こんなに嫌な気分で目覚めるのはいつぶりだろうか。試合や練習で思いどおりの結果が出せなかった時ですら俺の頭は「切り替えよう」と働くのに、プライベートに関しては全くの無能である。

すみれと最悪なムードで解散してしまったのは昨夜の事。俺はまだ野球選手の肩書きを貰ったばかりのひよっこで、毎日ろくな自由時間もなく練習に明け暮れている。それでも暇を見つけてはすみれとの連絡は欠かさないよう心掛けていた。有名になったからって天狗になるような男には、絶対になりたくなかったから。

それなのに、俺はすみれの存在を蔑ろにした事なんか一度もないのに、浮気を疑われるなんて心外だった。こいつはそんな目で俺の事を見ていたのかと、怒りや悔しさや悲しさがぐしゃぐしゃになって襲いかかり、結果俺はすみれの顔なんか見たくもなくなって店を出た。
それからすみれは何も連絡を寄越してこない。それも腹立たしい。少しは罪悪感を持ったらどうなんだ?俺が何をしたんだよ、勝手に罪を被せやがって。


『入団早々女子アナを口説くとは余裕ですね!』


寝ているあいだに来ていたメールの一番最新のものがコレだった。寝付きも最悪、寝起きも最悪だったのに一体どんな仕打ちだ。

送り主は後輩の沢村栄純で、これでも母校では頼れる投手だと思う。そう思っているのに俺の神経を逆撫でするようなメールを寄越すなんて何事だ。俺がいつどこで女子アナウンサーを口説いたと言うのか。誰かを口説く暇も無ければ浮気の暇も無いと言うのに。


「はあ…何だよどいつもこいつも」


苛々を抑えきれずに携帯電話を布団に投げた。こんな下らない話に付き合っている暇はない。今日もそろそろ練習に行かなくては。
しかし、俺の携帯からは再び通知音が流れてきた。舌打ちしながらもう一度画面を開くと沢村とのトーク画面で、そこには一枚の画像が貼り付けられていた。


「…んだコレ」


目を疑った。それは男女が写っている写真で、そのうち左側に立っているのは俺自身だったのだ。右側の女の子には見覚えがある。先日インタビューにやって来たリポーターだかタレントだか、とにかく朝の番組で流れると言っていたような。

いや、そんな事はどうでもよくて、問題はこの写真だと俺とこの子が非常に仲睦まじく見えてしまう事だ。俺、めちゃくちゃ笑ってるし。この時は確か誰かが笑わせに来たんだったっけ?
と言うか、そもそもどうして沢村がこの写真を持っているんだ。


『はい!こちら沢村でございます』


ちょうど朝練を終えて校舎に向かうところだったようで、電話をかけるとすぐに煩い声で応答された。相変わらず朝から驚くほどのハイテンションだ。でも今はそこに感心する余裕は無い。


『もしもし聞こえてます?こんな時間にどうしました』
「お前これどこで知った?」
『はい?』
「俺がタレントの子と写ってる写真!」


沢村がどうしてこの写真を持っているのか、そればかりが気になって食い気味に怒鳴った。しかし焦る俺とは反対に、沢村はリラックスした様子で答えた。


『どこでって、ミカちゃんがSNSに載せてたんですよ!いくら可愛いからってちょっと距離が近すぎやしませんかあ?』
「ミカちゃん…?」


ミカちゃん。そう言えばそんな名前だったような気がする。
撮影を終えた時、ミカちゃんに「記念に写真撮りましょう」と言われた。そこには俺を含む三人の新人選手が居て、それぞれとツーショットの写真を撮っていた記憶がある。という事は三枚の写真があるはずなのに、沢村のこの言い方。もしかして俺との写真しかアップされていないのか?


「おい、この写真の時は他の奴らも」
『いいんです!口答えは結構!気持ちは分かりますよ!あんな可愛い子に寄ってこられたら俺でも断る勇気はございませんので』
「………。」
『ところでわざわざ電話くれてどうしたんですか?練習でも付き合っ』
「切る」
『えっ』


沢村には悪いがすぐに電話を切り、過去に登録しただけで全く使用していないSNSのアプリを開く。
検索欄にミカちゃんの名前を入力すると、一番最初に本人のアカウントが表示された。
そして過去の投稿を遡るとすぐに、昨日の朝掲載された俺との写真が。沢村が送ってきたのと同じものだ。投稿に添付された写真はこれ一枚だけ。


「…これを見たのか…?」


すみれはもしかして、この写真を見て俺の浮気を疑ったのだろうか。
浮気ではなくとも、何か良くない事を考えたに違いない。何故なら俺は、彼女が居る事を今のところは伏せておくように言われているのだ。すみれも大学に入ったばかりだし、公になるのはお互いの為では無いので俺もすみれも快諾した。

でも、だから俺たちは二人でどこかに出掛けたり、写真を撮ってこんなふうにインターネット上で拡散するなんて以ての外だ。自分はそれを許されないのに、別の女の子が堂々と俺との写真を載せるのは、すみれにとって気分のいいものじゃ無いだろうと思えた。


「………。」


今はまだ寝ているか支度中かもしれないが、すみれに電話をかけてみた。けれど応答はない。俺もそろそろ行かなくてはならない、どうするか。とにかく留守電に繋がった瞬間に吹き込みをした。


「もしもしすみれ?俺だけど。いつでもいいから電話くれ、聞きたい事がある」


要件を言い終えた後も無意識のうちに返事を待ってしまったが、これが留守電なのだという事を思い出して情けなく終了の文字を押す。すみれはこれを聞いてくれるだろうか。昨夜の俺は、ろくに話も聞かずに言い過ぎたのか。


「……ハァ」


今から一日が始まるというのに気分は最悪。夜までに反応が無ければ直接会いに行ってしまおう、無理やりそう決める事で気持ちを切り替える事にした。





昼になっても夜になってもすみれからの連絡は無かった。
すみれも忙しくしているのか、はたまた意図的に俺を無視しているのかもしれない。言いたい事も言えずに無視されるなんてとても耐えられない。が、そう言えば昨夜の俺はすみれが何か説明しようとしていたのを無理やり遮ったのだった。俺に文句を言う資格は無い。
こうなれば会いに行ってしまえ、とまだ数回しか訪れたことの無いすみれの新居へ向かう事にした。


『…家まで来てなんの用ですか』


マンションのロビーからすみれの部屋番号を呼び出すと、最初こそ「はい」と丁寧に応答したものの、モニターに俺の顔が映るや否や声が低くなった。ここではまだ余計な事を言わないほうがいい。画面を切られたら終わりだ。


「すみれ、開けて。お願いだから」
『わたしには萎えたんでしょ…』
「萎えてねーよ!開けろ」


昨日、頭に血が上った状態で発した言葉に後悔を覚えた。すみれからは返事が無かったが、やがてオートロックが解除され自動ドアが開く。
ひとまず安堵した俺は先に進んでエレベーターに乗り、すみれの部屋の前へと到着した。


「…入れば」


ドア横のインターホンを鳴らし、出てきてくれたと思えばこの台詞。すみれも怒っているのか、それとも昨日の事を悲しんでいるのかもしれない。


「…お邪魔します」


会いに来た理由はどうあれ堂々と部屋の前で話すわけにはいかない。すみれはその事を理解してくれているらしく、チェーンロックを外して中に入れてくれた。
が、すみれも玄関に立ったままで俺が靴を脱ぐスペースも無い。玄関までは入れても、部屋の中にはまだ俺を入らせないようだ。その証拠にすみれの第一声はこれ。


「堂々とこんなとこ来ていいの?一人暮らし用のマンションだよ」
「いいよ。男友達が住んでるって事にすればいい」
「……で、なんの用」


すみれはまだその場を動かない。昨日勝手に怒って勝手に席を外した俺が、勝手に家まで押しかけたんだから当然だ。俺がすみれを振り回してる。そして恐らく原因はこれだ。


「お前、もしかしてコレ見た?」


すかさず俺は携帯を取り出し、例の画像を表示させた。それを見て固まるすみれ。だが、その固まり方は初見のそれではないように見えた。


「………」
「見たんだな」


肯定も否定もせず、すみれはゆっくりと下を向いた。同時に俺も携帯電話を下げ、原因はこれだったのだと理解した。


「…見たくなんて無かったよ」


すみれの声がとても小さく弱々しく聞こえる。何度が聞いたことのある声だった。これを聞くと必ず俺は後悔するのだ、決まって俺のせいですみれを悲しませた後の声だから。


「私だって一也は練習、頑張ってると思ってたもん。今も思ってるもん。でも、…」
「でも?」
「大学で…友達が…それ、たまたま見つけたらしくて」


途切れ途切れになりながらすみれが話す。下を向いているから定かではないが、恐らく泣かせてしまった。俺は極力優しく扱わなければと、すみれの背中に手を添え玄関から上がるように促した。


「ミカちゃんみたいな子、誘われたら絶対連絡先とか…交換しちゃうだろうね、って言われて」
「友達に言われた?」
「うっ、ん」
「その子はすみれが俺と付き合ってるのは」
「知らないよ!誰にも言ってない。約束だもん」


靴を脱いだすみれはそのまま廊下にへたり込んで、もう泣き顔を隠そうとはしなかった。

彼女の言うとおり俺たちは約束した。と言うよりはすみれがわざわざ約束をしてくれたのだ。俺が試合で安定して使ってもらえるようになるまでは、恋人が居る事は隠しておこうと。
それは俺にとってとても有難い事だったし、入団したばかりの野球選手に恋人発覚なんて聞いた事もない。俺はもちろん了承したけれど、その代わりすみれに与えられる代償は大きかったのだ。


「…だから…すごく、これ見て不安になって…あの時、ちゃんと言えばよかった」


廊下に座り込んで泣きじゃくるすみれの姿はとてもじゃないけど見てられないが、こんな姿にしたのは俺自身である。
昔から俺の悪い癖なのだった、周りが何と言おうと自分が正しいのだと思い込んでしまうのは。


「ごめん。あの時は俺も悪かった」
「なんで」
「聞く耳持たずに怒っちまっただろ」


しゃがみ込んだ俺はすみれに顔を上げるよう促したが、首を振って拒否されてしまった。涙を拭く事が許されないならせめて出来る限り寄り添おうと、頭を撫でてみるとすみれはゆっくりと話し始めた。


「……わかってるんだよ。一也はこういう事、浮気とか絶対しないって」
「うん」
「でも、だから、女の子とツーショットとか、初めて見たからビックリして。絶対こういうのしないって思ってたから」
「うん」
「しかもミカちゃんだし……」


聞けばミカちゃんというのは最近話題の女子大生で(テレビを見ないから知らなかった)、女の子の間では憧れの的なのだそうだ。
しかしすみれとミカちゃんは似ても似つかない。良くも悪くも全く似ていないのだ。だから俺がすみれとは写真を撮らないくせにミカちゃんと写っていた事や、その写真の俺が笑顔だった事が、とても嫌だったらしい。

笑顔だったのはまだカメラが回っていると思っていたのと、俺のせいでチームの印象を悪くしたくなかったからなのだが。それに、テレビ関係の人に写真撮影を頼まれた事なんて無かったから。


「この時は俺、どうしたらいいか分かんなくって…ごめん、こういうの初めてだったんだよ」
「…ウン。」
「これからは軽率にこういうの受けないから」
「え、そんな、そこまでしなくていいよ」
「しない」


あの時は初めてだったけど、もうしない。少なくとも女の子とはメディアの裏で写真を撮らない、撮られない。


「そのたびにすみれが不安になるくらいなら、もうしないよ」


俺にとっては自分の印象なんかより、すみれのほうが大切なのだ。テレビや雑誌の撮影じゃない限り、写真を頼まれた時の断り文句なんかいくらでもある。俺に恋人が居るとか居ないとか、そんなのどうだっていいくらい試合で活躍すれば良い。
そう伝えると、涙が収まりかけていたはずのすみれは再び声を上げてしまった。


「……かずやああぁぁぁ」
「ハイハイ泣かない」
「馬鹿ああぁぁぁ」
「ごめんって」


胸とか肩とかをぽんぽん殴られたが、今回は俺が悪いので全ての攻撃を受け入れた。
やがて殴り疲れたすみれが思い切り肩に手を回してきたので、俺も彼女の背中に手を回した。途端にぎゅっと力が込められ、危うく首が締まるところであった。


「…じゃあ、ミカちゃんとは何も無いのね」
「無いよ。そもそも好みじゃねーし」
「えー、うそだっ」
「嘘じゃありませーん」
「だってあんなに可愛いんだよ!?」
「可愛いのは否定しねーけど、それとこれとは別じゃん」


俺は嘘をつく事はできない。だからあのミカちゃんを不細工だの何だの言う事はできない。が、だからと言って俺があの子に惚れるとか他の女の人を好きになるとか、それはきっと有り得ない。


「俺はすみれに本気なんだよ。初めに伝えたろ」


高校生の時から、同じクラスになりその笑顔を見た瞬間から俺はすみれの事が好きだ。誰かの事を好きとか愛してるとか、そんなの全然考えた事も無かった高二の俺が、「きっとこの子と結婚するのだろう」と本能で感じてしまったんだから。

それはほんの二年前なのに、ずいぶん昔の事のように感じる。
あの時俺は何も考えずすみれを壁に押し付けて、何か言おうとしてるな、と感じたものの我慢できずに初めてのキスをした。それからは無理やりするのを我慢していたけど、今日また俺は有無を言わさず唇を塞ぐ事になりそうだ。

アドレッセンス終篇
後編