07


鳴くんが好きなの、本気だから。と大村さんは言っていた。
それを聞いた時、わたしはそれまで大村さんの事を「ちょっと自分勝手な人」だと思っていたのを恥じてしまった。大村さんは胸を張って成宮くんのことを好きと言うのに、わたしはその気持ちを隠して、さらには成宮くんに嘘を吐いていたんだから。
そんなわたしよりも彼女のほうがよほど良いのではないか。真っすぐで堂々としている成宮くんに合うんじゃないかと思ってしまったのだ。


「最近朝練ないの?」


朝ごはんを食べている時にお母さんが言った。美術部に朝練なんか無いけど、わたしが毎日早くに行っていくのを不思議がっていたので適当に「朝練」と伝えていたのだ。


「…ウン。なくなった」
「そうなんだ。まあ運動部じゃないもんねえ」


わたしの知る限り、運動部や吹奏楽部などでは無いかぎり、朝に集まって活動を行う部活は無いに等しい。でも運動部の成宮くんはわたしがのんびり朝ごはんを食べている今も、汗水流して練習をしている。
そんなに素晴らしい人とわたしが仲良くなるなんて、やっぱり無理な話だったんだ。人気者の男の子にはそれなりの女の子でなければ。


「…あと、これ今日のゴミに出しといて」


家を出る直前、わたしがお母さんに渡したもの。説明するのも嫌だけど、これまで描いた成宮くんの絵であった。
スケッチブックを捨てろと言われたお母さんは不思議がっていたが、「もう使わないから」言うと頷いて、中身を見る事なくビニール袋に入れていた。

これでいいや。もう成宮くんの絵は描かない。クラスに馴染んで毎日を過ごしていけばいい。どうせ成宮くんは同じクラスに居るんだから、せめて授業中だけは成宮くんの姿をこっそりと見る事ができる。





家を出ると、今日はあまり天気が良くなかった。学校に置き傘をしているから気にせず歩みを進めたけれど、ふと考えるのはやはり野球部の事。雨が降ったらグラウンドが使えない。そんな時彼らはどうしているんだろう。成宮くんはどうしているんだろう。
…スケッチブックと一緒に成宮くんへの想いも捨てる事ができればよかったのに。


「おはよー」
「おはよ」


クラスに入り、仲のいい女の子に挨拶をするとちゃんと返ってきたのでホッとした。昨日の朝成宮くんがわたしの席へ来て、一悶着あったのをこの子たちは知っているから。

それにもし昨日の夕方、大村さんの「鳴くんと会話しないで」という言葉に首を横に振っていたなら、わたしの気持ち悪い行動について言い触らされていたに違いない。
本当は美術部の課題など存在しないのに、人物画の課題と装って成宮鳴を勝手にスケッチしていた事を。


「白石さん、あのさあ」
「!」


…ところが、成宮くんはわたしと大村さんとの間に起きた出来事を知らない。昨日の朝、話が途中になったままで終わっているのだ。
中途半端な会話で終わるのが嫌なのだろう、成宮くんは神妙な面持ちでわたしのところへやって来た。


「………」
「昨日の話ってさ、」


成宮くんは周囲の事なんて気にすることなく話を進める。どうしよう。わたしは成宮くんと話さない事を条件に、秘密を黙ってもらっているのに。

困惑して視線を泳がせると大村さんの姿が目に入って、彼女はわたしと成宮くんをじっと見ていた。
見張られてる。首筋を汗が流れた。逃げなきゃ!思い切り立ち上がると成宮くんはぎょっとして、目をぱちくりとさせた。


「…わ、わたし…トイレがあるので」
「トイレがあるって何?」
「行くので!」


どうして静かに恋する事すら許してくれないの。ダッシュでその場から離れ教室を出る時にまた、大村さんと目が合った。もしかして今のも「会話しないで」に反した事になるだろうか。

冷や汗が止まらずトイレでしばらく深呼吸をして、恐る恐る教室に戻るとクラスの雰囲気はいつも通りだった。成宮くんは大村さんと話しているけど、リラックスした様子で笑ってる。どうやらまだ、バラされてはいないらしい。

これからは、こんなに冷や冷やした気持ちで日々を過ごさなければならないのか。いや、いつか大村さんと成宮くんが無事に付き合う事になれば少しはマシになるかも知れない。それまでの辛抱。
だから、そうなるまでは成宮くんもどうか空気を読んでいただきたい。
分かって欲しい。あなたは人気者で、あなたを狙う女の子は沢山いるんだから、わたしみたいな地味な子に構っていると色々な影響があるのだと。


「白石さん、組んで。」
「!?」


それなのに化学の授業中。理科室で実験をするため二人一組になれという先生の指示により、成宮くんが真っ先にわたしの所に来たでは無いか?どうして私?
もしかして話の続きを無理矢理にでも聞き出すつもりなのか。聞かない方がいいよ成宮くん、きっとキモチワルイと思うから。わたしのこと、軽蔑するだろうから。


「…もう組む人決めちゃってるから」
「……あ、そう…?」
「鳴くん、わたしと一緒にやろ!」


すかさずやって来たのは大村さんで、成宮くんの制服を控えめに引っ張り誘っていた。
成宮くんは「うん、いいよ」と承諾して、ふたりでわたしに背を向ける。羨ましい。女の子と並んだ成宮くんの背中は思ったよりも大きくて、七分丈に腕まくりされたシャツからは意外と太い腕が見えた。

きれいだ。描きたい。絵にしたい。好き。抑えきれない気持ちが怖くなり、無理矢理意識を逸らすために思い切り首をぶんぶん振った。

午前中の授業や移動教室は成宮くんから逃れる事ばかり考えて、内容が頭に入らなかった。やっと訪れた昼休みも、教室の中だと成宮くんが隙を突いて話しかけに来るかも知れない。
自意識過剰かもしれないけど、だって今朝から成宮くんの視線を感じる。このままでは白状させられてしまう、「実は人物画の課題なんてありませんでした」というのを。

だから昼休みは友だちと食堂で食べる約束をして、「先に行っといて」と告げてからわたしだけ違うルートで食堂に行く事にした。校舎の外を大回りする事になるけれど、ひとりになれる道があるから。一瞬だけでも気を抜ける時間が無いと、倒れてしまいそうだ。
しかしやっと靴を履いて人気のない場所にたどり着いた時、後から声がした。


「…白石さん。」


身の毛がよだつような気がした。それは確かに好きな人の声だったのに、ビクリと震えて振り返るのが怖い。


「…な…なる、……」
「なんで無視すんの?」


成宮鳴はたいそう不服そうであった。見たところ取り巻きの人は連れておらず一人である。わたしの後をつけて来たのだろうか。そうまでして聞きたいのだろうか。


「…無視してるわけでは」
「俺のこと避けてるよな」
「避けてなんか…」
「無いって言える?」


息をつく間もなく成宮くんの尋問が続く。それに答えられず俯いていると、彼は肩を落とした。


「…まあいいや。避けてないならあの絵、完成まで仕上げてくれるんだよね」


成宮くんは腰に手を当てて言った。
成宮鳴の美しい投球姿。練習を見に行った日、近くでポーズをとってくれた日の、あの姿を絵にして完成したら見せて欲しいと言われていた。


「…あ…あの絵は…」


あの絵はもうない。スケッチブックごと今朝のゴミに出したのだ。


「…もう描けない。描くのやめたの」
「は?なんで」
「なんでも!もう成宮くんの絵は描かないって決めた」


だってそうしなきゃ、わたしはクラスの除け者にされるかも知れない。
人気者の成宮くんには分からない。常に周りの顔色を伺って、友だちが離れて行かないかどうか怯えながら過ごす恐ろしさなんて。好きな人に話しかけたり、話しかけられて嬉しい顔をする事すらままならない苦しさなんて。


「だから、あれはもう無しにして…なかった事に、してください」


それは事実上、もうわたしの事は放っておいて下さいという意味だった。
わたしと成宮くんの接点なんて元々無いに等しい。偶然成宮くんの絵を描いている事を知られるまでは、ただのクラスメートでしか無かったのだ。…今だって、ただのクラスメート以外の何物でもない。
成宮くんはわたしの言葉を聞いて、眉を寄せたかに見えた。しかしすぐに怒鳴る事はなく、むしろ静かに話し始めた。


「…約束したんじゃねーのかよ」
「え…」
「出来たら俺に見せる約束」
「………」
「好きな事ならフツー投げ出さないだろ」


わたしは絵を描くのが好き、それを成宮くんに伝えたことがある。描いた絵を見せる約束も、確かに成宮くんに「約束だよ」と言われたのを覚えている。わたしはその時は嘘をつき通すのに必死で、嫌われるのが怖くて、約束をしてしまったのだ。


「何で黙ってんの」
「…ごめん」
「ごめんじゃなくて」
「無理なんだってば!」


いい加減放っておいてくれないと、わたしはまともな学校生活を送れない。こんな事なら好きにならなきゃ良かった。嘘をついて成宮くんに話しかけてもらえて、浮かれていた罰なのだ。大村さんみたいに真正面から成宮くんを好きだと言える勇気があれば良かったのに。


「無理って何?やるって決めたらやれよ!」
「無理なもんは無理なの!成宮くんには一生かかっても分からないもん」
「は?」
「成宮くんみたいな人には分かんない!」


初めて成宮くんに向かって声を荒らげたわたしは、ぜえぜえと息をしていた。成宮くんもそんなわたしを見るのが初めてで、しばらくは睨み合いとも呼べる視線の交わし合いが続いた。やがてそれを逸らしたのは成宮くんのほうで、


「…分かってたまるか」


と吐き捨て、元来た道を戻って行った。足元に転がる石を思いっきり蹴り飛ばしながら。

わたしはずっと前から成宮くんが好き、この気持ちは伝えなくても良かったのに。離れて見ていられればそれで良かったのに。誰かを好きになるのって、こんなに苦しいこと続きなの?相手が成宮くんだから駄目だったの?わたしが美術部の地味な女だから?

いや、そうじゃない。悪いのはわたしの中身だ。一度距離が縮まるとそれだけじゃ我慢出来なくなって、嫌われたくなくて嘘まで吐いた。その嘘ももう第三者に知られてる。全部自分の立ち回りが悪くて、自分が撒いた種なんだ。