03


間もなくゴールデンウィークに差し掛かる。大学のキャンパスへ通う電車にも乗り慣れて、どの時間帯にどの車両が比較的混んでいるのか空いているのか、なんとなく頭に入ってきた。

三ノ宮で乗り換える時には人の乗り降りが激しいが、運良く座れた時には決まって携帯電話をポケットから取り出す。この俺が、移動の時間に読書や勉強ではなく携帯電話を触るとは。
たったひとりの女の子の存在が、これまでの俺というものを覆すんだから驚きだ。


『おはよう』


そのように送信した今の時刻は朝の8時。すみれもちょうど満員電車に揺られている頃だろうか。すみれは朝が苦手だから、いつもギリギリになってしまうのだと苦笑いしていた。

駅から学校までは早歩き、あるいは走るお陰で、春になると学校に着く頃には汗だくになるらしい。俺なら余裕を持って行動するけれども、すみれのそういうところも人間らしくて良いじゃないかと思うので、特に咎めることは無い。急ぎ過ぎて怪我をしないように、と注意するくらいにしている。

そんな慌てんぼうのすみれなので、落ち着いて携帯電話を開く暇は無いだろうなと思っていたが。


『おはようございます!』


と、すみれからはすぐに返事が返ってきた。朝の通学時間に返事が来るのは珍しい。電車に乗り遅れたか、はたまた体調でも崩してベッドの中に居るとか?それにしては元気な返事である。
どうしたんだろうと考えていると、すみれから続けてメッセージが来た。


『部室もらえました!』


それと一緒に、とある教室の写真が送られてきた。窓の外には太陽の光、写りこんでいる壁の時計は時刻8時を指している。この写真は今撮影されたもの、という事は彼女は既に学校に居るのか。


『えらい早いやん』
『張り切っちゃいました!部室の改装したくて』
『同好会って、部室貰えるんやったっけ?』


去年までひとりで活動していたすみれに部室は与えられていなかった。泥棒に入られた倉庫の片隅に望遠鏡を置かせて貰っていたのみだ。


『人数が増えたんで部活動にしてもらえたんです!いま望遠鏡置いてる部屋、そのまんま使っていいって言われました』


なるほどなぁ、と一人で頷く。そこでもう一枚の新たな写真が送信されてきた。部室の中で何名かの生徒が並んでピースしているようだ。


『新しい仲間です!』


新しい天文同好会…いや天文部の仲間、らしい。
すみれの企画する部活に入ってくれた新一年生の顔を、俺は感謝を持って順番に眺めた。が、ある一人の生徒を見たときに、画面をスライドさせる指が止まる。


「…男おるんかい」


その新しい仲間とやらの中に一名の男子生徒が。いや、他にも女子の新メンバーが居る事だし。すみれは高校三年生、新一年生とは歳がふたつも離れているし。でもこれまで一緒に天体望遠鏡を覗く男は俺だけだったはずなのに。
…なんて、そんな大人気ないことを考えるとは一体どうした事か。危うく電車を乗り過ごしてしまうところだった。





「北くーん、オーハーヨ!」


無事に降りるべき駅で降車して歩いていると、後ろから聞き覚えのある声。春の陽気にぴったりの元気で明るい声は振り向かずとも誰のものか分かる。そして、俺に何の用があって声を掛けてきたのかも。


「…おはよ」
「今日バレーの練習あんねんけど、来おへん?」


大学で知り合った佐々木さんは、俺がバレー部だったのを知ってから何度も練習に誘ってきている。バレーボールサークルのマネージャーをしているらしく、彼女の兄もメンバーらしい。俺はこれまで何度も何度も遠慮しているが、佐々木さんはお構い無しで誘ってくるのだった。


「懲りひんなあ。断ってるやろ」
「しつこいのがウリやで。それに北くん、何回も誘うたら絶対いつか来てくれそうやもん」
「行かへんて…」


そこまで親しくない女の子からの誘いをきっぱり断るのは難しい。あまり強い言葉を使って傷付けてはいけないし、これから四年間も同じ大学に通う仲間なのだ。だからこそ扱いに困る。
どうしたもんかと頭を悩ませているとポケットから振動を感じた、すみれからメールが来たようだ。


「誰?カノジョ?」
「うわっ、…ちょお、覗かんとってくれる?」
「見えたんやもん。…すみれちゃんて言うんや?可愛い名前やなぁ」
「……」


佐々木さんはとても目が良いらしい。一瞬だけ画面に表れたすみれの名前がしっかり見えていたようだ。
そして、携帯電話から目を離すと今度は俺の顔をじっと見ている。俺たちの間にはある一定の距離が保たれているとはいえ、佐々木さんの目力は凄まじい。彼女が何を言いたいのかが、目を見るだけで伝わってくるのだ。


「…そんなに来て欲しいん?」
「最初からそう言うてるやん。女は私を入れて三人だけやで?あとは男。それならすみれちゃんも安心やろ」
「そういう話ちゃうねんけど…」
「あんた、そういうの気にする人やろ?」


佐々木さんはにやりと笑ってみせた。強引なだけの女の子かと思ったが、意外と気が利くところはあるらしい。
今日は両親ともに帰宅が早いし、俺が急いで帰らなくても祖母は安心だ。ここまで何度も誘ってくれた事だし、女子は多くないからと言うし、一度くらい顔を出してみても良いか?





夕方、サークルの参加メンバーが集まるまで勉強をして時間を潰し、全員集まったところで早速練習は始まった。

てっきり軽く楽しむ程度かと思いきや中学高校とバレー部だった人が多く、けっこう本格的。聞くところによると部活動として勝ちに向けて堅苦しく練習するよりも、やりたいようにプレーできるサークルのほうが伸び伸びと楽しめるので良いのだそうだ。
それはそれで納得できる気もする。実際俺も今、何のしがらみも無く参加するのは清々しい気がした。


「どーお、久しぶりに身体動かすんは!」


無理やり誘った手前なのか、佐々木さんは時々俺の様子を気にしているようだった。


「…ちょっとスッキリした。」
「やろ?」
「けどやっぱり俺はええわ」
「えっ!」


佐々木さんのよく通る声が響く。俺が比較的楽しそうに参加しているのに、まさか断られるなんて思わなかったのだろう。

面倒見のいい彼女はサークルの中でも人気者のようで、まだ一年生だと言うのに先輩たちとも打ち解けている。それはすごいと思うし頼ってくれるなら力になりたいとも思うが(彼女の兄にも頼まれたし)、やはり正規のメンバーになろうとは思えなかった。元から「大学ではバレーボールはやらない」と決めていたから。


「なんでなんで、なんでアカンの」
「大学では学業優先したいねん」
「彼女おんのに?」
「彼女は別やろ」
「サークルも別やん?」
「あのなあ…」


自分で「しつこいのがウリ」と言っていたとおり、なかなか引き下がらない。でも俺が今日ここまで断った成果が出たのか、佐々木さんはふぅと溜息をついた。


「…まぁええわ。もしまたやりたくなったら言うてな!いつでも待ってるし」
「うん」


俺から「交ぜてくれ」と声を掛けることは無いだろうけど。というのは言わずに、佐々木さんと他の人に礼を言って足早に体育館を出た。
汗をかいたからか、風が当たると少し肌寒い。空はもう暗いので気温も下がっているのだろう。


「こんな時間か…」


電車に乗って時計を見れば、普段なら 家に着いている時間だった。
そこでふと、すみれはちゃんと帰っているだろうか?と言うのが気になって携帯電話の画面を点けると不在着信が。すみれから二時間ほど前に着信があったようだ。


「もしもし?お疲れ」
『あ、お疲れ様です。何かしてたんですか?』


駅について電車を降り、遅ればせながら折り返し電話をするとすみれはすぐに出てくれた。
そして、普段なら授業中等で無い限りすぐに連絡を返す俺が二時間遅れの電話をしたのをすみれは疑問に感じていたらしい。


「まぁ、ちょっと…それよりもう家帰ってるか?」
『もうすぐ帰るとこです』
「……まだ学校?」
『はい』


思わず声が大きくなってしまった。当然この時間なら下校済みだと思ったのだ。


「もう7時過ぎてるやん」
『ほんまですよね、いつの間にか』
「ほんまですよねちゃうわ、俺近くに居てるからそっち行くで」
『え、でも』
「学校から出なや。また後で」


幸い俺の家から稲荷崎高校までは近い。が、稲荷崎からすみれの家まではあまり近くない。学校の周りも栄えているとは言いがたく、夜になると人通りはそこまで多くない。
それが分かっているのに、俺がいつもさんざん言っているのにどうして遅くまで残ってしまうのか?普段あまりしつこく言わないようにしている事だけど、やっぱり理解に苦しんでしまうのだった。


『下駄箱んとこ居ます』


先程の電話で俺が少し怒っているのを勘づいたのだろうか、すみれからはこのようなメールが来ていた。
学校に到着し、三年間通った敷地内を歩いていくと、既に真っ暗になった下駄箱に人影がひとつ。


「すみれ」
「あ、信介く」
「なんでこんな時間まで残ってん?」


こんばんは、お疲れ様、そんな挨拶はそっちのけでついついこんな言葉が出てしまった。すみれはぴくりと顔を強ばらせて、ゆっくりと視線を落とす。ついでに声のトーンもどんどん落ちていった。


「…や、色々しとったらいつの間にか遅なってて…」
「一年生は?」
「先に帰らしてます…5時過ぎに」
「ひとりで何やっててん」
「部室の片付けとか…掃除とか」


やっと与えてもらった部室。人数が増えたことで部活動として認めてもらう事が出来、すみれは時間を忘れて作業をしていたようだ。


「……ごめんなさい」


すみれが明らかに落ち込んだ様子で謝った。その声を聞いて俺もやっと心が落ち着いて、少しだけ冷静になることが出来た。俺の気持ちを笑ってもらいたいけれど、彼女の気持ちも分かるから。


「いや、謝る事ちゃうねんけど…俺がここまで言うんもオカシイけど」
「そんな事ないです」
「ごめんな」
「謝らんとって下さい」


すみれが慌てて言うのを聞いて、いつだったかすみれに「北先輩は謝りすぎ」と笑われたのを思い出す。


「私、新しい人入ってくれたんが嬉しくて…アレもこれもやらなって思ってたら、時間足りひんくて」
「やから朝も早かったんか?」
「…はい」
「はあ……」


楽しくて楽しくて仕方がないのだと思う。今まですみれの天体観測に付き合っていたのは家族以外に俺だけだったのに、後輩が増えたものだから。
だから、あまり強く言いたくはない。けれど新しく入った後輩の中に男が居るなんて今朝初めて知ったし。もしもそいつと二人きりで残っていたらとか、一人だったとしても帰り道で何かがあったら?とか。


「あんな、悪い事ちゃうねんで。そこまで頑張んのは凄い事やけど」
「うん…」
「すみれは女の子やねんから」
「…うん」
「あんま心配させんといてくれ」


何かあったら俺が護ってやりたいと思っても、遠くに居ては助ける事ができない。俺はもうここの生徒じゃなく、何駅も離れた大学に通っているのだ。会いたいと思った時、すぐに会うのは難しい。俺が過保護過ぎるのかも知れないのは重々承知であるけれど。
それでもすみれは小さく頷き、はい、と返事をしてくれた。


「ほんなら帰るか」


俺も頭を切り替えなくては、説教じみた事ばかりしたくはないから。嫌われるのだって御免だし、彼女に向かって偉そうに接客してしまう自分を客観的に見ると非常に情けない。


「信介くん」


歩き始めた俺の後ろで、すみれが俺の名前を呼んだ。


「…好き。」


振り向くのと同時に、さっきよりももっと小さな声ですみれが言った。
自信が無さそうに聞こえるのは気のせいじゃない筈だ。俺がこんなふうに怒ってしまった時には、決まってすみれは小さな声で「好き」と言う。「好きだから許して、嫌いにならないで」とでも言いたげに。

それを聞くと俺は余計に罪悪感に襲われるのだった。嫌いになんかなるわけがないのに、不安にさせたくて怒るわけじゃないのに。


「俺も好きやで」
「ん」
「好きやからウルサくしてまうねん」
「わかってます」
「ごめんな」
「ええですって…」


謝りすぎですよ、信介くん。すみれがやっと笑ってくれたおかげで俺も心が軽くなった。また「ごめん」と言うと同じ事の繰り返しになってしまうので、お詫びを込めてキスするとすみれは元気を取り戻したようだ。


「帰ろか」
「はい」


俺は今日、やらないやらないと言っていたバレーボールのサークルに参加してきたけれど。すみれの天文同好会、いや、天文部に男が入ってきたと知ってしまったけれど。そんな問題はひとまず忘れる事にして、手を繋いで歩く幸せなひとときに集中する事にした。

鮮やかなまでの
正論を蔑んで