November 1st , Thursday


十一月というだけですっかり木枯らしが吹き荒れるようになった、と感じてしまう。わたしの心がすさんでいるせいかもしれない。隼人はせっかく普段通りに接してくれているのに、試合に出ていた本人よりもわたしのほうが気持ちの整理がつかないなんて情けない。呆れられるだろうと思う。終わった試合の事で大泣きして、もう役に立たない御守りなんか持ち歩いて。

昨日隼人に泣いているのを見られてから「またメールする」と言ったものの、なんと送れば良いか分からなくて何も送れていない。隼人からもメールは無い。わたしの連絡を待っているのか忘れているのか呆れているか。


「おはよー」
「おはよう!すみれ、宿題やった?」


朝、教室に入ると友人からの他愛ない話が振られてきた。
そういえば宿題が出ていたっけな、と鞄を漁りながら目を向けるのは隼人の席。まだ隼人は来ていない。もすうぐ朝のホームルームが始まるのに。牛島くんも居ない。朝練に行っているのだ。引退したのに。


「すみれ?」
「あ、うん。一応やってる」
「念のため答え合わせしてもいーい?」
「うん」


と、言いながら教室の入口をちらりと見るとちょうど隼人が入ってきた。
彼の口は「おはよう」と動いており近くの生徒に挨拶している。それから私のほうを向く、かと思いきやそのタイミングで先生が入ってきた。同時にチャイムが鳴りはじめ、教室内は一斉に教壇に立つ担任の先生へと意識が集中してしまった。

一限目、二限目、三限目が終わってからの休憩時間、わたしと隼人は一度も会話をしなかった。顔すら合わせていない。怖くて隼人のほうを見る事ができないのだ。
わたしのブレザーのポケットにはまだ、出番の無かった御守りが入っている。寒さを凌ぐためにポケットに手を入れるたび、これがわたしの指に触れて存在を主張してしまう。もう捨ててしまえばいいのに捨てられない。
恋人にもまともに顔を向けられず、自分の気持ちにも向き合えず、わたしって何をやっているんだろう。


「すみれ」


四限目終了のチャイムが鳴り終えるよりも早く、隼人が目の前に立ちはだかっていた。手には事前に準備していたらしいパンを抱えて。それだけで「一緒に食べよう」という意味だと理解した。


「…ハイ」


昨日は咄嗟に避けてしまったけれど、今日も同じように逃げてはならない。そうすればきっと、簡単には戻せないくらいの溝が出来てしまう気がして。


「飯持ってる?」
「う、うん」
「おっけ」


てっきりその場の空いた椅子に座るのかと思ったら、隼人は勢いよく方向転換をした。教室の外に出るようだ。どこに行くつもりなのか分からなくて戸惑っていると、「屋上!」と人差し指を立てながら言われた。

屋上で二人きりでの昼休憩。つい先週も同じように二人で食べた記憶がある。ただ先週はまだ、バレー部三年の引退は決まっていなかった。

二つ返事で首を振ったものの十一月に入った今日、屋上は思いのほか寒かった。晴れているから陽向はぽかぽかしているけど、屋上のドアを開け吹き込んできた風に身をふるわせた。


「…さむい」
「ん。これ」


隼人はおもむろにブレザーを脱ぐと、わたしの胸元めがけて投げて寄こした。驚いたことに彼は長袖のシャツを腕まくりをしている。こんな時期でもまだその姿で耐えられるらしい。


「ありがとう」


受け取ったブレザーはあたたかくて、まだ隼人の体温が残っていた。たぶん普段のわたしなら、今ここに一人だったなら、顔に寄せてくんくんと匂ってしまったに違いない。

けれど今は隼人がすぐそこに居て、陽の当たる居心地いい場所を見つけて座ったところであった。本人に見られている状態で、しかも昨日あんな事があったのに、ブレザーの残り香を楽しむ余裕なんて無い。
わたしも隼人の隣に座って、なるべく何事も無かったかのように昼休憩を過ごす事にした。隼人が何かを言うまでは、昨日のことは言わないでおこう。そう心に決めて。


「なあ」


しかし、隼人からの発信はとても早かった。パックの牛乳にストローを挿しながら、低い声で話し始めたのだ。その声色だけで、今から話されるのは決して明るい話題ではないと予測できてしまうほど。


「ごめんな」


そう言うと、隼人は思い切りストローを吸い上げた。


「…どうして?」
「昨日のこと」
「昨日…」


昨日のあれを思い出す。自分の謝るべき点はいくつも見つかるのに、隼人がわたしに謝るような事は思い出せない。
昨日の何について謝っているのか聞きたいけれど、聞けるような空気じゃない。でも隼人はわたしの表情がぽかんとしているのを見て、謝罪の意図が伝わっていないのを理解したようだ。


「すみれにあんな顔させるのは俺が不甲斐ないから。…と、思うから」


しかし、残念ながらこの説明を受けてもわたしは彼の意図を汲み取ることが出来なかった。むしろますます分からなくなってしまったのだ。隼人に不甲斐ない点があるなんて思った事、一度だってないんだから。


「ちが…違うよ、昨日のは」
「違わねーよ」


ビクッと身体が固まるのを感じた。なぜだか風も止んで、とても静まり返ったような。隼人からピリピリしたものを感じ取ってしまったのだ。


「じゃあどうして俺の居ないところで泣いてんだよ。しかもアレだろ、俺らが負けたせいで泣いてんだろ」


その上彼の納得出来ない内容は、わたしが最も後ろめたいと感じている事。負けた本人たちの前で泣きたくないと思っている事。わたしの泣いてる原因が、白鳥沢が負けたせいだという事。
でも勿論わたしは負けた事を責めたりするつもりは無い。ただただ悔しい。ひたすら悔しいだけなのだ。でも一番悔しいのは隼人だからと思って我慢していた、結局は見られてしまったけれど。


「泣くなら俺の前で泣いて、そんで負けんなクソ野郎って俺のこと罵ってみろ」


いつの間にか隼人は牛乳を全部飲み干していて、紙パックを思い切り握り潰していた。それがわたしへの怒りのせいではなく、自分自身への怒りなのだと分かるのが苦しい。


「……むりだよそんなの」
「まあ最後のは冗談としても!知らないトコで泣かれんのは俺が辛い」


そして、本当に隼人が言いたかったのは恐らくこれなのだと思えた。


「…だって…」


じゃあ、負けた自分が泣くのを我慢してるのに、ただ応援していただけのわたしが大泣きしているのをどう思う?お前が泣くなよって思わない?部外者のくせにって思われない?それが嫌で、怖くて、絶対に良くない事だと思っていたのに。
情けないことに、いま怒られなきゃ分からなかった。隼人はそんなの微塵も気にしない人なんだという事を。


「……もう一回試合したら勝つもん…」


膝に乗せた隼人のブレザーに水滴が落ちた。こんなに晴れているのに雨が降るわけない。という事は「隼人の前では泣きたくない」って思っていたわたしが、泣いてしまっているという事だ。


「全員そう思ってるよ」


隼人は自分のブレザーがどうなろうと知った事じゃないらしい。しゃくりあげるわたしの背中をゆっくりと撫でるのみで、ブレザーを取り上げようとはしなかった。
わたしはストッパーが外れたみたいに、今まで我慢していた涙が溢れてきた。昨日出し切れなかった涙も全部。


「でももう次は無いから。終わったんだよ。切り替え大事な」


そういうのって、切り替えれば次がある時に言う台詞では無いのだろうか。もう次が無いのに、どうしてそんな事を言えるのか不思議でならない。わたしには到底理解できない次元を生きているような懐の深さを感じさせた。


「ん」


やっと涙が落ち着いたころ、あるいはわたしの涙が引くのを待っていたかのように隼人が手を出してきた。何かを求めるように手のひらを上に向けて。


「…ん?」
「なんか持ってたろ昨日。御守りみたいなやつ」


ばっちり目が合っているのに逸らしそうになってしまった。けど、隼人の有無を言わさぬ視線に負けてしばらくそのまま固まった。御守り、まだ持ってる。ポケットに入っている。


「くれるんだよな」


何も言っていないのに、彼はそれが自分宛であると確信しているようだ。もちろん隼人のために作ったものである。でも、今から渡しても恐らく遅い。


「…けど、これ必勝祈願だし」
「いい。どうせ受験戦争が待ってんだから」


おずおずと取り出した御守りを、隼人が素早く手に取った。またわたしが突然引っ込めて、どこかに逃げるのを防ぐためかも知れないな。


「俺、バレーの強い大学に行く」


御守りの「必勝」の文字を見つめながら隼人が言った。
隼人ならきっと希望するところに行ける。わたしがそれを保証する。だってこんなにも努力家で、あんなにも上手くて強いんだから。

でも大学という言葉を聞いて頭の中を過るのは、わたしと隼人の進路であった。わたしは県内の大学を一般で受けるつもりで、隼人がどうする予定なのかは全く聞いた事が無かったのだ。先の事よりもまずは目の前の大会を、と思っていたから。
もしかしたらわたしたちは、卒業後に離れ離れになるかも知れない。そう思うとまた気持ちがぐんと落ち込んでしまった。


「すみれの志望校、強豪だよな?」


わたしはあまりにも悲しくなってしまったので、その時聞こえてきた言葉にすぐに反応できなかった。
わたしの受ける大学は確かにスポーツに力を入れている、と聞いた事がある。でも自分がスポーツをするわけじゃないから詳しくは調べていなかった。隼人は「知らねーのかよ」と笑いながら、その学校のホームページを出してくれた…確かに、そのように載っている。


「……一緒のとこ受けるの!?」
「なんだその反応、嫌か」
「嫌じゃないっ」


嫌なわけない。それどころか有頂天だ。まだセンター試験も終えていないのに受かったかのような気分!隼人もわたしと同じ大学に行くつもりだったなんて。どうして言ってくれなかったの!聞かなかったわたしも悪いけど。


「そしたらまた試合ある?」
「あるんじゃねーか、なんたって強豪だからなあ」
「そっか…」
「だからずーっと暗い顔されると困るんですよねえテンション下がるって言うかあ」
「いたたっ、ハ、ハイ」


ペシンペシンと太もものあたりを叩きながら言うので、脚にブレザーを乗せていなかったら赤い手型がつくところだ。そしてふと視線を落とせば、ブレザーに小さな染みが付いているのに気付いた様子。汚れではない。わたしの涙の跡ってやつだ。それを見つけると隼人は思い切りわたしを睨み付けた。泣き過ぎだぞっていう意味で。


「高校のバレーは終わったけど。俺べつにバレー辞める気ねーから」


だからコレは絶対に返さないからな、と隼人は御守りを顔の前に掲げた。
不思議だ。少し前まで絶対に渡したくなかったのに、見せたくもなかったのに、もう二度と返して欲しくないなんて。付き合い始めてから今までは隼人に色んなものを与えてもらってばかりだったけど、初めて何かをお返し出来たような気がした。
これからもっと、しつこいくらいに御守りを作りまくってやろうと思うけど。
それから大学に入ったらもう少しだけ、わがまま言ってやろうと思うけど。一番最初に浮かぶのは「一緒に夏祭りに行かせてください」かなあ。