09


ペルセウスは化け物退治に向かう道すがら、生贄にされかけていたアンドロメダ王女を助けた事で彼女と結婚した。
なぜ彼女は生贄にされる事となったのか?理由は現代人にとっては「何じゃそりゃ」と思ってしまうような事。「アンドロメダの美貌は神々にも勝る」と調子に乗った彼女の母親のせいで神の怒りに触れ、怒った神がアンドロメダを怪物の生贄にしようとしたのだ。

せっかく困っていた王女を助けて仲を深める事が出来たのに、俺という英雄は心無い言葉で彼女を傷付けた。
神話の中ならば今度は俺が生贄になる側だろうなと自嘲しながら、向かうは稲荷崎高校である。

本当なら待ち合わせでもして、ちゃんとどこかで会って話したいのだがそれは不可能だった。自業自得だが電話をしても出てくれず、メッセージを送っても返ってこないのだ。
あまり頻繁に連絡しても逆効果だと思い、俺は連絡するのを諦めた。幸いにも、ここに来れば必ず会えることを知っているからだ。


「……静かやなあ…」


普段ならバレーボールの弾む音が響く体育館からは、何の音もしなかった。
おかしいなと思っていたが理由はすぐに判明した、今は中間テストの期間中だ。

テスト期間は部活が中止される。バレー部と、他いくつかの部活だけは決められた時間内のみ練習を許されていたけれど。
天体観測の時間を狙って来たからもう夜だし、人数の少ない天文部がテスト期間の部活動を許されているとは思えない。
しかし。失敗したか、と肩を落として帰ろうとしたその時だ。


「っくしょん」


控えめなくしゃみ、それも女子生徒のものが聞こえた。
五月中旬の夜、夏服を着るにはまだ寒い時期。そんな時に外に出てお決まりのようにくしゃみをする女生徒を、俺はひとりしか知らない。

その女の子は見覚えのある何かを担いでおり、それを地面に置くと向きを調整し始めた。彼女が父親から譲り受けた天体望遠鏡だ。


「…ひとりでこんな時間までおんの、危ない言うたやろ」


背後から近づいた俺は静かに言った。すみれはびくりと飛び上がって振り向くと、俺の姿を見て安堵と戸惑いの混じった様子で硬直した。どちらかと言うと戸惑いの方が大きそうだ。


「信介くん……」


校舎には恐らく他の生徒は残っていない、テスト期間だから。こんな時にひとりで居るのを俺が咎めないはずは無い。すみれはそれを理解している筈だが、当然ながら今日は素直に聞くつもりは無いらしかった。


「…平気です。関係なくないですか?」
「あるわ」
「ないです」
「俺はすみれの彼氏やろ」


今は、一人でいる事を怒るつもりはない。ただ確認したかった。俺たちはまだ恋人関係であると信じていいのかを。ところがすみれの口からは、望みどおりの言葉は出て来なかった。


「…都合のいい時だけ彼氏のふりすんの辞めて下さい」


それを聞いただけで俺は、あの時どれほど耐え難い仕打ちを与えてしまったのかを理解した。
すみれはあの時怒りに震えたのではなく、悲しかったのだ。悲しさを表現する為にこれほどの怒りをあらわにしているのだ。


「すみれ、ごめんな」


佐々木さんの誘いを断れなかった日の事も、その後、謝りに来たはずが傷つけてしまった事も。


「何回謝ったって許しませんよ、この間の事は」
「…それはわかってる」
「分かっとんなら無駄に謝らんといてくれます?」


すみれは到底納得できないらしかったが、すぐに許して貰えるとは思っていない。今日は許して貰えなくても構わない。ただ話を聞いて欲しくてここまで来たのだ。


「分かってんねん。けど、説明さしてくれんか」
「何の説明ですか」
「俺がどんだけ反省してるか……ウザイかも知らんけど」
「……」


正直、自分を怒らせた相手から反省している内容を延々聞かされるなんて鬱陶しいだろうと思う。でも俺にはこれしか浮かばない。


「ウザイです」


すみれは不信感を隠そうともせずに、俺の言葉を借りて言った。


「…でも、聞くだけ聞きます」


しかし、その後にこう続けた。俺の顔を見ようとはしないが、門前払いという訳でも無いらしい。


「ありがとう」
「早よ話して下さい。遅なったらまた怒るんでしょ」
「怒らへんわ、謝りに来てんから」


話すだけ話せばもしかしたら、俺がすみれの王子様に返り咲く切っ掛けが得られるかも知れないから。
でも謝るべき内容は数え切れないほどある。何から謝ればいいのやら分からない。こんなにも罪を重ねたのは生まれて初めてじゃ無いだろうか。


「…飲み会誘われたこと、黙っててごめん」


結局、時系列で謝る事にした俺は上記の謝罪をした。すみれは俺の顔をひと睨みするとゆっくり鼻から息を吐き、ぼそぼそと言った。


「あん時一緒におったん、あの人でしょ。あのキレーな人」


すみれは一度だけ佐々木さんと会っている。街中で、二人で歩いていた時に。
あの時、すみれは佐々木さんを「綺麗な人ですね」と言った。俺も確かにそう思うから否定しなかった、が、それがきっと間違いだったのだ。思えば俺は、あの時からすみれの心を読み違えてしたのかもしれない。


「たまたま隣に座ってきて…で、そしたらたまたますみれから電話来て、あの子の手がホンマにたまたま当たって」
「……」
「…言うて俺が悪いんやけどな。全部」


すみれは何も言わない。ひたすら聞いていた。返す言葉もないほど呆れているのだろうか。


「もう絶対に黙ってああいう事やらん、誘わんといてって言うた。誘われても行かへん。すみれと喧嘩するくらいやったら」


謝罪のために会いに来た日、俺たちは酷い言い争いをした。落ち着いて謝ろうと思っていたのに俺の精神状態は良くなくて、偶然すみれと一緒にいた一年生の部員に情けない気持ちを抱いてしまったのだ。その結果、言ってはならない事を言ってすみれを傷付けたのである。


「…すみれに悲しい思いさせるくらいやったら」
「………」


出来れば記憶からは消去したいあの時の事。しかしすみれの記憶には深く刻み込まれており、一気に彼女の表情が暗くなったのは脳内で思い返しているからだと思えた。


「…私はあん時、めっちゃショックでした」
「……」
「しかも部活、やる気ないんやったら辞めろとか。初めて殴ったろかと思いました」


俺の知る限り、ウザイとか殴るという単語を口にした事が無いすみれが今日はそれを発している。それほど俺の罪は重いという事だ。


「…ごめん。しょーもない嫉妬してん。殴ってええねんで」
「殴れませんよ」
「殴りいや、一回ぐらい」
「殴られへん」


何発かは殴られても文句の言えない俺だが(その覚悟もしていたし)、すみれは実際に手を出すつもりは無いようだった。
それどころか、ゆっくり大きく息を吐くと、やや穏やかな口調に戻っていた。


「…信介くんみたいな人でも、嫉妬する事あるんですね」
「どういう意味?」
「あんまそう言うの無いんやと思ってたから」


すみれは俺の事を完璧超人とでも思っていたのだろうか、嫉妬くらいするに決まっているのに。


「あるよ。俺やって男やし」
「ほんまに?」
「うん」


すみれの隣に別の男が歩くだけでもムカつくし、俺が卒業し目が届かなくなってから誰かに言い寄られていないか心配だし、部室に男と二人きりになる事は無いのかとか、考えればキリがない。
そして実際すみれと一年生の小田くんが隣あって歩き、楽しそうに会話しているのを聞いて爆発した。


「…ほんまにごめんな」
「もういいですって…」
「ほんま?」


本当に俺はこれで許されても良いのだろうか?何らかのペナルティを受けるべきでは無いのか。文句があるなら今のうちに言ってくれ、と見下ろすと、すみれはしばらく考えた後に言った。


「…やっぱりアカン」


すみれは何歩か進み、俺から離れた。それだけ俺たちのあいだには心の距離が空いてしまったのかと思えてしまい、一気に気持ちが重くなる。
やはり今日一日で解決するには早かった、と諦めかけた時、すみれの足が止まった。


「キスしてくれたら許します。今ここで」


彼女の言葉が幻聴のように聞こえたのは今俺たちの間に数歩分の距離があるから、あるいは信じられないほど寛容なすみれに感動してしまったからか。
王女は心まで美しい。母親がアンドロメダの美しさを自慢するのも無理はない、俺だって大声で自慢したいくらいなのだから。
唇が重なる前にもう一度ゴメンと謝ると、すみれはゆっくり首を振って目を閉じた。

いつか今夜の出来事が
星のように瞬くでしょう