だいきらいな温もり
(前編)



海の香りがする。暖かいだろうと思っていたのに思いのほか冷え込んで、手袋を持って来ればよかったと後悔した。
マフラーを使うのは好きではない。息が詰まるし、何度洗濯したって持ち主の匂いが消えずに残っている気がして、首に巻くたび思い出してしまうのだ。今なにをしてるの、どこにいるの、誰と話してどう感じているの? ほんの一瞬香った匂いだけでそれだけの疑問が浮かんでしまうのはとても苦しい。だから、マフラーは巻かない。誰かに貰ったマフラーなんて、特に。

クローゼットの奥に眠っていた大きなリュックサックは中学の時に親が買ってくれたものだ。こんなに不格好なリュック使えないよ、とぶうたれながら仕舞いこんだのを覚えている。初めて使うのが買ってから数年後になるなんて、しかも私にとっての初めての一人旅で。
そのリュックを背負い直し、九時間世話になった夜行バスを見送り、私は潮風に導かれるままに歩いていた。どうせ約束の時間まで、あと数時間は暇なのだから。

バスを降りたそこは自分の地元と全く違う街並みかと思いきや、似たようなものだった。大きくて栄えていそうな駅。けれど今は朝の七時過ぎだから、人影は多くない。おまけに祝日なので通勤のサラリーマンもおらず、がらんとした様子だった。それが余計に私の気持ちを下げてしまって、せっかく長旅をして見知らぬ土地に来たというのにワクワクした気持ちなど沸いてこない。せめて誰かが酔っぱらって騒いで居れば、それを面白おかしい気持ちで眺める事が出来たのに。


「七時半……」


時計はなかなか進まない。ひとりで待つのってこんなに暇で、こんなにも孤独なんだと思い知らされた。ほんの少し駅前にひとりで居るだけでこう感じるのだから、もっと長い時間ひとりになったら文字通り寂しくて死んでしまうのではないか? そう言ったらきっと笑われるんだろうけど、だから言わないけど。
いい加減に寒くて凍えて来たので、どこかのカフェでコーヒーでも飲もう。そう思ってすぐ側にあったベンチに腰掛け、スマホで『近くの喫茶店』と調べようとした時だ。


「危ないよ」


恐らく人通りの少ない場所で、女の子がひとりで座り込む事についての注意の言葉。その声に私は顔を上げた。呼びかけに反応したわけじゃない。声の主に対しての反応である。


「……なんで居るの?」


居るはずのない人物がそこに立っていて、笑顔とも無表情とも取れる表情で私を見下ろしていた。角名倫太郎、東京で生まれ育ち、幼稚園から中学までをずっと一緒に過ごしてきた男だ。


「なんでって。ここが待ち合わせ場所だから」


倫太郎はさも当然といったように答えると、私の隣に腰を下ろした。
彼の言うとおり、東京から夜行バスでやって来た私と兵庫県在住の倫太郎は待ち合わせをしていた。今日この場所で。けれど待ち合わせまではかなり時間があって、だからどのように時間を潰すか悩んでいたところだったのに。


「でも、まだあと二時間以上……」
「どうせいつも早起きだし。家に居てもする事ないしね」
「でも」
「久しぶりに会ったのに挨拶も無いの?」


私の動揺なんか構いもせずに彼は話を続けた。
いつも早起きだというのは、ずっと前から知っているのできっと本当だ。でも、もしかして私が「七時に着くバス」だと伝えていたから、それに合わせて来てくれたのではないかと期待した。しかし、倫太郎はその期待に応えるような素振りはひとつも無く。仕方なく挨拶をする事にしたのだった。


「……久しぶり。倫太郎」
「久しぶり、すみれ」


その時初めて倫太郎がニコリとして、それまでは驚きでいっぱいだった私の心に本来の感情が戻ってきた。わざわざ片道九時間かけて、バスに乗って会いに来た理由と覚悟を思い出したのだ。
けれど、会ったばかりでそれを伝えるのは難しくて。ベンチから立ち上がり、お尻に着いた汚れを払いながら目を見ないように努めた。
しかし倫太郎は、私が何を考えてここに来たのか察しが付いているくせに迷わず話しかけてくるのだった。


「持つよ」
「え、いいよ重いから」
「そこ入ったところにコインロッカーあるから。入れれば?」


そう言って駅の入口を指さすので、それもそうかと従う事にした。夜行バスで来て、その日の夜行バスで帰るという弾丸の旅だけれども荷物が多いのだ。バスの中でメイクをしたりとか、倫太郎に渡すお土産があったりとか。お土産は帰りのお別れの時に渡せばいいかと思い、荷物と一緒にロッカーに入れた。……まだ帰る時の事なんて考えたくはないし。


「で、何する?」


ロッカーの鍵を閉めると同時に倫太郎が言った。今日の私は「神戸付近を観光したい」という名目で来ているので、行きたい場所を事前に考えておくよう言われていたのだ。
けれど、観光なんて二の次だった私はぼんやりとしか決めていなかった。しかも神戸観光の本が入った大きなリュックを、たった今ロッカーの中に仕舞いこんでしまったのを思い出した。


「あ…やば、ガイドブック、リュックの中だ」
「まじ?」
「ごめん」
「全然変わんないね」


くすりと笑われてもムッとしないのは、相手が倫太郎だから?「変わらない」と言われた事が嬉しいから?嘘、私はもう二年前の私とは違うのに。


「行きたいところある?」


ガイドブックから探す事が出来ないので、倫太郎は私に直接聞いた。
行きたいところなんてピックアップしていない。ページをぱらぱらめくって流し読みしただけの内容なんて、頭に入っていなかった。しかし、ガイドブックを購入済みであることを知られているので、候補のひとつやふたつ挙げなければおかしい。
考え抜いた結果思い浮かんだのは、本に載っていない場所であった。


「倫太郎の高校、行ってみたい」


そう言うと、倫太郎は「そんなのでいいの?」と言いながらも歩き始めた。私にとっては「そんなの」なんかじゃなく、とても興味のある場所だ。倫太郎が十五の若さで地元を離れてまで選んだ場所を見てみたい。私の夢を奪った場所が、どれほどの高校であるのかを。



生まれてから一番の落胆を味わったのは、ちょうど二年前の十二月の事。
あの時も倫太郎と約束をしていて、けれどその一週間前に突然「行けなくなった」と連絡を受けたのだ。理由を問いつめるために私は彼の家に押しかけた。今思えば、倫太郎のおばさんには申し訳ない事をしたと思うけれど。取り乱した様子の私を見て、倫太郎はそっと手を取り近くの公園へと連れ出したのだった。


「なんで教えてくれなかったの」


倫太郎に手を引っ張られながら、私な彼の背中に訴えた。答えは無い。ただ私を、誰も居ない静かなところに誘導しているかのようだった。


「なんで教えてくれなかったの!」


ちょうど公園に着いた時、私は倫太郎の手を振り払ってこう叫んだ。彼の口からは「ごめんね」とか「なかなか言い出せなくて」とか、そんな台詞が返ってくるのだろうと思っていたけど。


「言う必要とか、ないと思う」


と、ひどく突き放した様子で言われたのみだった。そんな言われ方をした事にも、そんなふうに思われている事にも腹が立って、ますます声を荒らげたものだ。


「ないわけ無い!こっちの高校行くって言ったじゃん!」
「気が変わったんだから仕方ないじゃん」
「絶対うそ、最初からあっちに行くつもりだったんでしょ、誘われてたんでしょ!」


そうでなければ倫太郎の口から「スポーツ推薦」という単語が出てくるはずが無い。夏休み明けには既に、関西の高校から声がかかっていた事も。
それなのに数ヶ月もの間、幼馴染である私には何も言わず、それどころか同じ高校を受ける素振りすら見せていたのだ。この時の私は自分の事で頭がいっぱいで、こんな裏切りが許されるはずは無いと、倫太郎をなじる事しか出来なかった。


「クリスマス、約束してたくせに!」


その最大の理由は中学三年のクリスマス、この喧嘩の一週間後に控えていた約束だ。倫太郎は冬休みの間、関西に住む親戚の家に一週間ほど滞在するのだそうだ。つまりクリスマスも、年末年始もずっと関西に居るという事。進学する高校のバレー部の練習に、参加する事が決まっていると言うでは無いか。
けれど、私と彼はクリスマス一緒にイルミネーションを見に行こうねと約束していて、私はその時に気持ちを伝えるつもりだった。倫太郎をただの幼馴染としては見ておらず、とうの昔から男の子として見ていた事を。それなのに告白のチャンスを奪われたどころか、半年も満たないうちに彼は遠い兵庫の地へ行ってしまうだなんて。


「なんで、言ってくれないの……」


私は項垂れながらもう一度、力なく倫太郎の肩を殴った。もっと早くに言ってくれれば、心の準備が出来たかも知れないのに。クリスマスに期待する事なんて無かったのに。


「言ったら、私が泣いてメンドくさくなるって思ったから?」


面倒な事は後回しにしてやろうと思われていたのだろうか。彼にとって私はその程度の存在だったのか。
悲しむべきか、悔しがるべきか、怒るべきかが分からない。黙っている倫太郎の身体をドンと突き放しても、何か言ってよと睨みつけても、倫太郎はその表情をピクリとも動かさなかった。
けれどその代わり、自身の首に巻かれたマフラーに手をかけた。ゆっくりとそれを外して、たった今全力で身体を押した私に近付いてくる。もう一度押し返すか離れるか抵抗してやろうと顔を上げると、首元にふわりと柔らかい感触がした。


「夢だから」


同時に、倫太郎の声。そのほんの短い言葉に、私の怒りも悔しさもすべて呑み込まれた。私だって倫太郎が最終的に何を求めてどうなりたいか、知っていたからだ。その選択肢として、まさか遠くの高校を選ぶとは思っていなかっただけで。
彼の手で巻かれたマフラーからは昔から変わらない倫太郎の香りがして、このマフラーでどうか許してねと言われているように感じた。その時はもちろん、許すように努力したけれど。香りだけを残して居なくなった倫太郎を許すなんてやっぱり無理で、いつしか倫太郎の匂いをかぐ事すらも苦痛になって、私はそれを境にマフラーというものを使わなくなった。どんなに寒くても、自分で買った別のマフラーでも、倫太郎の事を思い出してしまうから。


「すみれ」


ハッとして倫太郎に目を向けると、マフラーを外したはずの彼があの時とは違うマフラーを巻いて立っていた。


「え……な、なに」
「信号。青だよ」
「あ」


私は無意識のうちに過去の事を思い出していたらしい。そして、無意識のまま現在を生きる倫太郎の後ろをついて歩いていたようだ。そして、信号が切り替わったのに一歩も動かない私を不思議に思ったらしい。


「バス、疲れた?」


疲れたからぼんやりしていたわけじゃ無い。けれど本当の理由は言いたくなくて、昔の思い出に少し泣きそうになったのを誤魔化す為にも私は勢いよく頷いた。


「だって、あんなに長時間乗ったの初めてだもん」
「へえ」
「倫太郎は何で来たの?こっち来る時」
「新幹線」
「え!いいなあ」


無理やり声のトーンを上げてみると、なんだ、意外と普通に会話出来ている気がする。それにほっとして、その流れのまま私達は他愛ないことを話した。こっちの家はどうだとか、どんな友達が居るのかとか。倫太郎が兵庫に来てもう二年が経つのに、私達はこれまでそれについての会話をしていなかったから。倫太郎がこっちでどうしているのか、全く知らない。教えて貰ってない。だから、無理やり会いに来る約束を取り付けたのだけど。


「着いた。ここ」


やがて電車で何駅か離れたところにある、大きな学校に到着した。門は思っていたより立派で、中に見える校舎はいったい何棟あるのかここからでは分からない。


「ここが…」
「稲荷崎高校」


倫太郎は自身の通う高校名を、はっきりと告げた。それが何故か「ここが俺の居場所」と線を引かれたような気分になったのは内緒だ。


「誰も居ないね」
「振替休日だからね」
「部活も休みなの?」
「今日だけ。明日から年末までは休み無し」
「そっか…」


今日は、振替休日。ちょうど部活が休みで、何の因果かクリスマスイブだ。私が一昨年の冬、喉から手が出るほどに欲しかった倫太郎との時間。
それを思うと胸が苦しくなったし、明日からは休む間もなく練習だと言う倫太郎のハードなスケジュールも聞くだけで苦しかった。もしかして一昨年も、クリスマスから年末にかけての合宿のようなものに参加するために、私との約束を取り消したのかも知れない。


「入る?」


倫太郎が聞いてきた。ここまで来たら入ってみたい気持ちはあるけれど、私服の、しかも学校関係者じゃない私が入っても注意されないだろうか。


「入っていいのかな」
「いいっしょ」


本当に良いのかは分からないけど、生徒である倫太郎が一緒なら恐らく大丈夫だろう。
校門は開いていたので、私達は私服で学校内に足を踏み入れた。広い校庭を進んで行くとまずはグラウンドがあって、その奥に校舎が並んでいた。また別の場所にも校舎があって、あれは特別教室が入っているのだと倫太郎が教えてくれた。バレーボールの強豪と言うだけでなく、県内屈指のマンモス校である稲荷崎高校の立派な設備には開いた口が塞がらない。そして極めつけは、案内された先にある複数の体育館だ。


「これ。バレー部の体育館」


鍵閉まってるかな、と呟きながら倫太郎がドアに手をかけた。すると重そうなドアが動き、倫太郎がにやりと笑いながらこちらを振り向いた。いたずらを成功させた時のような表情は遠い昔に見た事があるもので、「変わらない」のは自分も一緒じゃん、なんて思った。

広い玄関で靴を脱いで進んで行くと、やがてぴかぴかに磨かれているであろう体育館の床が見えた。入口の横にある案内図には控え室や二階に登る階段のことも書かれており、試合を観戦できるような客席が設けられている様子。うちの高校には体育館に客席なんか無いので、そのインパクトがとにかく凄かった。


「ここでやってるんだ…」


ドアの前で中を覗きながら言うと、倫太郎が小さく頷くのが視界の端に見えた。
ここが倫太郎の夢の場所。私との約束を断ってやって来たところ。夢だからと、親と離れ離れになってまで入学した高校。


「ここで、夢、叶えてるの?」


そう聞いてみると、倫太郎は苦い顔をした。そこで今の聞き方はあまり良くなかったのだと理解した。つまり彼はまだここで、夢を叶え切ってはいないのだ。


「嫌なこと聞くね」
「そ…そんなつもりじゃない」
「そんなに俺がここに来た事、根に持ってるの?」


そう思われても仕方がない質問だったし、実際にまだ根に持っているので、私は否定する事が出来ない。誤魔化すための言葉を探すのに必死で頭を回転させた。


「だって倫太郎、ちゃんとレギュラーになったっておばさんに聞いたから」


倫太郎からの直接の連絡は無かったけど、時々スーパーで会うおばさんから近況は聞いていた。レギュラーになったらしいとか、次の全国大会に出るから応援に行くのだとか。だから、倫太郎は地元では叶えられない大きな夢をこちらで叶えているのだと思っていたのだけれど。まだその夢は完成系では無いようだ。


「中、入ろうか」


私の言葉には笑って済ませるだけで、倫太郎は靴下のまま体育館の床を歩き始めた。私も彼の後ろについていよいよ体育館に入ると、やっぱり大きく広がる二階観客席の凄さと言ったら。


「わ……広いね」
「だね。俺も最初はびっくりした」


倫太郎は足を止めずに歩き続け、隅っこに置いてある大きなかごのところで立ち止まった。ボールが大量に入っている。普段は朝から夕方まで練習で使用するので、カゴは隅に固められているらしい。その中からボールをひとつ手に取って、一度、二度、彼はそれを床に叩き付けた。


「やる?」
「えっ」
「はい」


私がなんの準備も出来ないうちにボールを投げられて、ぎりぎりキャッチする事が出来た。やるって、今から二人で?と倫太郎を見やると、体育館の中心へ移動しながら言った。


「投げて。前みたいに」


前みたいに。それだけで私はピンと来てしまった。小学生の時、倫太郎がバレーボールを練習するために何度も付き合ってあげたから。ボールが届きそうな位置まで数歩進んでから、私は両手でボールを持った。


「はいっ」


そして、下から山なりに投げてみせる。ちょっと高すぎたかなと思ったけれど(昔、高すぎて打ちにくいと倫太郎に文句を言われた事があるので)、全くその心配は無いようで。小学生の時は勿論、中学の時よりも格段に高い位置から倫太郎はそれを打ち下ろした。きっと本気の力では無いのだろうけど、私の知らない彼の姿に、思わずあんぐりと口を開けた。


「……うわ」
「次、すみれの番」
「え、うそ私?」
「やった事あるよね?」


そりゃあやった事はあるけど、小学生時代に倫太郎の練習に付き合っていた時の事。あれからバレーボールなんて体育の授業で数回やった程度。試合形式の授業ではソフトバレーボールだったし、と言い訳を並べる暇は無さそうだ。


「ハイ」
「わ、」


心の準備ができないまま倫太郎がボールを投げて、高く浮いた。どこからどう撃てばいいのか分からずに落下点までふらふらと移動して、ちょうどタイミングの良さそうなところで思いっ切りジャンプ。


「とうっ」


右腕を力任せに振って、手のひらにベシンとボールの当たる感触がした。続けてそのボールは再びゆっくりと浮いて、でもさほど遠くには行かずに床に落ちた。まさかちゃんと当たるとは思わず、意外と上手く行った事に感動して倫太郎を見ると、なんとお腹を抱えて笑っている。


「とうっ!て。超うける」
「わ、笑わないでよ!あれから全然やってないんだからっ」
「それにしても運痴すぎだよ」
「うるさいなあ」


私だって好きで運動音痴なわけじゃない。倫太郎が平均よりも優れているだけだ。それだけの練習をしているのは分かっているけれど。


「変わんないね。二年経っても」


さっきまで思い切り笑っていた倫太郎が、いつもの落ち着いた顔に戻って言った。変わらないってさっきも言ったけど、褒めてるの?貶してるの?


「……運動が下手なとこ?」


どこをどう見て私が前と変わらないのか、聞いてみたけど答えが返ってくる事は無くて。何事も無かったかのように「座る?」と端に移動し、体育館の壁に背中を預けて座り込んだ。私も頷いて倫太郎の隣まで歩き、何にも例え難い微妙な距離を空けて腰を下ろした。
倫太郎に言われるまま座り込んだは良いけれど、そこから私達は静かな体育館の中に溶け込むように一言も喋らなかった。倫太郎から話し掛けてくれるのを待っていたし、何を言えばいいか分からなかったし。容易に口を開くと、せっかく会えた今日の日がぶち壊しになるような、不用意な発言をしてしまいそうで。


「誰も居ない体育館って、超落ち着く」


しばらく外から聞こえる音だけに耳を傾けていたけれど、倫太郎がしみじみと言った。


「……それ、中学の時も言ってたね」
「うん」
「どうして?静かより騒がしいのが好きでしょ、倫太郎」
「まあね」


倫太郎は昔から、自分はあまり口数が多くないけれど楽しそうな事に首を突っ込むのが好きな性格だった。クラスの皆が悪戯の計画を立てていると、私が止めても必ず乗っていたっけな。先生に怒られてもその場では謝るけど、後から「超最高だった」と笑っていたのを覚えている。そんな倫太郎が体育館という空間では、静かであるのを好むとは。珍しいね、と言う私に倫太郎はこう言った。


「でも、夢のことを考える時はこっちのほうが良くない?」


また出てきた「夢」という単語に、私は言葉を失った。
夢を求めてやってきた彼にそれ以上のものは無く、また私とは切り離された世界の話をされているみたいで、悲しくなった。倫太郎の夢はこの稲荷崎高校の、体育館の中にある。あるいはここで築き上げたものを発揮できる事こそが、それで得られた結果こそが夢なのだ。東京には、それが無い。

後編