03


目立たないように、中の中くらい(もしくは中の下)の人生を送ってきたわたしに驚きの展開。学校中の注目の的、成宮鳴から「俺をモデルにして描いていいよ」と許可が出たのだ。

しかし手放しで喜べないのが現状で、何故ならわたしは彼の絵を描いている理由として「美術部内で、人物画の課題が出たから」と伝えているのだ。そんな課題は出ていない。もう秋だから夏のコンクールは終わったし、学園祭にはコンクールに出した作品がそのまま飾られる。わが校の美術部は、頻繁に課題が出るようなバリバリの部活では無いのである。


「…白石さんすっげえ上手だし。って」


帰宅してからというもの、成宮くんに言われた言葉を自分の口で繰り返すという気持ち悪い行動に至っていた。
だってあの成宮くんが、わたしの事をクラスメートとして認識しているのかすら危うかった彼に苗字を覚えられていて、更に呼んでもらえたのだ!おまけに描いた絵のことを上手だなんて、今日の帰り道に交通事故で死ぬんじゃないかとビクビクしたほど。

でも、買ったばかりの新しいスケッチブックを好きな人で埋める事ができるなんて幸せだ。明日も早起きして朝練を覗きに行ってみよう。





翌日、いつもより軽い足取りで朝の美術室へ忍び込んだ。
学校の敷地横を歩いている時から聞こえて来た野球部の朝練の声。わたしがこんなに浮かれているのに、成宮くん本人は早朝から汗を流している。わたしはそんな彼の絵を、こっそり上から見下ろして描いている。
本人から「描いてもいい」と許可を得たとはいえ、罪悪感は少なからず残っていた。


「うわ…天気いい」


窓を開けると気持ちのいい風が入ってきた。今朝は気温が高いけど、これからぐんと涼しくなる。こうして窓を開け放して野球部を見るのは難しくなるかもしれない。


「成宮くん…、居た…おはよー」


届くはずもないのに、ピッチング練習を繰り返す成宮くんへ朝の挨拶。なんだかわたし、恋する乙女みたいだな。恋、してるけど。

そもそもわたしが成宮鳴の姿を描こうと思ったきっかけは、教師や生徒の注目を浴びて堂々と過ごす彼の姿が魅力的だったからだ。
今じゃ地味に過ごしているわたしだけど、クラスの中心になってみたいと感じた事くらいある。実際にクラスのみならず学校、また甲子園中継やニュースにも取り上げられるような成宮くんを素晴らしいと感じるとともに、羨ましいとも感じていた。

そうしたら自然とペンが動き、スケッチブックに彼の姿を描いていた。気付いたら好きな人の名前を書いちゃう事ってあるじゃん、それと同じような感じ。…わたしだけだろうか?


「暑そうだな…」


まだ早朝だと言うのに太陽は容赦なく照りつけていて、その熱と光だけで体力を奪われるんじゃないだろうか。秋だから気温はさほど高くないものの、あれほど走って声を出していたら。
成宮くんが汗を思い切り拭うのを見ながらそう思っていると、その成宮くんの顔がこちらを向いた。


「えっ、」


確実にわたしを見ているかどうかまでは分からない。が、真っ直ぐに校舎の、この美術室の的を向いていた。そして片手を上げて振っている…もしかしてあれって、まさかまさか。


「わたし?うそ、え」


周りをキョロキョロ見渡してみたけど、当然この教室にはわたしだけ。窓から顔を出して左右を見たけど、誰かが外を眺めている気配は無い。わたしだ。わたしに手を振っているんだ。


「……オハヨー…」


控えめに、あんまり目立たないように振り返した。少し距離があるけれど成宮くんの目には届いただろうか。
わたしが振り返した瞬間に成宮くんが手を下ろし、オ、ハ、ヨ、と口を動かした…ような気がした。


「…やばい…やばい」


成宮鳴が朝練中にこっちを向いて手を振ってきた。一体どこの少女漫画の世界に入り込んだのだ、わたしは。

心臓のバクバクが止まらないまま開かれたスケッチブックに描いていくのは、成宮くんの今朝の様子。鉛筆で走り描きだし、一瞬の出来事だったけどこれは残しておきたいと思ってしまった。成宮くんが、わたしに向かって手を振ってくれているところ。

時間はすぐに過ぎていき、今日も美術室までやって来たらどうしよう?という期待や不安に駆られていたが、残念ながら彼は来なかった。
そりゃあそうだよね、わたしにそこまで興味があるわけじゃないだろう。
さっきだってわたしの視線があまりにも強過ぎて、目が合ったから仕方なく手を振っただけかも。


「おはよーっす」


がやがやとした教室の中でもすぐに響く成宮くんの挨拶で、わたしと、その他の生徒達は一斉に彼へと意識を向けた。
おはよう、鳴くんおはよう、と言う女の子の声。わたしも混ざりたいけどいいんだ、さっき口パクでおはようを言ったから。


「捗ってる?」


我関せずの状態で席についていたわたしの机に突然影ができた。同時に頭から降ってくる好きな人の声。
まさか成宮くんが教室の中でわたしに話しかけている?今は放課後みたいに誰も居ないわけじゃなく、周りに沢山の生徒が居るのに。


「……わたし?」
「そうだけど」
「え!う、うん。おかげ様で…」
「あっそう。朝から真面目だね」


本当に成宮くんがわたしに話しかけている! しかも他の誰にも分からない、わたしたちだけの共通の話を。
「朝から真面目だね」って事はわたしがさっきも美術室から見ていたのを気付いてる。という事はやっぱりさっき、わたしに手を振ったので間違いなさそうだ。夢でも見てるみたい。


「ていうかさ、思ったんだけど」
「なに…?」
「あそこ遠くない?美術室」


成宮くんは腰に手を当てて言った。美術室は確かに遠い。でもあれくらいの距離がわたしにとっては都合がいい。それに、誰にも気づかれないようにこっそり絵を描いていたいんだから。


「…どういうこと?」
「いや、何であんな遠くから描いてんだろって思って。近くで見ればいいじゃん」
「え」
「普通に考えてそのほうが見やすくない?」


何か間違ったこと言ってますか?とでも言いたげだ。
確かに成宮くんの言うことは正しいと思う、というか当たり前のことだと思う。でもわたしはそんな、成宮くんの近くで練習を見るなんておこがましい事は出来ない。だって近くで観察していたら成宮くんをモデルにして描いてる事がバレちゃうじゃんか……、あっもう本人にはバレてるんだった!!


「そ…そそ…それは」
「まあ練習見に来てるオッサン多いからね!オッサンが苦手な子は無理かもね」
「い…いや…」
「鳴くん!」


その時、成宮くんの背後から別の女の子が現れた。
当然のように彼を下の名前で呼ぶその子は大村さんといって、成宮くんの事を特に気に入っている女の子。そしてクラスの中でも一番可愛くて華やか。つまりは何度も言うけれど、わたしとは正反対の子だ。
成宮くんは大村さんに呼ばれると顔を上げ、すぐにそちらを向いた。


「なにー?おはよ」
「おはよう、ねえねえ英語の宿題やってないでしょ?見る?」
「えっ!いいの」


そして、大村さんに招かれるまま歩いて行ってしまった。せっかく成宮くんと教室の中で会話ができたのにな。

でもそれを残念がっていられるような暢気な状態では無かった。大村さんをはじめ、成宮くんの周りを囲う女の子たちが、「なぜ鳴くんから親しげに声をかけられている?」と明らかにわたしのほうを気にしているではないか。


「………。」


やっぱりダメだ、住む世界も取り巻くに人間も違うのだ。話しかけて貰えたからと言って、自分から成宮くんに近付きすぎるのは良くないかも知れない。