October 27th , Saturday
高校三年生になると、受験だ進路だという話題でもちきりだ。
特に白鳥沢は県内屈指の進学校で、よく入試に合格できたもんだと我ながら鼻が高い。でも周りのレベルも高いので、入学してからはいっそう勉強に励むようになった。
そんなふうに勉強ばかりしていたら知らないうちに三年生の秋になっていて、白鳥沢を受けた三年前と同じように胃痛と戦う日々がやって来たのである。
『明日、待ってますね』
10月26日、金曜日。午後の授業が終わったタイミングで携帯電話を開くと、ある男の子からメッセージが届いていた。
彼の名前は川西太一、ひとつ年下の男の子。
男子バレー部に所属している川西くんは、一学期の体育委員が一緒だった。偶然同じ日にプール掃除の当番をしたときに会話をしたのがきっかけで、時々話すようになり、いつだったか連絡先を聞かれたのだ。
「おめでとー…っと」
わたしは川西くんへの返事を入力した。昨日から行われている春高バレーの県予選に、白鳥沢のバレー部も出場している。昨日の試合は問題無く勝利し、今日も彼から送られたトーナメント表の写真を見ると相手チームとは2−0で勝利していた。つまり明日が決勝だ。
「…明日かあ」
本当に行く事になるなんてなあ。
試合を観にきてくれないかと何度か誘われたけれども、上手く日程の合う日が無かったのだ。今回の県予選だって、木曜日から土曜日までの三日間で行われるもんだから平日は授業で観に行けない。白鳥沢が決勝に残った場合のみ、土曜日に行われる決勝戦だけは観に行く事ができる。
「勝ち進んだらだよね?」と伝えたところ彼は切れ長の目に光を宿して答えた、「進みます」と。
◇
そうして満を持して応援に行った10月27日は、わたしにとっても川西くんにとっても忘れられない一日となる。
ここ数年必ず決勝リーグへ進み、優勝を決めて全国大会に出場していた白鳥沢の敗北を誰が予測できたのだろうか。
負けが決まった瞬間の体育館の空気が耐えられなかった。今すぐここから逃げ出したいとさえ思ったけれど、もしかして一番消えたいのは試合に出ていた本人たちかも知れないから。
「すみれ、これからどうする?」
「え…えっと」
「閉会式見てく?」
一緒に見に来た同級生の友人は、負けてしまったからかテンションが落ちていた。彼女だけでなく他の生徒も、そしてわたしも。誰一人元気な人間など居ない。
相手チームの応援団の盛り上がる声だけが響く体育館からは早く立ち去りたかったけれど。
「見る」
最後まで試合を戦い抜いた我が校のバレー部を、閉会式まで見届けようと思う。友人は、そっか、と頷くと足元に置いた荷物を持って立ち上がった。
「…わかった。わたしもう行くね、親が迎えに来てる」
「うん…うん」
「残念だったね…」
わたしがバレー部の男の子に誘われて観に来たことを知る彼女は、わたしの肩を優しく叩いて帰っていった。
背番号12番を身につけて、白鳥沢学園の中でも牛島くんと同じくらい背の高い彼。その活躍ぶりは素晴らしかった。
ルールをすべて理解していないわたしでも、川西くんが点を決めるたびに声を上げて喜んだし、相手に点を決められるたびに唇を噛んだ。それでも最後には勝つだろうと信じていたのに、残酷にもどちらかは敗北から逃れる事が出来ないのだ。
閉会式、それはそれは苦痛であった。コートに立つ白鳥沢の選手たちは、悔しがっている人もいれば「やり切った」と清々しい表情の人もいる。
川西くんはいつもの通りあまり表情筋が動いていなくて、遠い二階席からでは彼の気持ちを読み取ることが出来ない。もっと近くで会いたい。そして労いたい。
閉会式の終了と同時に立ち上がり、選手の出てくる出入り口まで急いで階段を駆け下りる。
川西くんがすぐに出てくるとは限らないし、果たして観客が下の階をうろついても良いのか分からないけど、とにかく川西くんに会わなければと思ったのだ。
「あ、」
神様がどこかで見ていたのだろうか。わたしが一階へ到着したとき、川西くんが階段のすぐそばに来ていた。
降りて来なければ良かったかも知れない。近くで見た川西くんの顔には、まだ涙の跡が残っているように見えたから。でも今は涙を流すことなく、いつもわたしの前で見せるひょうひょうとした態度であった。
「…白石さん。こんにちは」
「こんにちは…あの…あの」
でも、普段の川西くんとはやっぱり違う。あと一回勝てば全国、という試合で負けたんだから当たり前だ。そしてわたしはその瞬間を見ていた。川西くんがどうしても観に来て欲しいと言ったので、今日は応援に来たのだ。
わたしはずっと川西くんの姿を目で追っていた。ボールを見るか川西くんを見るか、のどちらかだったと言っても過言ではない。
「試合見た」
5セットの間ずっと見てたよ。と、いう意味を込めて伝えると、川西くんは笑いもせず驚きもせず、また悲しみの表情も見せずに言った。
「…ありがとうございました」
わたしよりもうんと高い位置にある小さな頭が、ぺこりと下げられる。観客席では分からなかった彼の気持ちは、近くに来れば痛いほどに伝わった。
「川西くんの事、上からでもよく分かったよ。すごく目立ってたし」
「はは…目立ってました?」
「うん、何回も川西くんが点取ったのが見えた。かっこよかったよ」
あなたは精一杯やった、素晴らしい活躍だった。わたしはちゃんと川西くんのことを見ていた。だから悲しまないで欲しい。今は悔しいだろうけど、なるべく早く次に向かって欲しい。
「…かっこよかったですか?」
「うん」
後輩である川西くんのことは今まで何とも思わなかったけど、今日初めてかっこいいと感じた。
あの川西くんがコートの中を所狭しと駆けて、力の限りジャンプして、伸ばせる限り腕を伸ばし、出せる限りの声を出す。そんな姿を見て「かっこいい」と思わないはずが無い。
しかし、健闘をたたえて言ったつもりの言葉だけれど川西くんの表情は曇っていた。
「…あの。白石さん、無理しなくていいんですよ」
「え…」
「俺たち負けちゃったから、気ィ遣ってくれてるんですよね」
「そういうんじゃないけど、」
「なんかもう…すんません。色々と」
川西くんはまた、頭を下げた。わたしよりも背の高い彼が頭を下げれば、その顔は私の位置からしっかりと見える。苦しそうだ。そして、悔しそう。悲しそう。どうしようもなく。
「…すみません」
川西くんはもう一度謝った。わたしは彼に謝られる事なんて何も無い。それなのに川西くんは、すみません、と何度も呟く。
「何が…?」
苦しそうに謝罪を続ける川西くんへ聞いてみると、彼は少しだけ折り曲げていた身体を起こした。そして、様子を伺うわたしと目を合わせる。
いつもなら川西くんはわたしと目が合えば、無表情ながらもちょっと嬉しそうなオーラを放つのだけれども。今日は違った。
「無理やり誘ったくせに、カッコ悪い試合見せちゃいました」
今の川西くんは笑っている。とても悲しそうに。声がどこかに引っかかって、苦しそうに。
「…川西くん」
「時間作ってもらったのに。ごめんなさい」
「そんなの良いってば」
「じゃあ俺、もう行かなきゃなんで…」
わたしの横をすり抜けて、去ろうとする川西くんからは汗のにおいがした。そんなに汗びっしょりになって、精一杯試合をして、負けたからってわたしに謝る必要がある?
「待ってよ!」
去りゆく川西くんの背中へ向けて叫ぶと、彼は振り返らずに立ち止まった。しばらく待ってもそのままなので、振り返る気は無いのだと理解した。それならそれでいい。でも言わせてほしい。
「カッコ悪いなんて思ってないよ私、ていうか誰も思ってないよ。今日ここに居た人、誰も」
だからそんなに悲しそうな顔して謝るのやめて、自分の事をカッコ悪いなんて言わないで。堂々と胸を張ってほしい。
「白石さん、優しいっすね」
「そういうのじゃないってば」
「でも今、それが一番辛いんで」
きゅ、と川西くんのシューズが床と擦れる音がする。片足を半歩後ろに出して、川西くんがわたしと目を合わせた。
しかしその目には、今度は悔しさ・悲しさ・辛さのほかに憤りが混じっているかに見える。はっとした時にはもう遅く、川西くんは小さな口を開いて言った。
「俺が俺を許せないんです。だからそういう言葉かけられると、すげえ辛いんで…」
わたしは言葉を返せない。何も言わないわたしにもう一度会釈をして、川西くんはポツリと言った。
「…じゃ。行きます」
そのまま行かないで、わたしはそんな事が言いたかったんじゃなくて、そういう意味で言ったんじゃないのに。
わたしのかけた言葉は川西くんにとって、気休めでも何でもないただの侮辱になってしまったのだろう。でも、それならなんと言うのが適切だったんだ。正解なんてこの世にあるの?もしもわたしが「誘ってくれてありがとう」と言ったって、川西くんは悲しい顔をしたに違いない。何を言っても今は無理なんだ。
白鳥沢学園のバレー部は、県予選の決勝で負けた。あと一歩のところで。選手たちがそれを冷静に受け止めるには、まだ到底無理なのだ。