09


男の子って怒ったら怖いんだ。わたしもつい最近成宮くんに恐怖した事があるけれど、その時よりもずっと怖いかも知れない。ゴクリと息を呑んだのはわたしも大村さんもほぼ同時で、だって大村さんも成宮くんのこんな顔を見たのは初めてのはずだから。


「何してんの?」


まだ痛むのだろうか、額を触りながら成宮くんが言った。
その質問はわたしと大村さんのどちらに向けたものだろうか。仮にも「成宮くんとは喋らない代わりに秘密を守る」という契約を結んでいるので、わたしは口を開く事が出来なかった。


「別に何もしてないけど…」


大村さんはバツが悪そうだ。それもそのはずで、わたしたちが放り投げたスケッチブックが彼の額を攻撃したばかりなのだ。


「…そう」


そう言って、成宮くんは足元に落ちたスケッチブックに目を落とした。
運の悪いことに、描きかけのページが開かれた状態で落ちている。そこには勿論成宮くんの姿が描かれており、「完成させる」と約束したものとは違う構図。つまりわたしが常日頃から成宮鳴を描いていた事が、これで本人に知られてしまったと言うわけだ。

その絶望と、この状況の気まずさのせいでまだわたしは声を出す事が出来ない。成宮くんは何も言わずスケッチブックを拾い上げた。やばい、中身を見られてしまう、と思ったけれど彼がページをめくる事は無く。静かにスケッチブックを閉じると、一番近くの机に置いた。


「全部聞こえてたんだけど」


低い声で言われた瞬間、何故かわたしまでヒヤッとした。今の大村さんの気持ちを思うと、怖くて怖くて仕方が無かったのだ。
やっぱり大村さんも声が震えているみたいで、何をどう言えば先程の会話を誤魔化せるのか考えているようだった。が、勿論上手い言い訳なんて見当たらない。わたしが彼女の立場だったとしても何も浮かばないだろう。


「ごめん…」
「それ俺に向かって言うの?」
「う、」


大村さんは怯んでいた。さっきまでの態度が嘘みたい。ざまあみろ偉そうにしやがって!と思えればまだ良いんだけど、成宮くんが本当に怖くてそれどころじゃなかった。


「…ここに来るまでは正直迷ってたけど。悪いけど、ごめん」


しかし何故か成宮くんが頭を下げた。一瞬意味が分からなかったけど、その言葉を聞いた大村さんがこの世の終わりみたいな顔をした事と、教室に彼を呼んだのは大村さんである事から、なんとなく理解してしまった。大村さんは今日、誰も居ない教室で成宮くんに告白するつもりだったのだ。
それなのにわたしがポツンと教室に残っていた上に、あろう事か想い人の絵なんか描いてるもんだから、彼女の神経を逆撫でしてしまったらしい。
大村さんはとても小さな声でゴメンナサイと呟いたようだが、足早に教室を出て行ってしまった。

まだ心臓がドキドキしてる。クラスの女の子と一触即発し、わたしとの共通の好きな人に振られる現場に立ち会ってしまったのだ。成宮くんはもう彼女を責める気がないのか立ち去る大村さんを止めることなく、先ほど近くの机に置いたスケッチブックを手に取った。


「ハイ」
「!」


そして、それをわたしに差し出した。そう言えばこれが原因だったのだ、今日のこと以外も、成宮くんと急に仲良くなってしまったのも。ずっと内緒にしてきた嘘も知られてしまった今、成宮くんにとってはわたしも気分の悪い存在に違いない。


「あ…ありが…、あっ」


スケッチブックを受け取ろうと手を出したけれど、成宮くんはそれを引っ込めた。行き場をなくしたわたしの手。しかも成宮くんが、スケッチブックをパラパラとめくり始めたではないか!?消えて無くなりたい。今までの事全部謝るから許して欲しい。燃やして誰にも見られないようにするから。


「捨てんの?」


パタンと閉じながら成宮くんが言った。大村さんと「捨てろ」「捨てる」のやり取りをしていたところも聞かれていたようだ。


「…と、思ってるところ」
「なんで」
「なんでって…」
「そんなの俺には関係ない?」
「え」


思わず顔を上げると、成宮くんは傍にあった机に腰を下ろしていた。


「成宮くんには分かんないって言ってたもんね」
「……」


最後に会話をした時、確かにそう言った。どうして描くのをやめるんだ、完成品を見せると言っただろ、そう主張する彼に向かってわたしは「成宮くんみたいな人には分からない」と。
その時のことを思い出して、また血の気が引いた。なんて失礼な事を言ってしまったのだわたしは。
しかしそんな青い顔のわたしを見て、成宮くんはぎょっとしていた。


「…あーもう!なんでそんな顔してるんだよ。分かった分かった返すから」


慌てて立ち上がった成宮くんはスケッチブックをわたしの机に置いた。なかなか返しくれないから青くなってたわけじゃ無いんだけど。と言うか、成宮くんはわたしに対しては怒らないのだろうか?


「…ごめん。俺が無理やり頼み事したばっかりに」
「え…」


怒るどころか、謝られてしまった。しかも百パーセントわたしが悪いのに。
成宮くんとの「約束」を破ったのはわたしだ。課題が出ていないのに嘘をついたのもわたし。自分がモデルになった絵の完成品を見たいだなんて普通の事。成宮くんは一切悪くないのだ。


「成宮くんのせいじゃないよ…わたしが悪いだけだから」
「どこが悪いの?」
「…ええと」


どこがと言われると、何から話せばいいのか困ってしまった。色んな事が起きたので成宮くんにどこまで知られているのか分からなくなり、頭がぐちゃぐちゃである。


「…嘘ついてたの。ずっと」
「嘘?」


その返事を聞くと、ああ最初から全部を説明しなければならないのだと理解した。
でもわたしには話す義務がある。嫌われる覚悟を持たなくては。嘘をついてる罪悪感から逃れるために、一度は言おうとした事があるんだから。


「成宮くんの事、描いてたのは…課題なんかじゃなくて。描きたくて描いてただけで」


いざとなると上手い言葉選びが出来なくて、こんな言い方になってしまった。案の定成宮くんは首をかしげながら聞いている。


「人物画の課題なんか出た事ない。わたしが成宮くんのこと、描くのが好きだったから」


課題と言う大義名分をかかげて美術室から練習風景を眺めたり、グラウンドの近くまで見に行っていた。最初はスケッチブックに納めるだけで良かったのに、成宮くんの姿を見られるのが、近くにいられるのが嬉しくて浮かれてしまったから。
拙い言葉でそれらを話すと、成宮くんはゆっくり復唱した。


「俺を描くのが好きだったから、描いてた」
「……です」
「そっか」


引くわー。と言う言葉が続けられる覚悟はしていた。けれど彼の口からそういう発言がされる事はなく、次から次へと予想外の台詞が出てきた。


「じゃ、描いたら?」
「…え!?」
「好きな事はやればいいと思うよ。俺だって好きだから野球やってんだしさ」


なんとも直球すぎる答えである。成宮くんが野球をするのは「好きだから」以外にも正当な理由があるだろうに。わたしだって絵を描くだけなら「好き」で終わらせられる。でも、描く対象が成宮くんだから問題なのだ。


「けど…でも…好きだけじゃどうしようもない事とか、あるし」
「あははっ、言うねー」
「ご!ごごごごめん大きな口を」
「いいじゃん。あるある、分かるよ」


本当に分かってるのかな、この人。ふざけて言ってんじゃないかと思ったけど、成宮くんの顔が思いのほか真面目だったのできっと本音だ。好きな気持ちだけじゃどうにもならない事がある、それを彼も体験した事があるのだ。


「けど白石さんは描くのが好きなんじゃん?だったら誰かに何か言われたからって辞める必要ない」


でも、やっぱり成宮くんは一つだけ分かっていない事がある。わたしの犯した罪の重さと動機について。わたしが成宮鳴の事をどう思っているのかについて。


「…気味悪くないの?」
「へ?」
「わたし、ずっと…勝手に成宮くんの事、こっそり見て描いてたんだよ」


成宮くんに知られる前からずっと、早朝の美術室でグラウンドを見下ろしていた。そして遠目からではあるものの、成宮くんの姿を絵に描いていた。それって気持ち悪くないのだろうか。


「…冷静に考えたら怖い。」
「うっ」
「でも良いじゃん。俺だって隠れて練習する事ある」
「それとこれとは…」
「白石さんすげえ上手いしさ!」


ベシン、と結構強く背中を叩かれた。気持ちのいい笑顔だったので「気にすんな」という意味で叩いたのだろうと思う。


「…って、俺のせいで嫌な思いさせちゃったわけだし。もうたくさんって思ってるかもだけど」
「いや…」
「俺の事は嫌いでいいから、コレは辞めないで」


コレ、と言いながら成宮くんがスケッチブックを指した。
何故こうも成宮くんには、大事な部分が伝わっていないのだ。自分が女の子を虜にしている事なんて分かっているはずなのに。わたしが成宮くんの虜であるという可能性は頭に無いのだろうか。わたしが成宮くんを嫌いになるなんて、本気で思っているのか。


「あの、そ…それは、無理な相談です」
「…はい?」
「だってわたし…」


これまでずっと隠してきた最大の秘密を言う時が来た。
でも誰も居ない今なら、恥を知られた今なら言える気がした。もう前みたいに同じ教室の成宮くんを遠くから見るだけじゃ我慢出来ない。遠くから見下ろすだけでは足りない。わたしの気持ちを知ってもらわなくちゃ。