July 26th , Thursday


今年の夏休みは猛暑だった。高温多湿で危険であるとして、運動部は練習時間を短縮しなければならないほど。

それでもインターハイを目前にした白鳥沢のバレー部員たちは、限られた練習の中で最大限の努力をしていた。
けれど暑さのせいか「練習時間が少ない」事への焦りのせいか、はたまたすぐ後ろに迫る後輩の陰に押されたせいか、一名だけが普段とは違う自分以外のものと戦っていた。一年間以上ものあいだバレー部セッターの座を守り続けている人物、瀬見英太その人である。


「…捻挫?」


良くないニュースを聞いたのは夏休みに入ったばかりの木曜日。
練習は三チームに分けられて、ベンチ入りメンバーは集中的に監督のもとでの練習、その他は自主練習またはゲーム形式の練習を行っていた。わたしは一年・二年が行っている試合を見ながら保冷材を用意したりしていたのだが、隣の体育館から誰かがその知らせを持ってきた。


「捻挫って誰?」
「瀬見さんだって。結構イッてた」
「え……」


近くの部員が浮かない顔をして話している内容は、幸か不幸かわたしの耳にもバッチリ届いた。

あの瀬見さんが捻挫。来月上旬にはインターハイが控えており、皆怪我にはいつも以上に気を付けていると言うのに。それは試合を勝ち抜く為という事も当然だけれども、白鳥沢のように部員の多い場所では致命的な事になりうるからだ。
皆それを表には出さないけれど、一年半を共にしたわたしには分かる。万全じゃない自分の代わりに他の誰かが試合に起用されるのを、誰もが心のどこかで恐れているのである。


「大丈夫なのかな」
「今は佐々木さんが見てるけど。練習には代わりに白布が入ったよ」
「そっか…」


佐々木さんは女子マネージャーの三年生で、入部依頼ずっと世話になっている人だ。佐々木さんならきっと上手く処置してくれるだろう、捻挫もきっと大したことは無い。と、思いたい。


「疲れが溜まってたんじゃないかな瀬見さん。隠れて身体動かしてたっぽいし…」


そのように言う部員に対し、わたしは無言で頷いた。
瀬見さんが誰にも知られないように練習している事なんて、わたしはとうに知っている。知られたくないだろうから黙っていた。でも先日、偶然コンビニに行った時に見かけた時は夜の十時を回っていた。まさか毎日のようにあんな時間まで外を走っていたのだろうか、朝はいつも早くから練習だと言うのに。

様子を見に行きたいけどわたしが顔を覗かせても何の役に立つわけでもなく、今はただ自分の業務を全うするしか無い。練習が一段落したら行ってみよう、トイレに行く時にちょうどレギュラーメンバーの体育館横を通るから。

それからコーチの笛が休憩を知らせるまではすぐの事だった。
わたしは汗を拭くためのタオルを首にかけて、トイレに行くふりをして体育館を出た。トイレに行きたいのは嘘じゃない。でも、その前にちょっと行きたい場所があるだけで。


「何?」
「うわっ」


隣の体育館を外から覗き込んでいると、突然無愛想な声が聞こえた。
聞き覚えのある声だし、いきなり「何?」などと声を掛けてくるという事は顔見知りなんだけど、この人にはいつも驚かされる。だって怒っているのか普通なのか、判断できるまでに半年以上かかったのだ。


「し…白布くんか」
「俺で悪かったな」


やっぱり彼の感情は分かりにくいが、今は怒っている様子は無い。ベンチメンバーの練習を覗きに来たわたしを見て気を利かせてくれた。


「誰か呼ぶ?」
「いや…」


誰かに用事があるわけじゃないので、その親切には首を振った。


「瀬見さん、怪我したって?」


その代わりわたしは質問した。白布くんなら同じ体育館に居ただろうし、詳細を知っていると思ったから。
白布くんはわたしの質問を聞くとすぐに肩を落とした。わたしが瀬見さんに抱く気持ちはお見通しのようである。


「…ああ。捻挫だってよ」
「ひどいのかな…」
「さあ」
「今どこに居るか知ってる?」
「知らない」


とても不親切な受け答えであった。でも、白布くんから優しい答えが返ってくるとは思っていない。年齢は違うけど、彼らはずっとライバル同士なのだから。それでももう少しまともな回答が聞けると思っていたが、彼の口からは耳を疑うような言葉が聞こえてきた。


「悪いけど俺はラッキーだと思ってるから」
「えっ」


そんな事、実際に言ってのける人が居るなんて思わなかった。
思わず憤慨する気持ちが溢れてしまったけど、幸いそれはすぐに抑えることが出来た。何故なら瀬見さんが一生懸命練習するのと同じように、白布くんの努力も入学当初から見ているから。


「あの人の怪我。おかげで俺が代わりに入る事になった」
「……」
「お前、分かってると思うけど瀬見さんに無神経な事言うなよ」
「な…わ、分かってるよ」
「どうだか」


分かってる、と言ったものの、白布くんからの忠告が無ければきっと瀬見さんに余計な事を言っていただろう。怪我は大丈夫ですか、練習には戻れますか、わたしに何か出来ることはありますか?それら全て大きなお世話で、瀬見さんが自分で整理し解決しなければならない事なのだ。


「…ありがと」


白布くんはわたしの気持ちだけでなく性格まで分かり切っていて、ここまで助言してくれている。白布くんはわたしのお礼には返事をせずに話を続けた。


「……いま整骨院行ってる。しばらくしたら戻るんじゃねえの」


病院に行っているんだ。ひどい捻挫なのだろうか。
ヒヤリとしたものの、わたしが瀬見さんを必要以上に心配するのは白布くんへの失礼にあたる。それをギリギリで思い出すことが出来、もう一度わたしはお礼を告げた。


「ありがとう」
「べつに」


そして白布くんは、体育館を出てトイレかどこかに歩いて行った。

一つのコートに立っていられるのは六人しかおらず、セッターというポジションはそのうち一人だけなのは当然知っている。その場所を手にするために学年関係なく争いが繰り広げられている事も。今は偶然瀬見さんがレギュラーで白布くんが控えだけれど、それ以外の部員だって常にそこを狙っている。

だからマネージャーとしてバレー部に携わるわたしが、誰か一人を特別扱いしてはならない。そんな事分かってる。分かっているから、ずっとこの気持ちは胸の奥に仕舞っている。三年生が引退したら告白しよう。華々しい引退セレモニーの後、高揚した気分のまま勢いに任せて言ってしまおうと。


「あ…」


夕方になり、わたしはビブスを洗濯するため籠に入れて運んでいるところだった。その時ちょうど、整骨院から帰ってきたらしい瀬見さんの姿を発見したのだ。
別に「瀬見さんを特別扱いしない」事はイコール「瀬見さんを無視する」事じゃないのだが、声をかけても良いものか迷ってしまい、わたしはその場で足踏みをした。このまま洗濯機まで進むか、後ずさりするかどうか。
そこで後ずさりという選択肢を選んだわたしには悲劇が起きた。


「…あ、え、うわっ!?」


運動部のマネージャーは必ずしも運動神経が良い訳では無い。足元の段差に気付かず踵が引っかかって、思い切り後ろに倒れて尻餅をついてしまったのだ。
悲鳴と籠の転がる音は瀬見さんに届いたようで、目を丸くした瀬見さんが様子を見に近寄ってきた。


「…あれ。白石」
「ど…ドモ…」
「大丈夫か?」


瀬見さんは膝を曲げながら、籠を起こして散らばったビブスを拾い集めようとした。それを見て「やばい、怪我してるのに」と感じてしまい、咄嗟にわたしは手を大きく振りながら拒否をした。


「い、いいですいいです自分で拾いますから」
「けどだいぶ散らばってんぞ」
「大丈夫です!」
「まあそう言うなって」


わたしよりも長くて太い手が、部員の汗を吸ったビブスを拾い上げていく。瀬見さんはいつだって優しくて、単にわたしがドジを踏んだだけなのに自ら手伝ってくれる。自分が上級生だとかレギュラーだとか関係なく、すべての部員に平等なのだ。
そんな素晴らしい人格を持つ瀬見さんが、どうしてこんな時期に怪我してしまうんだろう。

瀬見さんはやはり動きづらそうである。ビブスを拾っている時に、足首にテーピングが巻かれているのが見えた。


「……あの、それ」
「え?…ああ」


怪我の事を一切話題に出さないのも、あまりにわざとらしい。だからたった今それに気付いたかのようにチラリと視線を送ってみると、瀬見さんは眉を下げて笑った。


「…やっちゃったな。まあきっとすぐ治るよ」
「で…です、よね」
「今日はもう動かすなって言われたけど…」


動かすなって、今日だけですか?明日は?明後日は?十日後のインターハイには出られますか?その質問を喉の奥に抑え込み、そうですか、と答えるだけに留まった。
けれどビブスを拾う瀬見さんの横顔は、いつもみたいな優しい顔ではなくて。顔を逸らした瞬間に表情が暗くなるのをわたしは見逃さなかった。見逃したかったけど、見えてしまったのだ。


「…瀬見さん、」
「これで大丈夫か?俺コーチに呼ばれてるから行くわ。じゃあな」


すべてのビブスを籠に戻してくれたあと、瀬見さんはわざとらしく大きな声でそう言った。

やっぱり捻挫って、酷いものなんだろうか。十日もあれば治るよね。でも治るまでの十日間、彼の代わりに白布くんが練習のコートに入る。それを瀬見さんはどんな気持ちで眺めなければならないのだ。その瀬見さんの視線を受けながら、白布くんはどんな気持ちで練習しなければならないんだ。
ひとつの椅子を手に入れるための部員達の戦いに、わたしが入り込む隙など無い。