メタモルナイトフィーバー
眠れなくて目が覚めた。
ここ数日は、梅雨にもかかわらず珍しく晴れ間が広がって、何度か中止になっていた水泳の授業が行われた。みんなも私もプールに入るのを心待ちにしていたので、暑さを忘れるために思い切り楽しんだものだ。疲れたからすんなり眠れると思っていたけれど、どうやら思い違い。まぶたの裏に焼き付いた姿のせいで、寝付くことができなかった。
なんとなく訪れた公園はとても静かだ。落ちているスコップは誰かの忘れ物だろうか。誰も居ない夜の公園なんて初めてかも? と少し冒険気分になりかけた時。
「……びびった。白石かよ」
背後から聞こえた声に、私もびびった。男性の声だったし急だったし、こんなところで襲われたらひとたまりもないし。だけど心配には及ばない、声の主は同じクラスの岩泉くんだった。
「岩泉くん……」
昼の記憶がよみがえる。炎天下、火傷しそうなほど暑いプールサイドを歩くたくましい男の子。プールの水なのか汗なのか分からない湿り気を帯びて、妙に魅力的だった。その岩泉くんと目が合って、思わず顔を逸らしたんだっけ。不自然だったよね、彼も今それを思い出してしまっただろうか。
「こんな時間に何してるの」
「そりゃお前もだろ」
「私はなんか寝れなくて……」
その原因があなたですなんて言えなくて、そこで言葉を止めた。幸い岩泉くんは怪しむことなく、軽くフーンと鼻を鳴らして言った。
「暑いもんな、今日」
とても都合のいい言葉だと思った。というか、今の私にとってまさに欲しかった言葉かもしれない。寝苦しかったのは、胸をくすぐる淡い気持ちのせいじゃない。
「……そっか。暑いからか」
「じゃねえの?」
「岩泉くんは何してたの」
先程スルーされた質問をすると、岩泉くんは顔を伏せた。
「眠れなくて……」
彼の答えは私と同じだった。まあ「眠れない」という理由以外で、こんな時間に出歩く高校生は居ないだろうけど。
「暑いもんね」
私も彼の言葉を借りた。でも、やっぱり岩泉くんは斜め下を睨んでいる。けれど深刻な様子ではなく、ぽりぽりと頭をかきながら砂利を鳴らした。
「暑いからなのかな。ぜんぜん理由が分かんねーんだけど」
「えっ、分からないんだ」
「なんか今日の……」
そこまで言うと、岩泉くんの声と砂利の音がどちらも止んだ。なぜだろう、虫の鳴き声も風の音も聞こえなくなったような気がする。何か重要なことが起こる前触れのような、そんな空気が流れた。沈黙を破ったのは、まるで私の気持ちを代弁するような彼の台詞。
「……水泳のことが忘れられなくて」
また、なにも聞こえなくなった。
時が止まったようにさえ感じる。
水泳の時、岩泉くんの身に何が起きて何を感じたのだろう。私には心当たりがひとつしかない。水の滴る岩泉くんがじっと私を見ていたことと、私もじっと彼を見ていたせいで目が合って、そして私が慌ててそっぽを向いたこと。だってあの時の岩泉くんがとても格好よくて、その目が私のだらしない水着姿を見ていて、恥ずかしくて耐えられなくなったのだ。
「あ、暑いね」
「おう」
「夜なのに……」
「熱帯夜らしいからな」
「へ……へえ、そうなんだ」
中身のない会話でその場を繋ぐ。すべて暑さのせいにしてしまえば解決する、うすっぺらいやり取りだった。核心に触れなくて済むのが心地いいのか焦れったいのか分からない。でも、どうやってその話題に触れれば? 掘り起こさなくてもいいのでは。アレを気にしているのは私だけかもしれない。岩泉くんに起きた「水泳のこと」は、私とは関係ない別の出来事かも。だとしたら私、ひとりで戸惑って相当怪しい。
「なあ」
岩泉くんの声にはっとして顔を上げると、またはっとした。今の彼はもう、斜め下なんか見ちゃいないからだ。
「ほんとは気温のせいじゃないんだろ」
はたから聞けば意味の分からない問い掛けも、私たちの間では繋がっている。静かだったはずの公園は、どくどく波打つ心臓で一気にうるさくなった。こんなに激しく血が通っているのに頭が働かなくて、岩泉くんが「やばい」といった様子で口を覆ったのを眺めるしかなく。
「……悪い。なんでもない」
「え」
「早く寝ないとだな」
いつの間にか岩泉くんは再び地面を睨んでいて、かと思えば踵を返されてしまい顔が見えなくなった。
軽く片腕をあげた岩泉くんから、「おやすみ」と背中越しの声が聞こえる。私も咄嗟に「おやすみ」と返すと、岩泉くんはもう一度片腕をあげて数回振った。
じゃりじゃりと歩く音が聞こえなくなるまで立ち尽くしているあいだ、やっぱり昼間のことを思い出す。男の子たちはみんな上半身をあらわにしていたのに、私は岩泉くんだけに釘付けになった。女の子たちもみんな水着を着ていたのに、岩泉くんは私だけに釘付けになっていた。
「……あついな……」
眠れないのは暑さのせいじゃない、熱さのせいだ。身体の奥でじんじん高まるそれは、ぎゅっと胸を掴んでみても治まらなかった。