07


完全にやってしまった。「自分が100パーセント悪い」という状況に陥ったのは久しぶりだ。元々俺は佐々木さんとあそこまで密着するつもりなんか無く、大学の同期何人かと話ができればそれで良いと思っていた。もちろん両隣に座っていたのは男だし、ちょうどいいところでお暇しようとも思っていた。
…が、その前に佐々木さんが空いた隣にやってきて、タイミング悪くすみれからの電話が鳴り、運悪く佐々木さんの指が携帯電話の画面に触れ、このような事になってしまった。

と、タイミングや運が悪かったという事にしているけれども、俺がはっきり「行かない」と断っておけば良かったのだ。断れなかったにしても、すみれには「大学の集まりで遅くなる」と一言送っておけば電話だって来なかっただろう。許されるなら今日をやり直したいが、もう遅い。


『急に切ってごめんな』


店を出てから急いで打ち込んだメッセージはすぐに既読になった。


『べつにいいです』


返ってきた返事はやはり不穏なものだった。すみれがこんなに素っ気ない返答をするのは初めての事だ。


『電話できる?』
『電話やないと駄目ですか?』


俺に似てきてしまったのか、咄嗟の切り返しが鋭くて彼女を落ち着かせる方法が見当たらない。直接話すのが手っ取り早いだろうと、電話をかけてみる事にした。

最悪の場合電話は無視されてしまうかも知れないと思ったが、すみれはすぐに応答してくれた。…ただしとても不機嫌そうな声で。


『…はい。』
「もしもし。あんな、さっき」
『何です?』
「騒がしい電話してもうたなって思って…」


だから謝ろうと思って電話した。勿論さっきの電話がざわついた店内だった事なんて大した事ではなく、何故あの場所に居たのかという事や、何故俺の携帯電話を他の女性が触っていたのか、という事を。


『…それだけですか?』
「え?」
『私に言うこと』
「……いや」


しかしどこから説明すればいいのやら。いや、何から謝れば良いのやら分からない。
俺はとても面倒な性格で、全てにおいて順序を追って話したがってしまうのだ。そのくせに今は頭がこんがらがって上手く話せず、すみれが先に苛々した様子で口を開いた。


『私には早よ帰れって言うくせに、自分は女の子と遊ぶんですか』


びっくりした。すみれからこんな言葉を言われるなんて。そして、こんな風に思わせてしまっていたなんて。


「そ…それは違うやろ」
『どう違うんです?』
「女と遊んどったわけちゃうし」
『ほんならあの電話は何やったんですか』


そこで口を噤んでしまったのが間違いだったかも知れない。俺には一切の悪気なんて無かったけれども、あの状況を招いてしまったのは俺自身だから。弁解の余地はない。だが誤解である。それを解くにはどうすればいい。このまま口で説明しても聞いてもらえるだろうか?黙り込んだまま考え込んでしまった結果、その沈黙をすみれは当然良く思わなかったようで。


『…めっちゃ気ィ悪いですわ』


まるで別人のような低い声でそう言うと、今度はすみれから電話を切られてしまった。





進学すれば交遊の幅が広がってしまう事を分かってはいたが、すみれに不安を持たせないようにしておけば大丈夫だと思い込んでいた。どのような行為が彼女を傷つけることになるのか、分からなかったわけでは無いのに。


「直接謝るんが一番やんなあ…」


日が開けてからも、すみれからも俺からも連絡を取り合う事は無かった。下手に何かを送るよりも顔を見て話すのが良いと考えたからだ。

そうして俺は翌日の夕方、足を運んできたのである。稲荷崎高校へ。
しかし天文部の部室がどこかなんて知らないし、俺がいきなり訪ねたところで良い結果が得られるとは思えない。だから俺の行く場所は男子バレーボール部、の体育館の外であった。知っている誰かの顔を見て安心したかったのかもしれない。


「あ」


とてもいい所に、とてもいいやつが体育館から出てきた。角名倫太郎だ。俺の姿を見つけた角名は切れ長の目を少し縦に開いて近付いてきた。


「…来てもうた。邪魔やった?」
「そんな事ないですよ、もちろん…浮かない顔してますね」


過去に俺の浮いた顔を見せた事があるかは定かじゃないが、少なくとも今日の俺は「浮かない」顔をしているらしい。自覚はある。頭がずしりと重いのだ。色んな気持ちが溢れているせいで。


「角名って、彼女と喧嘩した事ある?」


後輩にこんな質問をする日が来るとは思わなかった。角名のほうも俺からこんな質問をされるとは思わなかっただろうけど。


「…ついに喧嘩したんですか」
「しかも俺の有責」
「え、うそ」
「情けないけどマジやで」


それを聞いた角名は何故か感心したような声をあげた。俺が人並みに誰かと喧嘩をしているのが珍しいのかも知れない。そして、すみれが誰かに怒るだなんて考えられなかったのかも。


「白石さんの怒ってるとこ、想像できませんけどね…」
「せやろ。…まあ俺が悪いねんけど」
「いったいどうしたんですか?」


そこまで聞かれて、角名に全てを打ち明けたいという気持ちと、二人の問題だから黙っておくべきだという気持ちが生まれた。
俺が角名にどう思われようと構わないが、下手な事をして角名からすみれへの見方まで変わるのは避けたい。


「…まあ…また言うわ。練習戻っといて」
「はあ…はい」


結果的に角名に話すのは辞めにした。話すにしても全部解決してからにしよう。今の状態で第三者を巻き込むのは良くない事だ。

角名は部室かどこかに用があったらしく、そのまま体育館へは戻らずに歩いて行った。
その場でひとりになった俺は、体育館から聞こえてくる懐かしい音だけに耳を済ませながら考えた。ここまで来たはいいが、どうしよう。わざわざ部活中のすみれを呼び出す?それは良くない。彼女の部活が終わるまで待つ?ここで?それは邪魔だろうな、きっと。
やっぱり無計画に押しかけたのは失敗だったかと思っていた、その時。


「小田くんその本どうしたん!?」


すみれの声が耳に飛び込んできた。
「飛び込んできた」と言っても少し距離のある場所から、かすかに聞こえただけなのだが。思わず顔を上げてあたりを見渡すと、体育館の角を曲がったところに人影が見えた。


「見た事ないわあ、凄いなあ」
「学校の図書室にありましたよ」
「へえ、知らんかった」


紛れもないすみれの声だ。久しぶりに聞く彼女の楽しそうな声色だが間違いない。
しかし一気に気分が落ちてしまったのは、会話の相手が新一年生の男だったから。


「勉強熱心やねんなあ、見習わんと」
「いやあ…」


その「小田くん」はすみれがやたらと褒めるのを光栄に感じているのか、照れくさそうな笑いが聞こえた。


「俺ももうちょい白石先輩を見習わんとあきませんわ」
「そう?」
「先輩いっつも真面目に望遠鏡覗いてるでしょ」
「そらぁ、好きやもん」


そらぁ、すみれは一人の時からずっとその場所で天体観測しとったんやからな、自分は知らんやろうけど。
…と、三歳も年下の男に心の中で張り合う情けない俺が顔を出し始めた。


「好きやからって続けんの、凄いですよねえ」


一年生の小田くんが、どんな気持ちでその言葉を発したのかは分からない。いくら好きな事でも毎日続けるのは凄いですよね、という意味だろう、しかしすみれの耳には別の意味で聞こえたらしい。


「…けど、好きやからこそシンドイ事ってあるで」


ぼんやりとした声だった。俺には分かった。好きだからこそシンドイ、が指す本当の意味が。
けれど小田くんには当然分からなかったらしく、不思議そうに唸るのが聞こえた。


「…あ!?いや、これは望遠鏡とか関係ない話やねんけどっ」
「なんか悩み事ですか」
「いや…」


すみれは口を噤んだ。勝手だけれどとてもホッとした。俺は俺たちのことを角名に話さず黙っておいたのに、すみれがペラペラと喋ってしまったらショックだからだ。


「俺で良かったら聞きますけど」


それなのに、その小田くんという少年はすみれから話を聞き出そうとする。
途端に苛々が溢れてきたのは「恋人同士の話」を他人に漏らそうとしているからか、その相手が男だからか。そしてその男、小田くんがすみれに寄り添うようにしているのを見てしまったからか。気になって顔を覗かせたのが間違いだったかも知れない。それを見た時に俺は全ての理性が吹っ飛んでしまったのだ。


「話したほうが楽かもですよ」
「…う、うん。ありがとう、でも」
「何してんの?」


気付いたら俺は、せっかく体育館の影に隠れていた自分の姿をさらけ出して二人の高校生の前に立っていた。
彼らの驚いた様子を見ても、まだ俺は動揺しない。どうやら頭に血が昇っている。


「……し…信介…くん」
「ちょっと部長借りてええか?」
「え?あ、はい…?」


一年生の小田くんには申し訳無さと同じくらいの苛立ちを感じたが、俺が後者のほうをぶつける前に彼は空気を察したようだ。部室戻っときますね、と一言置いて静かに去って行った。
その利口な歳下を見ても、俺はまだ冷静にはなれなかった。


「ちょ、信介くん?なんで」
「今は部活中やんな」
「…?え」


すみれの動きがぴたりと止まった。俺の怒りを察知してしまったのだと思う。俺は怒っている、とても。すみれに、あの一年生男子に、そして自分にも、佐々木さんにも、全ての事に。


「なに二人でニコニコ雑談しとんの?」
「……?それは」
「何しに部活やってんねん」


こんな事を部外者の俺が言うなんておかしいと、普段の俺なら簡単に分かる事だった。けれど最近の俺は理性を欠いていたのだ。


「真面目にやらんのやったら辞めたら?」


すみれにとって恐らく一番言われたくないであろう言葉を、俺は的確に言ってのけた。少しの戸惑いも持たず。
俺はいつだって真面目で居たし、サークルだってずっと断って来たし、飲み会なんか乗り気じゃ無かったし、隣に佐々木さんが座るなんて思わなかったのだから。
色んなことが起こる度に俺はすみれの事を考えて、どうするのが良いだろうかと頭を悩ませて、それで選択した結果が誤っていただけなのに。わざわざ帰りに母校に寄ってまで、何故自分の彼女と他の男が楽しそうに雑談するのを聞かされなければならないのか?


「…なんそれ」
「そのまんまの意味やろ」
「なんやねんそれ!?」


すみれが負けじと声を張り上げる。それが更に俺の神経を逆撫でする事になるなんて、誰にも予想できない事だった。


「信介くんやっておっそい時間まで女の人と遊んでるくせに!何で私ばっかりそんなん言われなあかんの!?」
「何回も言わすなや、すみれは女の子やねんから気を付けろって意味やろ」
「そんなん関係無いわ、じゃあ男の信介くんは遅くまで女遊びしてもええって事ですか!」
「俺がいつ女遊びなんかしてん!?」


びりびりと耳に響いたのは自分の声。
そこで俺はやっと事の重大さに気付いた。どうせなら最後まで頭に血が登ったままなら良かったのに、みるみるうちに血の気が引いていくのを感じる。が、すみれはまだまだ収まらない。


「……まわりに綺麗な人いっぱいおるんでしょ、私より。やから大人っぽい人と一緒に居てるほうが楽しいんやろ」
「そんな事言うてない」
「あんな電話されてそう思わんほうがおかしいやん!何で信介くんの電話、ほかの人が触ってんの!?わたしやって勝手に触った事無いやんか!」


すみれは一気にそこまで捲し立てると、げほっと一度咳き込んだ。きっと過去にもこんなに大声で怒鳴った事が無いのだ。
俺が持っているはずの、俺が出るはずの電話に知らない女性が出て、周りからは楽しそうな声が聞こえて、いつも直帰していたはずの俺がそこに居る。電話の相手が俺の彼女だと知りながら、 俺の電話を使ってすみれへ話しかけた佐々木さん。
そこに悪意があったのかは分からない。佐々木さんは酔っていたから。

でも、明らかに酔った女が俺の隣に居て、俺の電話を使っていたという事実だけですみれをどんな気持ちにさせたのか、今になって分かってしまった。


「…女の人に誘われてんの黙ってるし、知らん間に飲み会みたいなん行ってるし」
「……それは…」


体温がぐんと下がった俺にはもう返す言葉が見つからない。自分の放った取り返しのつかない言葉だけが頭の中で繰り返される。すみれは何も言わない俺を見て静かに首を振った。


「帰って下さい」


落ち着いて考えれば分かる事でも、焦った時には簡単に判断を誤る。
それはどんなに注意深く真面目に生きてきた俺にだって起こり得る。
あの時ああしていれば良かった、こうしていれば結果は違ったと後悔した時にはもう遅い。すみれをここまで怒らせて悲しませてやっと後悔するなんて、俺はどこからやり直せばいいんだ。

ヒズム・イズム