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秋晴れの朝、いつもより大きな荷物を抱えて学校へと向かう。スケッチブックを使い切ってしまったので、昨日新しいものを買ったのだ。
鞄にぎりぎり入る大きさを買ったつもりだけどそれは収まりきらず、残り一年ちょっと世話になる鞄を壊すわけにはいかないので、大きなトートバッグを持って登校している。
今が真夏でなくてよかった、荷物のせいで大汗をかかずに済むから。

美術部には特に「朝練」というものが存在しない。コンクール前には早めに来て作業をする事もあるけれど、基本的には週に三回の活動のみ。にもかかわらず今は朝の七時半で、ホームルームが始まるよりも一時間早い。
何故美術部のわたしがこんなにも早く登校しているのか、それは誰にも知られたくない理由であった。


「おはようございまーす…」


一応挨拶だけしながら、誰も居ない美術室の戸を開けた。
予想通り人っ子一人居なくてしんと静まり返っている。集中できそうな絶好の場所。でも、窓を閉め切った静かな場所では意味が無い。
わたしは机の上に荷物を置いて、まっすぐ窓際へ歩いて行き全ての窓を開け放した。


「ラストー!」


その瞬間に響いてきたのはよく通る大きな声と、それに続けて男子生徒たちの掛け声、バットとボールのぶつかりあう小気味よい音。

美術室の窓からは野球部グラウンドがよく見える。その隣には恐らくピッチャーとキャッチャーが練習するための施設があって、ネットが張られていてはっきりとは見えないけれど明るい髪色の男の子がちらちらと動いているのが良く分かる。
同じクラスの成宮鳴が、野球部の朝練に参加しているのを特等席から眺める事ができるのだ。
今日も彼が練習に参加しているのを確認し、自分の気持ちが高まっていくのを感じた。

成宮鳴、野球の名門である稲城実業高等学校の生徒で、学校中が知っているエースだ。
彼の肩書きはいくつも存在する。「野球部のエース」「学校一の有名人」「女子生徒のアイドル」等、とにかく華やかな肩書き。

女の子ならだれもが一度は思うのだった、「もしも成宮鳴が自分のことを好きだったらどうしよう?」そして、そんなわけ無いよね、と冗談めかして吹き出すまではほんの数秒。

それほどまでに成宮鳴と個人的に仲良くなって交際するというのは険しい道のりで、夢物語のような事だった。
そして、わたしも例に漏れずその夢を見ている。夢からはまだ醒め切っていない。だから毎朝早起きをして野球部の練習を見下ろしているなんて、誰にも知られたくない事だ。
しかもその中心にいる成宮鳴を、何度も何度も絵に描いている事なんて。


「おはよー」
「おはよう」


朝のホームルームが近付くにつれて、クラスには生徒が集まってきた。

わたしも誰かにバレないよう早めに美術室を出て、自分のクラスへと入っておいた。
机に座り、宿題や予習をするふりをしながら一人の男子生徒を待つ。彼は毎日ホームルーム開始の五分前くらいにやってくる。それをわたしはもうすぐ、もうすぐ…と毎朝ドキドキしながら待っている。


「はよーっす」


そして、来た。今朝も成宮くんは鞄を引っさげ、クラス中の皆に響くような声での挨拶。朝練で声を出しているから、今も喉の調子が良いのだろう。

先ほど美術室から見下ろしていた金髪が今、同じ空間に。そして、わたしも「おはよう」と返す事の出来る距離に。


「おはよう鳴くん」


けれど声を出したのはわたしではなく、別の女の子であった。どの学校にも居るようなクラスの中心的人物。人見知りでつまらない美術部のわたしとは正反対の、社交的な女の子だ。
成宮くんは挨拶を返してきた彼女に目を向けながら、鞄の中身を漁り始めた。


「今日一限目なんだっけ?」
「現文だよ」
「げっ、眠くなるやつ!」


そうだよね、眠くなるよね、分かる分かる。

心の中で成宮くんに同調する事しかできないわたしは、実際に彼の隣で「あのセンセーの声って眠くなるよね」と笑いかけている女の子を見て見ぬふりした。わたしだって話し掛けたいけれど、あんなに華やかで可愛らしい子には到底適わないから。


「じゃあこの問題…成宮起きてるか?」


一限目、現代文が始まってから数十分が経過した時のこと。
わたしはドキリとした、自分が当てられたわけじゃないのに。窓際の前から二番目に座る成宮くんが先生に当てられたのだ。

朝練の疲れもあるだろうし寝てしまってるんじゃ?と、関係ないくせに心配してしまうわたし。でも成宮くんは起きていたようで、ハーイと片手を挙げていた。


「起きてますけど…俺が起きてるからって授業を理解できてるとは限りませんよ?」
「上手い事言っても成績上がらんぞー」
「ちぇー」


クラス内で少しの笑いが起きて、今朝成宮くんに話しかけていた女の子ももちろん笑ってた。わたしも成宮くんのお茶目な様子が微笑ましくてコッソリ笑う。一挙一動が大勢の人間に影響をもたらす、彼はわたしの憧れだ。

そんな成宮くんは問題を解けなかったみたいで、当てられて立ち上がっていたものの照れ笑いをしながら席についた。


「まあ成宮が朝から頑張ってるのは知ってるけどな、中間テストもしっかりな」
「はーい」
「じゃあ代わりに…白石」
「はいっ?」


座った成宮くんの背中を後ろの方から眺めていたわたしに、突然の指名。
成宮くんの言動でざわざわしていたクラス内が一気にシーンとなる。自分の次に当てられたクラスメートがなかなか喋り出さないのを感じ、成宮くんも後ろを振り向いた。うわっ!こっち見てる、どうしよう。


「…問題聞いてたかー?」
「はいっ、すみません」
「プリントの問三。どうして紀男は佑子にプロポーズをしないのか」


とうとう先生が問題を復唱した。授業に集中しなければ、正解して成宮くんに少しでもいい印象を与えなければ。

幸いにもこのプリントの文章題ならば一度読んだだけで理解出来ていた。なんたって主人公の心境が、わたしと全く一緒だったのだから。
主人公の紀男が、愛する佑子に気持ちを伝えられない理由とは。


「…自分は相手にふさわしくない人間だと思っているからです」


クラスの中心、女子たちのアイドル、野球部不動のエースである成宮鳴とはどんな天変地異が起きたって釣り合わない。美術部で、友達もあまり多くはなくて、無口で地味なわたしとは。
だからわたしはこの文章題の、紀男の気持ちが痛いほどに分かるのだ。





今日は成宮くんと何回目が合うかな?と思いながら過ごしていれば、一日なんてあっという間に終わってしまう。
たいていは一度も合わないんだけど、今日は現代文の時に目が合った。成宮くんが、明確に、わたしを見ようとして振り向いた。
おかげで緊張しまくりだったけど、当てられた問題は無事に正解。面目を保つことが出来たのである。


「……ふー」


放課後の誰もいない教室。今日は美術部の活動日ではないけれど、放課後の美術室には美術の先生が居るので野球部の見学は出来ない。
グラウンドまで下りて見に行けば良いんだけど、その度胸はない。成宮くんを始め、他の野球部員を目当てにする人が老若男女問わず沢山いる。

そんな中ではじっくりと成宮くんを見ることが出来ない。スケッチブックを開いて、彼の姿を収めるのは。


「それって俺?」
「!!」


教室内にはわたししか残っていない筈だったのに、背後から突然聞こえた声。
毎日毎日わたしが神経を研ぎ澄ませ、一言一句聞き漏らすまいとしているクラスメートの声だった。
成宮鳴が、知らぬ間に後ろに立っていたのだ!しかも思いっきりわたしの開いたスケッチブックを見下ろしているではないか!


「な、なるっななっみや」
「キョドり過ぎ」
「ど、どうしてここに…」
「どーしてって…ココは俺のクラスなんですけど?」


そう言いながら彼は自分の席まで歩くと、机の中を漁り始めた。忘れ物でもしたようだ。


「…白石さん?で合ってるよね?」


机の中身を机上に積み重ねながら、成宮くんが言った。


「あ、あってる」
「一限目のアレ良かったねー、俺感動しちゃったかも」
「アレって…?」


そこで彼は目当てのプリントを発見したようで、分かりやすいように隣の机に置いた。続けて今引っ張り出したものたちを再び机に仕舞いながら続けていく。


「当てられたじゃん、俺のあと。白石さんこう答えたよね、えーっと…紀男は、自分は相手にふさわしくないと思ってるから!って」
「……うん?」
「洒落た言い方だなって思ったよ」


洒落た、言い方。そうだろうか。成宮くんにはそう聞こえたのだろうか。そんな事より、現代文の時にわたしが答えた内容をそのまま覚えているなんて!成宮鳴の意識の中に、白石すみれの存在があるなんて!
しかし頭の中に御花畑が広がり始めた時、成宮くんは立ち上がり真顔で言った。


「…で、それって俺だよね」
「っ!?ち、違うよ。違う!」
「絶対嘘じゃん、思いっきり俺じゃん」
「ちが…」
「見せて」


慌てて閉じたスケッチブックを指さされ、逃げ場のないわたし。

絶体絶命だ。好きな人の絵を勝手に描いていただけでも気持ち悪いのに、その絵を本人に見られてしまった。更に「見せて」と言われてしまった。

相手は学校一の人気者、成宮鳴。「白石って奴がさぁ、俺のこと勝手に観察して描いてたわけ。キモくない?」なんて言われたらわたしの高校生活は終わってしまう。


「み、せ、て?」


ビクリと身体を震わせるほどの低い声。どうしよう。どの道逃げる事は出来ない。こうなれば成宮くんがメインだとは分からないような引きの絵で、かつ上手く描けたものを見せるしかない。


「…他のページは見たらだめだよ」
「オッケー」


わたしは成宮くんの絵を描いているけれど、近くで彼をじっと観察した事は無い。いつも美術室から見下ろしているだけなので、運良くアップの絵は存在しなかった。
広いグラウンドと、真ん中に佇む成宮くんの絵を見せると、暫く彼は無言だった。が。


「うまっ」
「えっ!?」
「いや普通にうまくない?芸術家でも目指してんの?」
「そ、そこまでは…えと、美術部で…」
「フーン。はい、返す」


上手いと言ってくれたわりには、パタンとスケッチブックを閉じて突っ返されてしまった。
これは、あれだ。気持ち悪がられるとか引かれると言うより、興味すらわかなかった感じ?


「成宮くん、えっと…」


この事は誰にも言わないで欲しい。一番知られたくなかったのはアナタだけど、それでも他の人には知られたくないから。
と、お願いしようと思ったのに、気付けば成宮くんの姿は教室内から消えていた。


「……早っ。」


キモチワル、と言われるよりは何倍もマシだけど。挨拶も無しに去られてしまうとは。
成宮くん、わたしのことなんて空気のようにしか思ってないんじゃなかろうか。