08


中学の頃からずっと続けてきた美術部も今年で五年目、三年生の先輩は夏休みで引退をした。次の部長は同級生の別の女の子で、彼女は夏のコンクールでもうちの部で一番の成績を残していた。将来は芸大を目指しているのだと言う。ただの趣味で続けているわたしとは違い、本格的な絵の道へ進んでいくのだ。
だから、お遊びみたいなわたしの絵なんて捨ててしまっても問題無い。これが原因でクラスに居づらくなるくらいなら、恋を諦める事になったとしても。


「すみれー」


学校から帰るとお母さんに呼ばれた。何かお遣いでも頼まれるのかと思ったけれど、どうやらその様子はない。わたしがキッチンまで行くとお母さんは何かを手に持っていた。


「ごめん、コレ燃えるゴミじゃ駄目なんだって。今度の廃品回収の時にしてって」


そう言って、捨てるはずのスケッチブックを差し出されたのだ。
なんとゴミに出した時の状態のままで、手元に戻ってきてしまった。もうこれを見返す時はやって来ないと思っていたのに、スケッチブックと一緒に成宮くんへの気持ちも捨てようと思っていたのに。


「え…いらない」
「そんな事言われたって、ゴミ収集車の人が引き取ってくれなかったんだから」
「廃品回収までどこかに仕舞っといてよ」
「ちょうどいい棚が空いてないもの」
「……」


お母さんに保管を押し付けようとしたけれど、無理やり胸元に押し付けられてしまった。
なんで忘れさせてくれないの。自分で描いてきたくせに、今や憎たらしくてしょうがない。それなのに、ぐしゃぐしゃに破いてしまう度胸も無い。だって中に描かれているのは好きな人の姿なんだもん。





翌朝学校に行くと、教室内に入るのが怖かった。成宮くんが居たらどうしよう、目が合ったらどうしよう。昨日の成宮くんは明らかに怒っていた。絵を描くと約束していたのにそれを投げ出したから。

でも、例え目が合ったところで今後成宮くんが話しかけてくれるとは思えなかった。それでいい。だって私は成宮くんと会話をしてはいけないのだ。


「おはよ!」


席に座っていると、机の横に誰かが立っていた。成宮くんではない。スカートをはいた女子生徒で、顔を上げると大村さんが笑顔でわたしを見下ろしていた。


「……おはよう…?」


あっけに取られて挨拶を返すと、彼女は満足したように笑った。そしてスカートを揺らし、そこから伸びる細長い脚を使って歩いて行ったのは、成宮鳴の席である。
いつの間にか成宮くんが教室に来ていた。それに気付かなかった自分にも驚きだし、わざわざ成宮くんに話しかける前に私に挨拶をしていく大村さんにも驚きだ。頼むからもう放っておいて欲しいのに。


「はあ…」


思わず出た溜息を隠そうともせず、わたしは鞄を開けた。筆記用具、教科書、ノート、宿題たちを鞄から出して机の中に入れて行く。

が、なんという事か、見たくないものが目に入った。鞄の中に一冊だけスケッチブックが入ってる!

いつ入れたんだろう。昨日お母さんから数冊のスケッチブックを無理やり返されて、部屋に戻ってどうしたっけ。机に放り投げてから宿題をしようとして、それから…何かの拍子で宿題やノートと一緒に鞄へ入れてしまったらしい。
学校にまでついて来るのはやめてよ、わたしの恋心。早く燃やされてしまえばいいのに。


「…燃やす…」


そうだ。マッチやライターなんか簡単に手に入るし、学校の敷地の端には使われていない焼却炉があったはず。地域のゴミに出せないのなら、自分で燃やしてしまえばいい。





放課後までは、良くも悪くも何も起こらずに時間が過ぎた。
友だちは今まで通りに接してくれており、元々の交遊関係に問題は起きていない。大村さんも、成宮くんもわたしには関わろうとしてこない。わたしも彼らのほうを見ようともしていないし、何の関係も無かった元の状態に戻っていたのだ。成宮くんに、絵を描いているのがバレる前の状態に。


「………」


やがて教室には誰も居なくなった。いつも思うけど、少しくらい教室に残って雑談しようという人は居ないものだろうか?
あまりにも自分に都合よく人が居なくなったので不安になってしまったが、ちょうどいい。これからまさに燃やしてしまうスケッチブックを鞄の中から取り出した。これで本当にもう、成宮くんの事も忘れるしかない。どうせ元々接点なんか無かったし、叶わない恋のまま卒業するつもりだったのだ。

最後の最後に書き足しておこう。成宮くんが「もっと近くに観に来ればいい」と言ってくれて、嬉しかった日に描いた絵のページに。これからもずっとあなたが好きです、と。


「…なにそれ?」


書き終えてペンを置いた瞬間に、ひゅっと身体が凍りそうになった。スケッチブックを隠すように抱き抱えて顔を上げると、気付かないうちに大村さんがそばに立っていたのだ。


「…お…大村さん、」
「鳴くんのこと諦めるんじゃなかったの」
「いや、それは」


それは本当の事だ。成宮くんの事は諦める。だからって嫌いになるのは無理だ。好きな気持ちは簡単に無くならない。いつか成宮くんへの想いが消える日まで、こっそりと好きで居続けようと思っていたから。


「なんでそんなもの残してるの?」
「ちが…今から捨てるんだもん」
「わざわざ学校に持って来てるくせに?」
「……」


これが鞄に入っていたのは偶然だが、実際持ってきている事に変わりはない。わたしは黙ってスケッチブックを鞄に戻そうとしたけれど、それを大村さんが制止した。


「貸して。わたしが捨ててあげる」


そして、わたしのスケッチブックに手を伸ばしてきた。取られそうになるのをギリギリのところで避けて、身体でガードしたのに無理やりスケッチブックを掴まれた。女の子になのに凄い力。わたしもこればっかりは譲れない。


「……やだ」
「なんで?」
「自分でやるから…」


自分で捨てる。今から焼却炉へ燃やしに行くのだ。その前に、最後に成宮くんへの想いを書き足すことくらい許して欲しい。あなたの恋路を邪魔するつもりは無いんだから。
それなのに彼女は手をゆるめる事なく、更に強く引っ張った。


「…て言うかさ?そんな絵なんかで鳴くんの気を引こうとすんの、やめて欲しいんだけど」
「や…やめてってば!」


たった一冊のスケッチブックを取り合う醜い争い。
中身は絶対に見られたくない。
とうとうそれはわたしたちの手から離れ、つるつるの表紙を掴みきれずに滑って放り投げられてしまった。宙に舞うスケッチブックがスローモーションで、ぱらぱらとページがめくられていくのが見える。駄目だ、早く回収しなきゃ!


「やっ…」
「イテッ」


けれど、わたしの手がスケッチブックに届く事は無かった。
スケッチブックが地面に叩きつけられる事も無かった。
なんと、教室の端にいた成宮くんの額に当たってしまったようなのだ。ばらばらと音を立てながら彼の足元に落ちていくスケッチブック。しかし、わたしと大村さんがその行方を目で追うことは無かった。そこに立つ成宮鳴に釘付けになってしまったからだ。


「……鳴くん」
「ったぁ…目に当たったらどうしてくれたの」


成宮くんは額を押さえながら言った。
見たところ出血などはしておらず、額から離した手のひらに何も付いていないのを確認している。そして今度はこっちを見た。わたしと大村さんとを交互に見ている。そして、最終的に彼が顔を向けたのは大村さんの方向であった。


「わざわざ呼び出して俺に話したかったのって、今の事?」


わたしは息を呑んだ。何故ここに成宮くんが、と思ったら呼び出したのは大村さんだったらしい。
何を話したくて呼び出したのかなんて、この際どうだっていい。だって今は成宮くんがとても怖い顔で、大村さんのことを睨んでいるのだから。