November 16th , Friday


あれから天童くんがわたしに話しかけてくることが無くなった。
すみれちゃん、すみれちゃんと呼んでくれる声を聞かなくなって半月ほど、わたしは無事に希望していた県内の大学から合格通知を受け取ることが出来た。
親からも友達からも「おめでとう」と祝いの言葉を受ける中、天童くんからは何もない。彼も彼でどこかの大学の推薦を受けるらしく、急ピッチで進学の用意を進めていると他人伝いに聞いた。

やっぱり大学には行くんだ。どこの大学なんだろう。

以前の関係ならば軽く質問できたのに、今は怖くて話しかけられない。「そこまで踏み込んでくんの、気分悪い」と、また言われてしまったら?関係ないじゃん、って突き放されているような気分だった。
確かにわたしには関係の無い事なんだけど、でも、天童くんとは仲良く出来ていると思っていたのに。天童くんのこと、好きだったのに。


「白石ー」
「!」


先生に名前を呼ばれて我に返った。
今は授業中で教室内はしんと静まり返っており、そのせいで余計に先生から呼ばれたわたしに注目が集まっている。でも天童くんがどちらを向いているのかまでは、確認できない。


「ボーっとしてんなよ」
「……すみません…」


先生からの言葉は最もだったし、普段あまり怒られた事のないわたしはこれだけでも充分に落ち込んだ。まさか自分が、これまで真面目を貫いてきた自分が授業中に他の事に気を取られるなんて。
それだけじゃない。周りのクラスメートからの視線にも、ちくちくと刺激されるのだ。


「受かったからって気ィ抜いてんじゃないの?」


声に出して言われたわけじゃない。誰もそこまでは思っていないかも知れない。
でも11月に入り、ひと足早く志望校合格を果たした人間と、センター試験まで残り二ヶ月の人間との間には目に見えない壁を感じられた。わたしはそんなつもりじゃない。けど、こんな時期に男の子のことで頭を悩ませているわたしは、周りから見れば脳天気な女であるに違いない。

その授業が終わり、昼休みに入ってからもわたしは今ひとつ気分が乗らないで居た。
いつもなら「すみれ、ご飯どうする?」と声を掛けてくれる友だちがわたしを避けている…ような。被害妄想であると分かっているけど。
友だちはついさっき、先生と話すために教室を出たんだから。わたしを避けて行ったわけじゃないんだし。と自分に言い聞かせて、お手洗いにでも行こうかと教室を出た時。


「…わ」
「あ、すみません。天童さん居ますか」


教室の入り口でぶつかりそうになった男の子の顔が驚くほど美しかったのと、彼の口から「天童」という言葉が出てきたのとでわたしは大パニックだ。
細く柔らかそうな、色素の薄い髪がさらりと揺れている。「天童さん」という事は下級生で、バレー部の人だろうか。


「賢二郎?どしたの」


そこへ運が良いのか悪いのか、食堂かどこかに行っていた天童くんが戻ってきた。そして、「賢二郎」くんの傍に居るわたしとほんの一瞬目が合い、どちらからともなく視線を逸らす。
賢二郎と呼ばれた男の子はそんな事には気付かずに、持っていた何かを天童くんへと差し出した。


「これ。今朝体育館に落としてました」
「え?あ」


彼の手には暗記の時に使用していると思われる赤いシート。それだけなら誰のものか分からないだろうけど、端っこにちいさな落描きと「さとり」という文字があったのを見て天童くんの物だと理解したらしい。
アリガトとお礼を言って受け取る天童くんへ、後輩の男の子は肩を落としながら言った。


「練習に来てくれるのは有り難いですけど。本業大事にしてくださいね」


そうして涼しげな表情の男の子は、天童くんと、まだその場に突っ立ったままのわたしへ会釈をして去って行った。

わたしはそこから動けなかった。天童くんの前で動くことを控えたかったのではなく、今、あの子が言った一言が気になってしまったから。天童くん、まだバレー部の練習に参加しているの?


「……天童くん…」
「…なに?」
「えっ、いや…」


天童くんの中で、終わらせた事じゃなかったの?忘れようとしていた事では?それについて意見したわたしを、あの日の天童くんは鬱陶しそうにしていたけれど。


「…はあぁ。さいてー」


元々猫背ぎみな背中を更に丸くして、天童くんが大きな溜息を吐いた。最低って、わたしのことを言っているのだろうか。


「こっち来て」
「えっ?」


が、天童くんはそれ以上何も言わず、また困惑するわたしの顔を見ることなく、動けずに居るわたしの腕を引っ掴んだ。


「て、天童くんっ」
「ウルサイ。ついてきて」


彼の言葉は刺々しい。もしかしてわたしはまた、無意識のうちに彼の嫌がる事をしてしまったのか。
脚の長さが違うのに大股で歩いていく天童くんに、小走りで付いていくのに必死であった。前を向いているせいで顔は見えない。でも、わたしの腕を掴むその手は熱い。
やがて校舎をひとつ越えて、やっと辿り着いたのは運動部の部室が入っている建物だった。


「ここ…」
「だーれも使ってないとこ。余った部室的な?」


一度も足を止めることなく到着したという事は、元々ここは誰も使用していない事を知っていたのだろう。天童くんは適当に置かれたパイプ椅子に腰を下ろすと、また大きな息を吐いた。


「ばれちった」
「え」
「俺が今でも練習行ってること」


その時、ばっちりと目が合った。天童くんが久しぶりにわたしのほうを真っ直ぐに見て話してくれたから。


「やっぱさ、無かった事になんか出来なかったよね。すみれちゃんが正しかった」
「……」
「…謝ろって思ったよ?もう何回も。でもさあ…色々、考えたらさぁ」


膝の上で両手を何度もすり合わせながら彼は言う。わたしよりも遥かに背の高い天童くんが、初めて小さく見えた瞬間であった。悲しくって辛くって、悔しかったあの日のことを思い出しているんだ。


「…俺はさあ、女の子の前では泣きたくない派の人間だし」


そのように話す天童くんの遠くを見るような目、一度は忘れようとした事が頭から離れずに苦しんでいる姿。無かった事にするなとか、忘れるなとか、そんな簡単な話ではなかったのだ。


「……天童くん…」
「ん?」
「………」
「…エッ、ちょっと」


天童くんがぎょっとして椅子をガタンと揺らせた。その音と同時に、たらりとわたしの頬を流れる何か。それが顎まで伝ってきて、床にいくつかの染みを作る。その染みがどんどん増えていくのを見て天童くんはついに立ち上がった。


「何?なんで泣いてんの!?」
「だ、って、だってぇ」


泣こうと思って泣いてるんじゃない。天童くんの姿を見ていたら勝手に涙が出てきただけである。そして、それを自分の力で制御できないだけ。


「顔ぐっしゃぐしゃだよもう、どうしたの」
「ちが、いいのっ!わたしの顔は」
「良くないっしょ」
「いいもん!良くないのは天童くんだもん」
「俺?」
「天童くんが泣かないから」
「……俺が?」


今までどんな事があったって、試合に負けた日にだって、ひとつも涙を見せなかった天童くん。強がりなのか何なのか、無理やり忘れて前に進もうとする痛々しい姿を見せられて、素直に泣いたり悔しがったら良いじゃんかって思ったけど、そんな単純な事じゃない。
でも涙ひとつ見せずに、心にもない事を述べる彼の姿はわたしの心を痛めつけた。


「天童くん、ぜんぜん泣かないじゃんかっ!今にも泣きそうな目してるくせにっ、無かった事にするとか言うし!」


無かった事にするなんて、出来やしないくせに。今でもバレー部の練習に行ってるくせに。大好きで大好きで忘れられないくせに。
天童くんは全然泣かない。わたしは天童くんにとって、少なからず友達以上のちょっと特別な存在なのだと思っていたのに。悩んだり悲しんだりする弱い姿ひとつ打ち明けてくれないなんて。それが強さなのか。男の子なのか。じゃあ天童くんはそれでいい、天童くんが泣かないならわたしが泣いてやる。


「だからっ代わりに泣いてんの!!文句ある!?」
「……ないです…」


派手にしゃくりあげるわたしを見て、天童くんは引いてしまっただろうか。
でも、なり振り構っていられない。さっきの授業中にボンヤリしていたせいで、クラスの人には「受験戦争から一抜けして余裕ぶって」と思われたかも知れないし。天童くんはわたしを避けまくっていたし。
不満も不安も色々溜まっていたものが、いま涙と一緒に溢れているところだった。


「…ゴメンね。俺、ひどかったね」
「……っ最低、だったよ」
「そうだよね…」


下を向いて泣きじゃくるわたしの頭に、ちょっとだけ重いものが乗った。それがわしゃわしゃと動くので、天童くんがわたしを撫でてくれているのだと分かる。この間はあんなに冷たい目でわたしを見たくせに、どうしてそんなに優しいの?


「勉強、わたしだって、教えられるんだから」
「…うん。」
「他の人に頼まないで!」
「うん。すみれちゃんにお願いする」
「わたし!勉強は得意なんだからね」
「知ってるよ。ごめんね」


天童くんが笑う声がする。苦笑いとかじゃなくて、わたしを安心させてくれるような声。


「…あのね、すみれちゃん」
「もう、謝んなくていいよ…っ」
「んーん、違くて…」


頭をゆっくりと撫でていた手が、わたしの耳元へ。そして頬へと落ちてくる。親指で流れる涙をすくい、顔を上向きにされれば天童くんがじっとわたしを見下ろしていた。
その後何かを言おうとしたのだろうか、彼は少し口を開いたけれど何も言わず、またにこりと笑ってわたしを撫でた。