06


毎日、朝が来るのをあんなに楽しみにしていたのに。スケッチブックは結局埋まる事は無さそうだ。クラスの女の子、大村さんに完全に目をつけられてしまったんだから。

朝の日課だった美術室からの野球部見学はもうやめる事にした。成宮くんに「あんな所じゃなくて近くで見れば」と言われたからじゃない。もう成宮くんの絵を描くのはやめようと思ったからだ。
人物画の課題なんか出ていない。この罪悪感と戦うのもほとほと疲れてしまった。ただの美術部として、そのへんに咲いている花とか校舎とか山の風景とか、そういうのを描けばいい。


「すみれちゃん、大丈夫だった?」


先日の一件を受けて、友だちはやたらと心配そうにわたしを気にしてくる。
もう思い出したくもない事だから、大丈夫だよと答えるしかない。クラスに居づらくなる事だけはどうしても避けたいのだ。このクラスで過ごす時間はまだ4カ月以上残っているし、来年の高校生活まで危ぶまれるかも知れないから。


「今日どうする?どこか寄ってく?」
「あ、ごめん部活行く…」
「ああそっか!美術部の日か」


放課後のこと、今日は美術部の活動日なので友だちの誘いを断って美術室へと向かった。先述のとおり厳しい部活では無いにしても、美術室を憩いの場にしている部員も少なくない。わたしもその一人。

絵を描いているのは、描く事が好きだから。成宮くんを描くのは、成宮くんが好きだから。
でももう「成宮鳴を描く」事は叶わないので、挑戦した事のない油絵でもやってみようか。大きなキャンバスに思いっきり描いたらきっと気持ちいいだろうな、何を描こう。


「……はあ」


結局描きたいものは成宮鳴しか浮かばない。スケッチブックの描きかけのページには、いつか描いた成宮くんの投球姿。我ながらきれいな絵だった。ちゃんと清書したいけど、絵の具で色を塗ってみたいけど、もうそれを実践する事は無い。いや、実践するなんておこがましい。課題でも何でもなくわたしが勝手に描いてるだけなのに…ああもう、結局部活の間ずっと成宮くんの事しか考えてないじゃんか。

その日、外からは野球部の声が響いていたけどわざと外を見ないようにして過ごした。嫌でも教室には成宮くんが居るんだから。

次の日も、その次の日も、土日をまたいだ月曜日になっても、わたしは朝の美術室に行って野球部の練習を眺める事はなかった。


「鳴くん、おはよ〜」
「おはよ」


しかし朝のホームルーム間際になると、どうしても成宮くんが教室に入ってくる。そればっかりは避けられない。
成宮くんと会わないようギリギリに教室に入ろうかとも思ったが、彼は毎日ぴったり決まった時刻に来るわけじゃ無かったから。


「おはよう」


とうとうある日、頭の上から声がした。
誰の声かなんてすぐに分かる。諦めて自分の席で気配を消していたわたしの元に、成宮くんがやって来たのだ。


「……オハヨ…」
「声が小さいんですけど」
「そ、そうかな」
「最近どうしたの?」


成宮くんはわたしの悩みなんて全く知る由もないのか、周りの目を気にせずに話しかけてきた。途端にグサグサと刺さる女の子達の視線。その中で最も強い視線は大村さんから向けられている。

どうか辞めて欲しい。成宮くんと会話できるのはとても嬉しい事だけど、これからの学校生活を棒に振りたくはない。だから、わたしと成宮くんの間でしか分からない話は控えてほしい。こんなの嫉妬と攻撃の対象だ。


「どうもしないけど…」
「嘘。毎朝見てたくせに居なくなってんじゃん、来てないよね朝」


せっかく話をはぐらかしているのに、成宮くんは納得いかない様子で言った。


「何、美術部やめたわけ?」
「やめたわけじゃ…」


美術部は続けている。わたしの唯一の好きな事だから。
すると、部活を辞めたわけではないと知った成宮くんがわたしの目の前の椅子を引き、そこに座って後ろを向いてきたではないか!


「じゃー描いて、今すぐ描いて俺ここに居るから」
「え」
「正面から描けよ。途中で辞めんな!」


成宮鳴の美しく力強い瞳がふたつとも、距離にして三十センチほどの所にあるわたしの顔を直視した。

そんな目で見られて、もう逃げるわけにはいかない。嘘をつき通せるとは思えない。
白状するなら今だ。本当は課題なんか出ていなくて、ただ成宮くんの姿を描きたいがために美術室から毎朝見下ろしていた事を。


「…ご…ごめんなさい」
「何?」
「ごめん…」


謝る声が恐怖で震えた。きっと白状すれば成宮くんに嫌われる。好きな人に嫌われてしまうなんて、今のわたしに耐えられるだろうか?でも、クラス内で女の子から避けられて孤立してしまうよりはマシなのだろうか?


「…わたし…本当は」


どちらか選べと言われたら、今後の学生生活の安寧を取るしか無い。意気地無しの根性無し。
本当はただ、人物画の課題のためではなく、自分のために成宮くんを描いていたと言わなくちゃ。


「本当は…?」


成宮くんがわたしの言葉を復唱し、ついにわたしも全てを打ち明けようと息を吸ったはいいものの、ちょうど良く担任の先生が入ってしまい話は終わってしまった。





成宮くんは自分の好きなことを、自ら始めたことを途中で投げ出した事が無いのだろう。しかも半ば無理やりとはいえ「完成品を見せる」という約束までしていたのに、絵を描く素振りのないわたしを不審がっている。全て吐いて楽になろうと思っていたのに、タイミング悪くそれは叶わなかった。

その上、もっと最悪なのは、成宮くんとの一部始終をクラスの人に見られてしまってるのだ。
そのクラスメイトの一人である大村さんは、いつかのようにわたしを呼び出した。


「美術部の人に聞いたんだけどさあ、人物画の課題なんか出てないんだって?」


そして、誰にも知られたくなかった事を言われてしまった。
でも美術部の誰かに聞けば、課題が出てない事なんてすぐに分かる。わたしの嘘があまりにも軽率だったのだ。


「出てない…です」
「…ふーん。じゃあ絵なんか描いて気を引こうとしてたんだ」


大村さんは取り巻きを連れてくることなく、一人だった。それはわたしに対する配慮なのだろうか、それともわたしを言い負かすのに味方なんか必要無いということか。
いずれにしても、わたしはもう大ダメージを受けている。大村さんに知られてしまった、わたしの嘘を。


「それって鳴くんが聞いたら絶対キモチワルッて思われるだろうなあ」
「えっ」


ヒヤリとした。今朝は成宮くんに「言ってしまえ」と思っていたのに。あの時勢いのまま言えていれば良かったのに。
一度タイミングを失った今、成宮くんに知られるのがひどく恐ろしくなってしまったのだ。


「言わないでほしい?」


大村さんは笑いもせず、怒った様子もなく静かに言った。


「……言わないで…」


わたしの声は震えていた。成宮くんに知られたら終わりだ。せめて嫌われたくはない。同じクラスで同じ時間を過ごせるだけでいいから、やっぱり知られるのは怖い。


「わかった」


大村さんはわたしのお願いなんて鼻で笑って一蹴するかと思ったけど、そうでは無かった。


「じゃあもう鳴くんと会話すんのやめて?わたし鳴くんが好きなの。本気だから」


本気だから。いつも成宮くんにキラキラ光る笑顔を振りまく彼女の目は燃えていた。
大村さんは本気なんだ。本気で成宮くんと付き合いたいのだ。その勢いに、わたしは無言で頷くことしか出来なかった。