こんな事になる確率がゼロだったとは思わない。俺は普通の高校生だし、昼夜問わず練習をする部員とたくさんの時間を共にする女子マネージャーに、俺が好意を寄せる切っ掛けなんて腐るほど存在した。何度かそういう錯覚を起こした事だってある。
でもそれが錯覚じゃなくて、明確に俺の中に落とし込まれるのはこれが初めての事だった。


「白石さん大丈夫かな?」


ゴールデンウィーク明けの練習で、小湊春市が呟いた。
白石というのが俺が密かに思いを馳せる相手であり、春市の同級生だ。だから春市のほうが彼女と仲がいい事も話が合う事も分かってはいるのだが、今だけは敏感に反応してしまった。


「何?白石、どうかしたの」
「あ、洋さん…さっき熱中症かなにかで倒れちゃったみたいなんですよね」
「熱中症?」
「歩けてはいましたけど」


高校二年の白石はマネージャーとしても二年目で、夏を迎えるのは初めてではない。去年からずっと野球部のために動いてきたから体力が無いわけでもない。
が、やはりこの気温と湿度の中では、気を付けていても体調を崩してしまうらしかった。


「どこで休んでんの?」
「たぶんアッチの裏ですよ。栄純くんが案内してあげてたんで」


サワムラァ?と言いたくなるのはグッと堪えて、そうか、と言い捨てて俺は真っ直ぐに春市の指さしたほうへと歩いた。

沢村栄純という俺のルームメイトも同じく高校二年で白石の同級生だ。
どうしたらあんなに元気で騒がしくなれるのか不思議なほどの男だが、悔しい事に沢村は何も考えずに動いているわけじゃない。
今だって沢村が白石をこっちまで案内したという事は、「ここなら部員の目には入らない」事を分かって配慮しての行動だ。俺だってそれくらい出来るけど、と思ったってもう遅いが。


「生きてんのか?」


もう少し優しい言葉をかけてやるのが手本なんだろうけど、そういうのは自分に合わないので諦めている。
俺が声をかけると白石は頭にかけていたタオルを取り払って、ゆっくりと顔を上げた。


「………倉持先輩」


疲れきった表情が逆に白石の魅力を引き出してしまっているのが皮肉である。俺は持っていたペットボトルを胸の前に持っていくと、彼女は両手でそれを受け取った。


「すみません……」
「別にいいけどよ、今日暑いもんな」
「…でも、わたし以外の人は元気じゃないですか」


それなのに自分だけ体調崩して悔しいです、と言いたいらしい。
確かに他のマネージャーは感心するほど元気だが、一年のうち数回くらいはこうしてダウンする事もあるだろうし。男と女じゃもともとの体力も違うんだし。

などとフォローをしてやりたかったが、白石がペットボトルの蓋をあけて思い切り飲み始めたので叶わなかった。


「……ぶはあぁ」
「飲みっぷりは豪快だな」
「冷たいの飲むと生き返ります」
「他にも何か持ってくるか?」
「え!いや、いいですよそんな。沢村くんがいっぱい持ってきてくれたんで」


サワムラァ?と言いたくなるのは本日二回目、それを堪えるのも本日二回目。


「座ってていいのかよ、寝てなくても」
「大丈夫です。だいぶ楽になりました」
「へー…じゃあ隣座るぞ」
「どうぞどうぞ」


体調不良の後輩の隣に無理やり座る先輩なんて模範的じゃないよな。でも白石は素直にベンチの片側に寄って、俺の座るスペースを作ってくれた。
本当はすんなり了承してくれるよりも、少しくらい照れて戸惑って欲しかったんだけど。俺に対してはそんな感情持ち合わせていないのだろうか。


「休憩ですか?」
「……まぁ」
「あ、わたし邪魔だったらもう行きますけど」
「あ?いや、え?何でだよ」
「ひとりで落ち着きたいでしょう?」
「そんな事言ってねーだろ」
「でもわたしが居たら休まらないんじゃ」


白石は俺が本当に、ここへ休憩をしに来たものと思い込んでいるようだ。今ここに一人にされたら困る、というか来た意味がない。


「……居たらいいじゃん。つか、様子見に来たんだし…」


俺は白石が心配で、どんなもんかと見に来たのだ。しかも良心だけではなく、白石と二人きりになれるのではないかという不謹慎な下心まで持っていた。


「見に来てくれたんですか…?」


そんなどうしようも無い俺だというのに、白石は感激したような顔で目を輝かせてくるのだった。キリキリと心が傷む、俺は白石の為じゃなくて自分の為に来ているんだから。


「なんか、すみません」
「何が」
「練習中にわざわざ」
「別にいいんだよ!ていうか、ほら…御幸が見て来いって言うから見に来ただけで」


とうとう自分の心を護るために俺は、こんな嘘まで吐いてしまった。主将命令で来たことにすれば万事上手くいくし、不自然ではないからだ。
ところが、これで少し気が楽になるかと思ったのに、白石の表情は曇ってしまった。


「はは、なんだぁ…御幸先輩に言われたからなんですね」


笑っているけど面白そうではない。「なんだぁ」と言いつつも残念そうな雰囲気を纏っている。俺が自らすすんでここに来たほうが良かったのか?他の誰かに言われたからでは無く。


「…………えっと」
「倉持先輩が心配して来てくれるなんて、珍しいなって思ってました」
「いや…」
「ちょっとドキドキしちゃったじゃないですか、もうっ」


と、言いながら俺の肩を軽く小突いた。全然痛くない。が、肩ではない別の場所に、身体の内側にとんでもない傷みを感じた。


「白石……」
「もうフラつかないみたいです!回復しました」
「おい」
「先輩、休憩終わったら戻ってきて下さいね」


そう言って、座っていた白石が立ち上がった。
足取りはしっかりしているので本当に身体は平気なのだろう。そのまま歩いていこうとする彼女を見送るが、果たしてこのまま行かせて良いのか?いや、良くない。「まだ休んでいた方がいいから」ってのもあるけど、そうじゃなくて。


「白石!」


気付けば俺も立ち上がって、俺よりもふた周りほど小さな背中に向かって叫んでいた。


「………ハイ」


白石はゆっくりと振り返る。ドクン、白石の身体の向きが変わるごとに俺の心臓は大きく鳴った。俺は今、白石を呼び止めて何を言おうとしてるんだ。
言いたいことは山ほどある。回復したからって無理すんなよとか、日焼け止め塗っとけよとか、その他もろもろ。
それから去年、白石が野球部に入ってきた時からウズウズして仕方の無い気持ちの事も。


「…水分。ちゃんと、摂れよ」


結局、振り向いた白石に最初に伝えたのはこれだった。


「……分かってます」


白石は俺に何を言われるのかと思っていただろうが、予想とは違う言葉だったのか、ひどく残念そうだった。


「あと!」


でもそれだけじゃない、俺が言いたかったのは。


「あと…俺、さっきのアレ嘘だからな」
「アレって…?」
「御幸に言われて来たんじゃねえから」


俺はどうしようもない天邪鬼だから、自分の意思でここに来た事を言えなかった。過去にも同じような意地を張って後悔したことは数知れず。
だから今日は白状した。御幸一也に言われてここに来たなんて嘘で、俺自身がお前の事を心配で、あわよくば二人になりたくて来たのだと。


「…倉持先輩」
「……じゃあ。俺も戻るわ」
「えっ!ちょっと待ってください」
「ぐえっ」


言ったはいいが恥ずかしくなってこの場を去ろうとした時、白石にベルトを引っ掴まれた。


「…んだよ、行けよ。俺も行くから」
「何でいきなりそんな言い方するんですか」
「俺はいつだってこうだろうが」
「違います」


さっきまでダウンしていた女の力とは思えないほど、俺のベルトはぎゅっと握られている。そして、さっきまで虚ろだったとは思えないほど潤った丸い目に、情けない俺の顔が映されていた。


「倉持先輩は、言いたい事はハッキリ言う人ですよね」


ベルトを掴む手はまだ緩まない。それどころか俺を急かすように、ぐいともう一度引っ張られた。


「…言わせんのかよ俺に」
「わたしから言わせるんですか」
「………」


俺が白石すみれに好意を持ってしまったのは、こういうところだ。始めは大人しくてしおらしくて、監督や先輩の言うことをハイハイ聞いて過ごしていたのに、いつからか自分の意見を言うようになった。
周りが男だらけだから知らないうちに強くなったのかも知れないが、とにかく白石が何かを訴える時の瞳は、相手にノーを言わせない強い力を持っていた。


「…も少し良いシチュエーションが良かったけど、仕方ねーな」
「仕方ないって何ですか…」
「文句言うなよお前のせいだぞ」


俺は俺なりに考えていたぞ、いつどのように告白するかを。
練ってきたその計画をまさか本人に台無しにされるとは思わなかったけど、少なくとも今日から暫くは多少の無茶な練習も頑張れそうだ。白石が何も言わずにうんうん頷いている姿を思い返すだけで。

赫灼として謡え