October 20th , Saturday


緊張感の高まる体育館。外からはチアリーディングやブラスバンドの練習する音が聞こえる。バレー部だけでなく全校生徒が迫りくるその日に向けて用意を整えていた。春高バレーの県予選本戦が、いよいよ来週行われるのだ。


「次!」


と、監督やコーチのきびきびとした掛け声が響いている。わたしもわたしで体育館の中を走り回って、ひっきりなしに動いていた。
部員じゃなくてもやる事は沢山ある。と言うより練習のテンポが速くなればなるほど、マネージャーの動きも増えて行く。
今はちょうど、一年生の部員とともに練習で散らばったボールを拾い集めているところだ。入れ代わり立ち代わり行われるサーブ練習のおかげで、ボール拾いも休まる事は無い。


「瀬見さん最近サーブえげつねえよな」


集めたボールをかごに戻していると、そんな話し声が聞こえた。
思わずはっとして顔を上げると、ちょうど瀬見さんがボールを地面に叩き付けているところだった。彼が二度、三度バウンドさせてからサーブを構えるようになったのは数か月前の事。あの時から瀬見さんは、もうひとつの方法でコートに立つ道を選んだのだ。

ぐっと手に力を込めて、かと思えば綺麗に斜め上へと放り、ジャンプをすると丁度よく手にボールが当たり勢いよく反対側のコートへ。その一連の動作に思わず目を奪われていて、わたしは本来の仕事を忘れていた。


「白石!ボケっとすんなよ」


わたしに声を掛けたのは近くにいた同級生で、そこでやっと我に返った。
皆が大会に向けてひとつになっているのに、わたしだけ浮ついた気持で余所見をするなんてとんでもない。慌てて「ごめん」と言いながら真ん前に転がっているボールを拾おうと足を踏み出した時、別の怒声が。


「おい馬鹿!」


誰に向けての罵倒だろう。
と思った時にはもう遅く、額に思いっきり誰かの打ったボールが当たった。バシンと音をたててボールが跳ね、わたしは反対に体育館へ倒れ込む。視界がくらんで何もかもがぼやけて見えた。やばい、意識がどこかに行きそう。
そこで初めて理解した。「馬鹿」ってわたしの事か。





わたしは気を失ったのだろうか。でも、なんとなく自分で歩いてきた記憶はある。今は体育館の入口にあるベンチに座らされ、ぶつけたところをアイシングしているところだった。
自分の手でアイシング出来ているという事は、わたしはずっと意識を保っていたという事になる。かなりボーッとしていたようだけれども。


「………さいあくだ」


誰に言うでもなく呟いたその言葉。それ以外に言葉が見つからない。関係ない事で頭を一杯にして、練習の邪魔をしてしまうなんて。


「ホントお前、最悪」
「!」


ひやっとして身体を震わせ、いつの間にか現れていた人影に視線を移す。今、わたしへの気持ちを隠しもせずに言ってのけたのは、白布賢二郎だった。


「し、しらぶく」
「コーチがこれ渡してこいって」
「あ」


渡してこい、と言われたくせに彼はそれを投げて寄越した。体育館の端に置きっ放しにしていたわたしの長袖ジャージだ。
コーチにも、勿論監督にも、この白布くんにも面倒を掛けてしまった事が情けない。目頭が熱くなってきて、投げられたジャージを頭から被った。今は顔を見られたくない。


「ごめん…ありがと」
「それは瀬見さんに言えば?」
「えっ」


見られたくなくてジャージを被ったのに、思わず隙間から白布くんの顔を覗いた。瀬見さん、という単語が聞こえてきたから。彼はわたしの様子を見ると呆れ返ったように大袈裟な溜息をついた。


「お前をそこまで連れてきてくれたの、瀬見さんだから」


それだけ言うと白布くんは、シューズと床の擦れる音を響かせながら練習に戻って行った。


「………最悪」


最悪だ。もう一度その言葉が頭に浮かぶ。
瀬見さんに告白するのは春高が終わってからって決めたのに。それまでは部活に集中しようと思っていたのに。その瀬見さんに情けないところを見せて、練習の合間に馬鹿なわたしの世話をさせてしまったなんて。
瀬見さんの事を応援しているくせに、あろう事か邪魔してしまった。皆にだってわたしがボケっとしてボールにぶつかるのを見られた。後輩だって同じ体育館に居たのに。

マネージャーとして二年間頑張ってきたプライドとか、瀬見さんへの気持ちとか、来たる試合への緊張とか、何より自分の不甲斐なさが悔しくて。ジャージを頭から被ったまま、その場で泣いてしまった。


「白石ー……、あり」


その時だった。わたしを呼ぶ声と、白布くんとは違うシューズの音。そしてわたしの様子がおかしいことに気付き戸惑う声。
どうしよう、瀬見さんがわたしの様子を見にすぐ側に来てしまったらしい。


「せ…せ、瀬見さん」


慌てて目元だけを擦り、被っていたジャージを取り払う。目が腫れているか赤くなっているみたいで、泣いていた事を瀬見さんに知られてしまったようだ。


「悪い…タイミングミスった?」
「え、いやっ」
「派手に当たったなあ」


けれど瀬見さんは、わたしの泣き顔にはあまり触れずに話を続けた。しかも笑いながら、落ち込んだわたしを励ますように。怒られたって文句は言えないのに、まさかこんな時でも優しくされるなんて思わなかった。


「…白布くんに聞きました。迷惑かけてホントごめんなさい」
「んな事ねえって。白石も疲れが溜まってたんだよ」


何でそんなに心が広いんだろう。そんな事言われたら「そうです、疲れてたんです」と思ってしまうじゃないか。
実際最近はマネージャーも休み無く身体を動かしていたし、朝も放課後も毎日練習だった。そうでなくとも対戦相手の過去の試合ビデオを見たりして、身体か脳のどちらかは動かしている状態だったから。でも、わたしや他のマネージャーがいくら大変とは言え、部員本人達には到底及ばない。


「まあ顔面じゃ無くて良かったよなぁ」


瀬見さんは自らの額を指さしながら言った。
ボールはあの時わたしの顔の正面ではなく、右目の少し上あたりに当たったのだ。正面だったら鼻が折れていたかも知れないし、目に当たったらと思うと考えたくない。
でも例え鼻血が出ても骨が折れても自業自得だと言うのに、瀬見さんの口からはわたしを責める言葉なんてひとつも出て来ないのだ。


「怒らないんですか?」
「え、なにが?」
「わたし、練習中に別の事考えてて…それでさっき」


あろう事か瀬見さんの姿に見惚れていて、やるべき事を疎かにして、不注意で飛び出して怪我。本気でやってる人達の前で大変な事をしてしまった。


「皆、一生懸命になってるのに」


しかし、それでも瀬見さんはわたしに同意しなかった。むしろ真逆で、話を明るい方へと持っていく。


「一生懸命を延々続けんのは大変だよ。ちょっと違う事過ぎったりするよ、フツー」
「ほんとですか?牛島さんも?」
「あれは無いだろうなあ」


そしてけらけら笑い、誰も怒ってねえから気にすんなよ、と励ましてくれた。
瀬見さん、一年生の時からずっとこうやってわたしを元気づけてくれた人。本人は覚えてないかも知れないけれど、この人の優しさに何度も何度も救われてこれまでやって来た。叶うならこれからもずっと変わらずに居たい。けど、それはもう出来ない。


「…でももう来週だから。もう誰も気は抜かないんじゃないかな」


先程まで笑っていた顔から一変し、瀬見さんは真っ直ぐな目で言った。そんな人の前でわたしは、いつまでもさっきの失敗を引きずるわけに行かない。彼の言うとおり、もう気を抜けない。


「……わたしもです」
「ほんと?つかマジで大丈夫?デコ超赤いけど」
「平気です」


わたしの目じゃなくて、ボールをぶつけたおでこが赤いと気にしてくれる瀬見さんが好き。失敗を怒らない瀬見さんが好き。いつでも味方をしてくれる瀬見さんが好き。きっと、今後目にする新しい瀬見さんも好き。たぶん、どんな瀬見さんも好き。でもそれら全部、心に仕舞おう。


「わたしも、全部終わるまで気は抜きません。もう」


それまで泣かないし、瀬見さんへの「好き」は封印しておく。ひとりのマネージャーとして誰も贔屓せず、バレー部が全国優勝を果たすまで精一杯の働きをしよう。


「頼もしいなあ」
「マネージャーですから」
「そうか?じゃあもう余所見すんなよ」
「ハ、ハイ…」


スミマセン、と謝ると瀬見さんは「怒ってねーって!」とまた笑った。

こんな人の前で「好き」を封印するなんて難しい話だけど、わたしはそれをやり遂げなければならない。大変だなんて入部した時から分かっていた事だ。強豪校の運動部が、どれほど厳しいかなんて。


「それじゃあ最後まで頼むな」
「はい…」
「あ。あと」


体育館へ戻ろうとしていた瀬見さんが、ふと立ち止まり振り返った。


「何かあるんだっけ?春高のあと」
「何か……?」
「時間くれって言ってたろ」
「!!」


覚えられていた事もびっくりだし、今やっと告白の事を抑え込もうとしていたのに、瀬見さん本人によって掘り返されてしまうとは。
確かにわたしは今年の夏、勢い余って瀬見さんに言った。「春高が終わったら時間をください」と。


「あ…あれは…あの…そうです、けど」
「だよな。それも待ってるから」
「え」


待ってるってどういう事ですか。聞き返そうと思ったけれど、瀬見さんは言うだけ言って満足したみたいで、すでに体育館の戸を開けているところだった。
でも、これでいい。今はまだ言わなくていいのだ。全て終わってから、無事に勝ち進み優勝した暁には、気持ちよく三年生を送り出すことが出来るから。その時には隠すこと無く伝えよう、初めて「好き」を感じた時から今までの気持ちを全部。