんの名前を出したので耳が大きくなるのを感じた。眠気は吹っ飛んでいたが悶々としていた矢先のことだったので、俺の頭は一気に冴えて聞き耳を立てた。


「あの子、チア部らしくてさ。野球の応援来てくれてたんだけど」
「へえ。てかチアだったんだ」
「それな! 確かに」


二人の男子は小声とはいえ好き勝手に話している。体育の前だから女子は更衣室で着替えており、教室には男子しかいない。それでも俺や他の男子に聞こえる可能性を考えないなんて、デリカシーのないやつらだ。だからって俺にデリカシーが備わっているとは言えないが。

とにかく話によると白石さんは、野球部の応援にチアリーディング部として参加していたらしいのだ。バレー部の応援にはチアとしてではなく、単に観戦していただけだったのに? 勝手ながら嫉妬の火がつくのを感じた。


「でもそれが意外と似合ってんの。あんな可愛いと思わなかった」


そして、その火はどんどん大きくなった。
同時に焦りも出始めた。俺もここ最近白石さんを可愛いなと思い始めていたけれど、他の男子の目から見ても「可愛い」と思われているなんて。白石さんを狙うやつが新たに現れる可能性がある。しかも同じクラス内に。

ついでに俺は白石さんがチアの衣装を着ている姿は見たことがない。なんでお前は見てるんだよ。野球の試合っていつだったっけ? 確か野球部の秋大会は烏野との試合より後だった。その間にチアリーディングの三年生が引退して白石さんにメンバー入りのチャンスが巡ってきた? それとも自ら枠を勝ち取った?


「そっち系には見えないけどな、大人しいし。俺喋ったことねーもん」
「そういう子がチアやってるってのが逆によくない?」
「あーわかるー」


俺もそれは大いに分かる。けどこの会話には加われない。万が一野球部の彼が白石さんに告白して、彼女がそれを受け入れてしまったらどうしよう。
このところ頭を使うことが多くてたまらない。いったん体育で発散しなくては。