02


私の後始末をするために残った課長を思いながらの帰り道、「このままじゃ駄目だ」と考えるのは当然のことだった。

電車に乗る時も、最寄りのスーパーに寄った時も、ずっと要領の悪い自分を悔やんだ。 引き受けた仕事が案外難しかったなんて、今後も起こりうるだろう。小さなプライドを守って一人で頑張ろうとした結果、今日は色んな人に迷惑をかけた。佐々木さんにも謝らないと。

そんなことばかり考えていたら疲れるのは当然で、その日は知らないうちに眠っていた。翌朝遅刻せずに起きられたことは奇跡とも言える。シャワーを浴びてなかったので、結局ギリギリに出社したけれど。自己管理能力の欠如だ。こんなんじゃいつかお払い箱になる。新人に仕事を持って行かれる。私のすることが無くなってしまう。今でさえ、大したことは出来てないのに。


「おはよう。昨日大変だったね」


出勤して早々、昨日有休で不在だった佐々木さんに声を掛けられた。既にパソコンが立ち上がっている彼女は早めに出社したのだろう、いや、それを気にするよりも昨日のことを謝らなくちゃ。


「すみませんでした……!」
「課長に怒られたんだって?」
「怒られ……いえ、はい」
「あの人もう出社してるよ。お礼言っといたら」


佐々木さんの指さす先には、同じく既にパソコンの立ち上がった課長の姿があった。私なんか寝落ちして準備がギリギリだったのに、二人とも朝一番から私とは出来が違う。


「昨日はありがとうございました」


そろそろと課長のそばに歩み寄って伝えると、課長は一瞬なんのことだか分からない表情だった。そのあとすぐに「ああ、あれね。事なきを得てるから」と笑顔で返してくれて、色んな意味でほっとした。もう課長は怒ってない。翌日まで怒りを引きずられるような大きなミスでは無かった……のかも。もちろん、自分の犯したことはまだ自分の中で許せていないのだが。


「私、出しゃばったんです。昨日」


席に戻り、パソコンの電源を入れながら、佐々木さんに昨日のことを話した。だいたいの経緯は課長からメールかチャットが飛んでると思うけど、私からも報告しないとなと思って。それに、話して楽になりたくて。佐々木さんは私の話すトーンですぐさま気付いたようだ、昨日の失態を引きずっていると。


「そうなの?」
「できると思っちゃったんです。何もできないのに」
「A社は代表がワンマンだから要望とかややこしいんだよ、気にしないで」


慰めてくれるその言葉は嘘ではないんだと思う。なんとなくあそこの社長、結構無茶ぶりだなって感じてたし。でも佐々木さんや担当の営業さんはそれに応えている。私は応えられなかった。その事実が辛い。


「そういえば今朝メール来てたんだけど、七月からメンバーひとり増えるって」


佐々木さんは自然に話題を変えた。私の気持ちをA社から逸らそうとしてくれたのかもしれない。


「え……」
「新卒が配属されてくるみたい。外回りも二名」


皮肉なことに、新たな話題も私の気分を落ち込ませるものであった。
私たちの部署に七月から、新人が来る。年齢は私とひとつしか変わらないけど、聞くところによると有名大学卒の優秀な人。冷や汗を我慢する代わりに、私の表情はとっても固いものとなった。
佐々木さんは私が強ばるのを見て「先輩がんばらないと〜」と背中を押してくれたけど、笑顔で返す余裕はない。たぶん真っ白な顔で、カタコトの返事しか出来てなかったと思う。



いよいよ会社の中で自分の存在意義が分からなくなってきたけど、そんな深刻なことを相談できる相手はいない。佐々木さんは「なんでも言って」とは言うけど、「実は何をするのも自信がなくて……」なんて重い顔して相談したら困らせるに決まっている。離れて暮らす親に言っても理解されないだろうし、一人暮らしは上手くやってるよ、としか報告していないから。私がちょっとでも弱音を吐いたり体調を崩したりしたら飛んでくるのだ。わざわざ親に泊まりに来てもらうようなことじゃない。私、もう二十三歳になるのに。

そんなわけで私の出した答えというかとりあえずの策は、新人配属の七月までに自身のスキルを上げることだった。そんなの普段からやっておけよって話なんだけど、恥ずかしながら去年は周りの環境に甘えていた。自分は新卒一年目、というのが無意識のうちに免罪符になっていたのだ。

定時ギリギリにやるべきことは終えたので、その後は資料を整理したり、苦手なタイピングを練習した。突然キーボードをカタカタ鳴らし始めた私を見て、周りは不思議だっただろうな。しかもディスプレイにはタイピング練習のページが表示されているんだから。ほんと、今更? ってかんじ。でも家にパソコンが無いから、ここで練習するしかなくて。ネットカフェでキーボードを叩き続けるのは迷惑かなとも思うし。

一時間くらい残って勉強しているうち、まわりの社員はちらほらと退社を始めた。今日は金曜日だから飲みに行ったりするのかもしれない、私は用事なんかないけれど。でもそろそろお腹が空いてきたので、帰宅のためにデスクの片付けをしていた時だ。


「あっ! コレ……」


なんと、置いていたファイルの下から書類が現れた。久しく見ていなかった(と言っても今朝ここに置いた記憶はある)ので忘れてた。これ、今日中に終わらせようと思っていたものだ。


「これは月曜でも……いや週明けは処理増えてるよね……今日やったほうが……」


ぶつぶつと葛藤した結果、今日取り掛かってしまおうという結論に至った。どうせ今夜の予定は無く、土日もスケジュールは丸空きだ。少々帰りが遅くなって寝過ぎても誰にも迷惑はかからない。

というわけで、そこからさらに二時間の残業をすることになった。
九時過ぎともなるとフロアから人は消え、普段たくさんの人が働いているこの空間に自分しか居ないのが新鮮に思えてくる。試しに大声を出してやろうかな、なんて思ったけどそれより早く帰りたい。


「……お腹すいたぁ」


自ら残業することを選んだものの、空腹で集中力が無くなってきた。今から夕食を買ってくるのも面倒くさいし、終わらせて帰りたいのに。一人だと集中できる反面、その集中が切れてしまうとなかなか戻せないのが難点だ。
でも、あと少し。明日と明後日は休みだ。ご褒美に美味しいランチでも食べに行こう。ひとりだけど。


「お疲れ様でーす」
「!!」


突然聞こえてきた声に飛び上がりそうになった。実際に椅子をガタガタッと揺らしてしまい、体勢を崩してしまったが。
入口を振り返ると先輩の黒尾さんが居て、鞄とスーツのジャケットを小脇に抱えて歩いていた。営業帰りのようだ。


「お、お疲れ様です」
「ひとり? もう誰も居ないと思ってた」
「あ……はは……」


確か今日、黒尾さんは静岡に日帰りの出張だった。直帰するものとばかり思っていたけど、会社に帰ってくるなんて。私なんかよりずっと忙しくて大変なんじゃ? いや、忙しくても任せられる仕事があるから黒尾さんは頼られているのか。勝手にひとりでテンパって、話をややこしくしている私とはわけが違う。
しかも今日の私は、やるはずだった仕事を忘れていたせいで残業している。自業自得だ。

黒尾さんはというと自分の椅子にジャケットを掛けて、鞄からノートパソコンを取り出していた。今からまた仕事をするのかな。


「あー腹減った。まだ居る? コンビニ行くけど何か要るものある?」


しかし、そんな彼もさすがに空腹には勝てないらしい。財布だけ持って立ち上がり、私に声を掛けてきた。
私はあと三十分くらいはかかると思う。正直お腹ぺこぺこだけど、「あれを買ってきて欲しい」という具体的なものがすぐに浮かばない。それに、そこまで親しくない先輩にやすやすと頼める度胸はない。


「ないです……」
「そう。分かった」


黒尾さんはあっさり返事をすると、すたすたと出て行った。

歩くのが速い人は、頭が切れて要領がよくて仕事ができるイメージ。私はいつももたもた歩くので、混雑している駅でよく靴のかかとを踏まれてしまう。どんくさいのだ。周りの調和に馴染めない。同期にもどんどん取り残されていく。

黒尾さんという人は、いつも余裕がありそうだ。今だって出張先から帰ってきて疲れていそうなのに。もともとの体力があるのか、こんな仕事は慣れっこなのか。黒尾さんのスケジュールはいつも埋まっているのにミスした話は聞かないし、休日出勤している様子もない。その代わり、ちょくちょく残業している気はするけど。


「大変そうだな……」


大変な代わりに仕事ができる人は、たくさんのやりがいを得られるんだろうな。私はまだやりがいを感じられるほどじゃない。でも、頼られたいとは思っている。与えられるものが無いのに、与えて欲しいことばっかりだなあ。


「ただいまでーす」


十分ほどすると、黒尾さんが戻ってきた。コンビニの袋をふたつ持っている。熱いものとそうでないもので分けているようだ。


「アチッ」


ふたつの袋のうち、熱いほうの中身を取り出していた黒尾さんが小さく悲鳴をあげた。カップのラーメンかうどんだ。コンビニの給湯器でお湯を入れて来たらしい。既に三分経過したのか、彼が蓋を開けた瞬間にカレーのにおいがしてきた。カレーうどんだ! ああお腹すいた。


「ごめん。カレー臭いかも」
「え、いえ大丈夫です」
「ニオイ平気?」
「全然っ」


むしろ「私も帰りにカレーうどん買って帰ろ」なんて思っていたところだ。夕食の楽しみができたことと、黒尾さんの登場で少し頭が冴えてきたことで、幸い仕事はもうすぐ終わりそう。あとは見直ししてPDFにして一応印刷しておいて、それで完了。


「はい」


改めて資料を見返そうとディスプレイに向き直ろうとした時、黒尾さんが何かを持ってきた。もしかして私の夕食のまで買ってきた!? と思ったけれど、どうやら違う。彼の手のひらにおさまるサイズのものが、私の前に差し出されていた。下のコンビニで最近レジ前に置いてあるチョコレートだ。


「……?」
「チョコ苦手?」
「いいえ……?」
「じゃーあげる」
「えっ!?」


今日一番の大きな声を出してしまった。驚く私のことなんか気にせず、黒尾さんは勝手にチョコレートを私の机に置いた。


「俺がっつり食っちゃうけど、ひとりで食べんの寂しいからさー。一緒に食べましょうよ」


そう言いながら、また自分のデスクに歩いて行く。彼の言う「一緒に食べる」とは隣り合わせになりましょうという意味じゃなく、私にも何かを食べさせるという意味らしい。……しかも私があまり申し訳なさを感じないような、数十円程度のお菓子。だけどこの時間には嬉し過ぎる糖分。何気ない贈り物に、計算された意図を感じさせられた。


「それ食ったら早めに帰んなよ。いま残業うるさいんだから」
「……はい」
「そう言うお前も残ってるだろって?」
「い、いやそんなこと!」
「ははは」


けらけらと笑いながら、黒尾さんは別の器を開けていた。カレーうどんの他にチキンとおにぎり二個も食べるようだ。


「ごめんごめん。俺が話しかけてっから進まないね」


黒尾さんはまた私が重く考えるのを防ぐように、そんなことを言ってみせた。
私は本当にすぐ終わる内容しか残っていなかったので、「大丈夫です」と答えて仕事に戻った。先に黒尾さんがくれたチョコレートを味わってから。口の中でとろけていく甘さが心地よく、全身に栄養が行き渡るみたい。チョコってこんなに美味しかったっけ。

それからまた十五分ほどして、ついに私はやるべきことを終えた。パソコンを消し、デスクに鍵をかけ、ひと息ついた頃には黒尾さんは全てのご飯を食べ終えていた。は、早い。


「……あのう、黒尾さん」
「うん。あ、上がる?」
「はい。あの」


黒尾さんだけを残して帰宅するのが申し訳ないけど、私が居ても力になれることはないし。早く私もカレーうどん食べたいし。でも、言わなくちゃ。


「チョコ、ご馳走さまでした」


ぺこりと頭を下げると、黒尾さんは目を丸くした。仕事中とは少し違う気の抜けた感じ。でも、すぐにまた「頼れる黒尾さん」の顔で言った。


「やだな。そのくらいじゃご馳走したことになんないって」
「でも……」
「じゃあおつかれー」


私の言葉を遮るように言うと、黒尾さんはパソコンの画面に視線を戻した。
今のこれも、私がこれ以上お礼を言ったり申し訳なさそうにするのを防ぐため? なんて勘ぐってしまった。これまで黒尾さんと直接関わる仕事はしたことがないし、去年の忘年会でも全然話さなかったから、こんなに彼と話したのは初めて。

これっぽっちのことで黒尾さんのことを知った気になるつもりはない。ないけれど、女の子って単純でしょう。私なんか特に。疲れてる時に優しくされると、特に。