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美術室では木材のにおいとか、油絵具のにおいとか、わたしの気持ちが休まるもので溢れている。
黙々と作業をする部員たちは何かにとらわれる事なく、好きなものを好きなように描いたり作ったりしていた。今週末に行われる学園祭で、体育館のロビーに作品が展示されるのだ。それらは特にテーマが決まっているわけではなくコンクールに出されるわけでもないので、各々で決めた作品を出す事ができる。
わたしはと言うと、一度捨てようとして戻ってきたスケッチブックの殴り描きを元にして、大きな一枚の絵を仕上げているところだった。


「絵になるね」


後ろを通りがかる美術部員たちは口をそろえて言った。そう、わざわざ立ち止まってわたしの絵に見入ってくれるのは、絵に魅力があるからではない。その題材に魅力があり、言葉通り「絵になる」からなのだ。


「白石さん、帰らないの?」


他の部員に声をかけられて時計を見ると、まもなく下校時刻だった。今日のわたしはかなり集中していたらしく、気付けば美術室には二人だけ。棚には完成済みの、あとは本番前に飾るのみとなった作品がいくつか並んでいる。わたしもそろそろ仕上げなくては。


「…ウン。もうちょいやる」
「もう暗くなるよ」
「すぐ帰るから」


とは言いつつも一人の方が落ち着いて作業出来るので、本当はこのまま残っていたいんだけど。とうとう美術室にはわたしだけが残り、外から聞こえる野球部の声に耳を済ませるために窓際へ移動した。


「………」


ちらりと外を見渡せば、オレンジがかった空の下で動き回る野球部員がたくさん見えた。
もうこんな所から覗く必要は無いんだけど、やっぱり外から入る風の音とか、部活に励む掛け声を遠くに聞きながらの作業は気持ちがいい。もう少し頑張れちゃうかも、と思えてしまうのだ。

だから今日も下校のチャイムが鳴ってしまったけれど、見回りの先生が来て怒られるまでは居ようかなと思えた。だって、寮に入っている野球部は、まだ練習を続けているんだもん。好きな事なら多少苦しくたって続けられるものだもん。ちょっとくらい眠くても、疲れても。


「帰らないの?」
「わっ」


いつの間にか外からの声が入ってくる事も無くなり、静まり返った部屋で声をかけられた。その声が普段ここで会話するものより響いたように聞こえ、危うく筆を取り落としそうになる。顔をあげればキャンバスの向こうで、成宮鳴が立っていた。


「なっ?な、成宮くん」
「いいかげんそんなに驚くのやめてくんない」
「だってもう夜だし……」


暗くなるまで残っていたのは自分の責任なんだけど、夜の学校で突然声が聞こえてくるのは心臓に悪い。しかもそれが好きな人の声だったら尚更だ。
成宮くんは練習用のユニフォームを着たままで、全身が泥だらけになっていた。


「…どうしたの」
「見に来た」
「え!」


何を見に来たのかは分かる。今わたしの目の前にある絵の進捗だ。
どうせ週末には誰でも見られる場所に公開されるのに、わざわざ途中のものを見に来るなんて。完成品じゃないし、相手が相手だし「いいよ」と即答できる状態ではない。


「誰かに見られる前に自分で見たいって思っちゃ駄目?」


けれど、そんな事を言われたら断るわけにも行かなかった。と言うより、断るという選択肢は消えるのだ。この物言いこそが成宮鳴で、わたしは彼のこういうところを好きなのだから。


「……どぞ」


わたしはゆっくりと立ち上がり、彼のために場所を開けた。そこに成宮くんが何も言わず入ってきて絵の正面に立つのを、ドキドキしながら一歩下がって見守る。これを描き始めてから本人に見られるのは初めての事だった。


「………」


成宮くんの背中からはまだ何も伝わってこず、ただただ静かに観賞している。今、何を考えているだろう。もしかしたら言葉も無いほど感動してくれてるかも知れないし、予想より下手で落胆しているかも知れなくて、彼の口から最初に何が発せられるのかが恐ろしい。まさかノーコメントなのだろうかと思い始めた時、成宮くんは低い声で言った。


「俺だ」


と、たったこれだけ。表情は見えない。彼からもわたしの姿は見えていないが、わたしは静かに頷いた。


「さわって良い?」


片手を絵にかざしながら、成宮くんが肩越しに振り向いた。
今日は絵の仕上げをしようとはしたものの、手を加えすぎるのもどうだろうと考えてあまり触っていないので、絵の具はどこも乾いているはずだ。
いいよ、と告げると成宮くんは指先で絵に触れた。描かれた人物の顔、身体をなぞるようにして。その手つきにドキッとして、成宮くんがわたしの作品をあの目で見ているのかと思うと、体の奥が熱くなってきた。


「すげ…」
「も、もうそのくらいで」
「もうちょっと」
「え?」
「ちゃんと見たい」


もう充分ちゃんと見てくれているのに、成宮くんはまだそれに魅入っていた。まるで自分の事を見られている気分になって、そろそろ目を離してくれないかなとすら思う。耐えきれなくなって、もう終わりにしてと言おうとした時にやっと成宮くんが後ろを向いた。


「白石さんの目には、俺はこんなふうに映ってんの?」


けれど、今度成宮くんの目に映っているのは絵ではなくて、わたし自身であった。そして聞かれているのは絵の事ではなくて、わたしの事。

今回の学園祭には別の作品を出そうと思っていたのに、わたしがこんな時間まで描いていたものは 成宮鳴の絵であった。あの日成宮くんには描くのを辞めるなと言って貰えて、新たにこれを描こうと決意したのである。


「………そうだよ」


わたしの目に映るままの成宮鳴がキャンバスに描かれている。九人の選手が集うグラウンドの中心に立つエースの姿は我ながら素晴らしく存在感があり、今美術室に居る本物の彼と変わらない。


「今、目の前に居る俺とコッチの俺と一緒に見えてる?」


しかし彼にとっては、実物と絵がイコールである事は不満なのだろうか。質問の意図が分からずに聞き返そうとしたけれど、成宮くんが一歩ずつ近付いてくるので言葉が出なかった。
こんなに近くに立つのは初めてじゃないだろうか、成宮くんの息を感じそうなくらいの距離に顔があって、わたしは思わず後ずさりした。


「……成宮くん…?」
「答えて」


ガタンと音が鳴った時、背中にはもう窓がくっついていた。これ以上近付かれたらきっと窓が割れる。だって、窓を割って逃げるか成宮鳴の目にこの距離で見られ続けるか、どちらが酷なのか判断できない。
わたしの体重が窓を圧迫し始めたのを気付いたのか、成宮くんは一歩後ろに下がって言った。


「俺、ぶっちゃけ白石さんの事なんとも思ってなかったんだよね」
「えっ」
「ただのクラスメート的な?うん」


両手を頭の後ろに回して、そんな事を言いながら今度は美術室の中をぐるぐると歩き始めた。さっきまでの圧力が消えて呆気に取られるわたしだけど、「白石さんの事はなんとも思ってなかった」という言葉はしっかりわたしのハートを傷つけた。そんなの分かっていた事だけど。わたしたちには「クラスメート」以外の接点が無かったんだから。


「けど、何?なんか…何ていうの?分かんないけど…色々あったから」


自分でも何を言いたいのかまとまっていないらしくて、成宮くんは黒板の前で立ち止まり頭をかいた。

確かにここ最近、わたしたちはクラスメート以上の関係になっていた。あの日、大村さんと言い合いをしてわたしの秘密が知られてしまった時も、成宮くんはわたしを軽蔑する事は無かった。
そしてその日、俺の事は嫌いでも描くのは辞めるなと言われた時に、わたしはついに伝えたのだ。嫌いになるのは無理であると。


「あの時から白石さんは、俺のクラスメートじゃなくなった」


あの時よりもずっと前から成宮くんは、わたしにとって「クラスメート」以上の存在だったけど。


「今はもう、ずっと俺のこと見てて欲しいなあって思ってる」


言われなくてもずっと、こっそり見ていたけれど。見てて欲しい、と成宮くんの口から言われるなんて思わなかった。怖いとすら感じた事のある大きな瞳でわたしの姿を捕らえながら。


「……それって」


一瞬気分が舞い上がって、自分に都合のいいことを口走りそうになった。でも、まだ断定できない。成宮くんに限ってそれは無い。もっと違う意味で言ったんだ、そうに決まっている。


「これからも…描いていいって事?」
「は…いや、違…え?違う違うそうじゃない」
「ち、違うの?」
「描く時だけじゃなくて!それ以外の時もって事」


黒板のそばに立っていた成宮くんが慌て始めた。わたしも慌ててしまった、じゃあどういう意味なんだろうと。


「それ以外の時って…く、クラスで話しかけてもいい?」
「ちが…いや話しかけるのは勿論いいんだけど…なんで伝わんないわけ?」


再び頭をかきながら美術室をうろうろし始め、成宮くんはウンウン唸っていた。未だ窓際で立ち尽くすわたしは必死に考えた。決して自分の都合のいいように考えてはならないと。けれど成宮くんの口からは、そんなわたしの努力を踏みにじるような言葉が聞こえたのだ。


「好きだよって意味なんだけど」


その瞬間に息は止まった。
成宮くんは静止したわたしの元へまた近付いてきて、反応を待っているかに見えた。けれどまともな返事なんか出来なくて、ただ一歩一歩進んでくる成宮くんに目を奪われるだけ。
ピタリと立ち止まったそこはやっぱりわたしの真ん前で、本日二度目となる窓ガラスの感触を背中に感じた。


「…な…っ、る」


呼びかけようとしたけれど、突然顔に何かが触れて声が詰まった。成宮くんの手、らしきもの。普段はボールを握っているであろう彼の左手が頬に触れ、打者を睨んでいるであろう瞳はわたしのすぐ前に。成宮くんがわたしの顔を覗き込むようにして近付き、間もなく鼻が触れてしまう。
そこでやっとこの状況が尋常じゃ無い事に気付き、止まっていた息がお腹から出た。ついでに両手も出てしまい、成宮くんの胸をドンと押してしまった。


「まままま待って待って待って!」
「うわっ!?ごめん」
「いや、こっコチラコソッ」
「何でそんなにビビるんだよ?」
「だ、だって」


ビビるに決まってるし、いきなりあんな距離まで来られたら思考だって止まってしまう。しかもこの人は自分が誰であるかを理解していない。自分がどれほどの人から大切にされ、愛される存在なのかを。


「成宮くんはみんなの中心だし…わたし、全然そういう派手な感じじゃないし…ジミっていうか」


だから同じクラスになれた時も話しかける事すら出来なくて、ずっと見ているだけだった。成宮くんと楽しそうに話す女の子を見ながら、羨ましいなと思ってた。だって彼女たちは流行りの髪型で流行りのメイクで、いつも楽しそうにクラスを盛り上げているんだもん。
それに比べてわたしは仲の良い女の子数人と一緒にいるだけで、何をするのも後ろ向きだった。目立つのが嫌だったのだ。


「地味だったら人に好かれないと思ってるの?」
「そ…そ…そりゃあ」
「それを短所だと思ってるんだ」


だってそんな、居てもいなくても良いような存在のわたしを好きだとか。冗談としか思えない。とてもじゃないが自分に魅力があるとは思えないのだ。しかも何度も言うように、わたしは成宮くんに嘘をついていたんだから。
でも成宮くんは、必死に目を逸らそうとするわたしの視線を追い掛けるように視界に入ってこようとする。


「少なくとも俺にとっては、白石さんは超いい子だよ」


成宮くんの胸を押したままのわたしの手は、いつの間にか払われていた。それだけでなく、二度目は無いぞと言うように、わたしの手首は彼の手の中に。ああ、このまま血が止まってどうにかなりそう。


「………死んじゃう」
「えっ!?うそ死なないで」
「死ぬ…」
「ダメダメダメダメ」


そんな事言われたって、この五分かそこらでドキドキしっぱなしなのだ。離してくれなきゃ沸騰して死ぬ。
それなのに成宮くんは一向にわたしの手を離す気配はなく、それどころか引っ張り寄せようとするではないか!このまま身を委ねたら大変な事になる、とわたしはその場で踏ん張った。


「白石さんが先に言ったんだろ!俺の事が好きだって」
「そ…そ…それはそうですがっ」
「もしかして嫌いになった?」
「なっ!?それは無い!無いけどっ」


嫌いになんてなるわけは無い。それはさすがにあるわけ無い!そうじゃなきゃ今までこんなに悩まなかった。


「あ」


否定するほうに意識が行ったせいで力が抜けて、一瞬の隙をついた成宮くんがぐいっとわたしを引っ張った。
そこからはスローモーションで、グラウンドの汚れがついたユニフォームが視界に広がり、かと思えばそこに顔からダイブしていた。成宮くんの胸の中だ。


「知ってるよ。白石さんて、好きな事は簡単にやめられない性格だよね」


頭の上から笑い声が聞こえて、わたしのそういう性格を褒めているのか馬鹿にしているのか、とにかく成宮くんがわたしの頭に顎を置いて笑っている。
この現実とは思えない状態を理解して、慌てて離れようとした時にはもう遅かった。「俺もだけど」と言いながら、成宮くんが背中に手を回すのを感じたからだ。
温かい、むしろ熱い。やっぱり平面に描かれただけの成宮くんでは物足りない。本物の成宮くんじゃなきゃ、もう駄目なのだ。