October 31st , Wednesday


バレー部の応援ムードはだんだんと無くなっていき、学校では来月の学園祭に向けてそれぞれが忙しくなっていた。
うちのクラスも大掛かりな準備は必要ないものの、ちょっとした飲食店をする事になっている。これまであまり準備に参加していなかった牛島くんも隼人も、クラスの行事にしっかり参加するようになった。とはいえ引退しても彼らはまだバレー部の一員で、後輩の練習を見る為に部活に顔を出したりと、多忙な毎日を送っているようではあるけれど。おかげでわたしは試合の後、隼人とはゆっくり過ごせていない。過ごしたいとは思えない。まだわたしの心が受け入れられていないのだった。負けてしまった事を。
そのことを考えると、数日経った今でもすぐに涙があふれてしまう。そんな状態で隼人と顔を合わせるわけには行かなかった。負けた本人の前で涙を見せるなんて、絶対によくない事だと思うから。


「すみれ、おはよう」


しかし、隼人はわたしの姿を見つけるや否や近付いてきた。片手に丸めた数学の教科書を持って、それを軽く振りながら。


「お…オハヨ」
「俺、一限の数学当てられそうなんだよな。これ合ってるかどうか一緒に見てほしいんだけど」


そしてわたしの机の上に教科書を広げた。前の椅子が空いているのをいい事にそこに座り、応用問題の問一を指さしている。
何かがおかしい。確かに山形隼人がここに居るのに、いつもの彼なのに。まるで先日の試合の記憶が切り取られたみたいに、わたしに接してくるのだ。


「もしもーし」
「あっ、ゴメン…うん」


ちょっと混乱してしまい、言われたままに目を通した数学の問題はすぐには理解できなかった。でも、ちょうど昨日解いた問題集に似たような問題があったのでなんとかそれを思い出し、隼人の解答と自分の解答も一致した。


「…あってると思う」
「マジ?よかった」
「うん」
「さんきゅー」
「うん」


こうして隼人の勉強を助けてあげるのはいつもの事だ。
でも、こんなにも簡単に「いつも」に戻るのはわたしには無理だった。まだ夢を見ているみたいな、決勝はまだ終わっていなくて来週にでもまた試合が行われるような、そんな気がするのだ。


「どっか調子でも悪い?」


ぼーっとしているわたしに隼人が言った。様子がおかしいと思われているらしい。だって、思ったよりも隼人が試合の事を引きずっていなさそうだから。本当に吹っ切れているのか強がっているのか分からなくて。


「…わるくない」
「そう。ならいいけど」
「ウン」


わたしはどこも悪くない。それよりも隼人がどうなのかを知りたい。だけど、わたしの踏み込んでいい領域なのか分からないだけなのだ。

そしてその悩みは午後も続いた。昼休憩になると隼人がわたしのところまでやって来て、食堂に誘うかその場でパンやおにぎりを広げるかのどちらかだ。今日も「昼飯どうする?」と言いながらやってきた隼人は片手に財布を持っていたので、購買か食堂に行く予定らしい。


「…ええー…あ、ごめん友だちと食べる約束してて」


わたしは咄嗟に嘘をついた。今の自分に、隼人と二人きりで昼ごはんを食べる事ができるなんて到底思えなかったから。隼人はほんの一瞬首をかしげたように見えたけど、すぐに納得した。


「そっか、じゃあいいや。若利ー」


そして同じように席を立とうとしていた牛島くんのところへと、歩いて行った。
ほっとした。勘づかれなくて。たぶん大丈夫だよね、変に思われてはいないはず。今までも時々わたしは隼人を断って、友だちとお弁当を食べた事があるんだし。他の男の子と食べるとか、浮気してるとかじゃないし。


「……喧嘩?」


わたしたちの様子を見ていた友だちが、恐る恐る声を掛けてきた。


「ちがう」


けれど、彼女にとっては喧嘩でもしているように見えたのだろう。わたしが変だから。やっぱり変なのはわたしなのだ。
でもこの気持ち、どう処理すればいいか分からない。わたしだって隼人の夢を叶えるために色んなことを犠牲にしたのに、全部終わってしまったんだもん。


「隼人と居ると、たぶん泣いちゃう」


居なくても泣いてしまう。これまでの半年間を思うと、いとも簡単に。

そして、ポケットの中に手を入れるとすぐ指先に触れた物が極めつけだった。
一生懸命刺繍した「必勝祈願」の文字は歪んでいて、いびつである。それでも頑張って作ったのだから渡そうと思っていた。土曜日の午前中までは。

わたしの勝手だけれども、すっかり春高に行くものだと思っていたから御守りなんてものを作っていたのだ。県予選は難なく突破できると思い込んでいたので、クリスマスにでも渡そうと思っていた。それがもう要らなくなってしまって、それどころかわたしの手元にあるだけでずんずん気持ちが重くなる。
これ、もう要らないんだ。負けてしまったから。もし決勝の前に渡しておけば試合の結果は変わっていただろうか?

渡せなかった自作の御守りを抱きしめて、ひとりですすり泣く日が来るなんて思いもしなかった。こんなに惨めな光景は漫画でだって読んだことは無い。
だけど誰かの前で泣く事なんてできやしない。わたしは偶然部員と交際しているだけの生徒で、試合に負けた当事者ではないのだから。泣くだなんておこがましい。もう試合の日からは何日か経っているのに。


「オイ泣き虫」


どうしようもなく涙が溢れてしまった時、ひとりになれるのは屋上だ。間もなく昼休憩が終わるから誰も来ないだろうと思って油断していた。どこで聞きつけたのか、いつの間にか隼人がそばに立っていたのだ。機嫌が良いとは言えない顔で。


「……は…隼人」
「逃げんなよ」


腰を上げて、立ち去ろうとするわたしの腕を隼人が掴んだ。痛いくらいにきつく、強く。泣き顔なんて見られたくないのに。泣いている事すら知られたくなったというのに。


「…はなして」
「嫌だね、離したらどっかに逃げる気だろ」


当たり前だ。逃げる必要が無いのなら、そもそも隠れて泣いたりしない。だけどもう、わたしの力では彼を振りほどくことは出来ないだろう。観念したわたしは深く息をついて、何から話すべきかと考えた。


「それって……」


そのとき隼人が何かに気付いた。彼の視線の先を辿ってみればわたしの手元に行きついて、そこにあるものを見てわたしは息を呑んだ。御守り、手に持ったままだ。
咄嗟にそれをブレザーのポケットに押し入れた。中で折れたりとか、ぐしゃっとなってしまったかも知れないけれど関係ない。もう誰の手にも渡らないものだもん。


「なあ、今の」
「なんでもない!」
「えっ?」


もう叫ぶしか無かった。
もしも出せと言われれば御守りを出すしかなくなる。見せてしまえばきっと隼人に嫌な思いをさせるだろう。この御守りが出番を失ったのは「俺たちが負けたせい」だと思うだろう。そんな事をこの人に考えさせる必要は無い。


「なんでもないから!泣いてないし!元気だもん。大丈夫だし!」
「は…?ちょっと」
「ごめんまたメールする!」
「おいっ」


とにかく御守りの存在から意識を逸らすために、わたしは力いっぱい腕を振った。わたしの力は隼人の予想よりも強かったらしく、振りほどかれた腕は自由になった。そのまま振り返らずに屋上の扉を開けて、体育祭の時なんかよりも速いスピードで廊下を駆け抜けた。どうせ行き着くのは隼人と同じ教室だけれども、皆がいる場所ならばいくらかマシだ。

どうして冷静に「御守り作ってたんだけどね」って、軽く笑ってみせるくらいの度胸を持てないのだろう。「代わりに合格祈願にしようか?」と気の利いた事でも言えたなら、逃げる必要なんて無かったのに。夢の終わりはあまりにも唐突で、それを受け入れるにはあまりにも時間が足りず、あまりにも本人の気持ちを考える余裕なんて無かった。