同じクラスの花巻貴大くん。名前の漢字に「花」が付くなんて可愛らしくて良いなって思ったのが最初のこと。笑った時に目が細くなって、くしゃっとなるのが愛らしいなって思ったのが次のこと。真剣な顔でわたしに告白してくれた声の低さにドキンとしたのが、その次のこと。
それからはずっと、わたしは貴大くんにドキドキしっぱなしの日々を送っている。


「すみれ、今日どうする?」


月曜日の放課後、貴大くんに名前を呼ばれてビックリしてしまった。教室内で突然わたしのことを下の名前で呼ぶなんて、周りの人が見たら怪しむに違いないから。


「今日練習ないからさ、どっか寄ってくかなって思って」
「ああ…うん、えっと」


貴大くんは毎週月曜だけ、バレー部の練習が休みである。その貴重な時間をわたしに費やしてくれるのはとても嬉しくて、鼻高々のはずなのに。わたしは今ひとつ貴大くんからの誘いに堂々と乗れないのだった。


「どしたの?」


しどろもどろなわたしを見て貴大くんは不思議そうにしたけれど、あ、と小さな声をあげた。
どうやら思い出したらしい。わたしたちはクラスの人たちに、付き合っていることを内緒にしているのだと。

何故わたしと貴大くんが、この関係を秘密にしているのか。
それはわたしの単なる我儘であった。貴大くんは他人に知られても構わないと言っているけど、わたしは周りに注目されるのが苦手だ。なるべく目立たないように、委員会とかクラスの出し物とか、そういうものの役割には選ばれないようにひっそりと生きてきた。
恐らくわたしは極度の恥ずかしがり屋というやつなのだ、18歳にもなって情けないけれど。


「ごめん、つい呼んじゃった」


そんなわたしの引っ込み思案なところを知っているので、貴大くんはさっき教室でわたしのファーストネームを呼んだことを詫びてくれた。こんなの周りが聞いたら変だろうなと思うけど。


「ううん、わたしこそゴメン…」
「や、俺はいいんだけどさ?誰も何も思わねえと思うけどな」


毎週月曜日だけ一緒に歩く帰り道、青城の生徒があまり通らないであろう道をわざわざ選んで歩くわたしたち。
「見られるの恥ずかしいから」というわたしの言葉に嫌な顔ひとつせず応じてくれた優しい彼が、いつわたしに愛想を尽かしてしまうか分からない。それほどわたしは勝手な事を言っている、と思ってる。分かってる。

でも、どうしても感じてしまうのだ。背が高くて明るくてこんなにも素敵な男の子が、わたしのような地味で面白みのない女子と付き合っていることが知られたら?
彼のイメージはきっと悪くなってしまうだろう。「花巻、あの子と付き合ってんの?つまんなくね?」と、誰かが言うに決まってる。その時貴大くんはこう思う、「そう言われればそうかなぁ」と。


「おい、危ないって」
「わっ」


貴大くんに腕を引かれて、突然わたしは立ち止まった。完全に気を抜いて歩いていたわたしに少し呆れた様子で、貴大くんが地面を指さしながら言う。


「そこ。犬の糞」
「あ…うわ、ほんとだ」
「踏むとこだったぞー、何ボーッとしてんの?」


いけない、せっかく貴大くんと歩いているのに暗いことばかり考えていた。わたしが勝手に抱いている劣等感を知られてはならない。馬鹿らしいと思われて、嫌われてしまうかも。
せっかく貴大くんのような人がわたしと付き合ってくれているんだから、幸せだと思わなきゃいけないのに。


「なんでもない…」


なんだか胸が苦しい。貴大くんと歩くのは心地いいはずなのに。
二人だけの秘密にしておく事が寂しくて、でも他の人に知られるのは怖い。こんなに自分勝手なわたしなんて、引く手数多の貴大くんにはいつかお荷物になってしまうんじゃ?





「白石さんって、お上品って言われない?」


それは翌週月曜日のことだった、貴大くんではない別の誰かがわたしを呼んで、このような台詞を言ったのは。


「…お上品?」


男の子の声で苗字を呼ばれて、しかも後に続く言葉が聞き慣れないものだったので、首を傾げながら繰り返す。わたしがお上品?下品とまでは思わないけれど、そんな褒め言葉を言われる覚えも無い。


「なんかアレだよな、物静かでいいじゃん」
「………」


その人は同じクラスの鈴木くんという男の子だった。鈴木くんは、きょとんとしたまま言葉に詰まるわたしの前の席へと腰を下ろす。今は放課後で、わたしの前には既に誰も座っていなかったから。


「勉強得意だよね?俺、明日の数学当てられそうでさあ…1箇所教えて欲しくって」
「え…」
「ここ!」


彼は元々持っていたらしい教科書の、応用問題の箇所を指さした。

わたしは確かにどちらかというと勉強が得意な方、だと思う。嫌いではない。けれどクラスの誰かに教えられるほどじゃないし、まして親しくもない男の子が相手なんて以ての外。
それに今日は月曜日だ。週に一度、貴大くんと一緒に放課後の時間を過ごせる日。ほら、貴大くんが同じ教室内でわたしのことを気にしているのが視界の端に映ってる。


「…ご…ごめん、わたし用事が」
「忙しいの?」
「うん…ちょっと」
「じゃー夜電話で聞いてもいい?電話番号教えるから」
「へっ、」


この場を凌げばどうにかなると思っていたけど、なんと鈴木くんは連絡先を聞いてきた。
断る決定的な理由はない。あるとすれば「貴大くんと付き合ってるから、ごめん」と言う事だけ。

でもそれは皆に内緒にしている事だ、まだ教室には十名ほどの生徒が残ってる。「え?花巻と付き合ってんの?」「釣り合わないね」そう思われるのが目に見える、「こんなに大人しい子と付き合ってて楽しい?」なんて言われるのが容易に想像できてしまう。早く上手く断って、教室から逃げ出したいのだけど。


「白石サン、黒田先生が呼んでるよ」


その時誰かがわたしを呼んだ。聞きなれた声。週に一度、わたしの隣を歩きながらにこにこ笑ってくれる人の。
そちらを向けば貴大くんが立っていて、チョイチョイと手招きしているところだった。


「……へ…」
「急げってさ」


黒田先生はこのクラスの担任だけど、先生がわたしを呼んでいるというのは恐らく嘘だ。貴大くんが、わたしを鈴木くんから引き離してくれるための。
「残念、また明日」と笑う鈴木くんに軽く会釈をして、わたしは花巻くんの言うとおり黒田先生のところへ向かった、振りをした。


「…ああいうのはしっかり断ったほうが良いんじゃねえの?」


人通りの少ない、わざと駅までは遠回りになる道を選んで歩くわたしたち。今日は貴大くんの声がいつもより少し低い。鈴木くんの誘いをしっかり断れなかったわたしの態度は、きっと貴大くんにとって嫌だったに違いない。


「ごめんなさい…」
「いや…うん。言いにくいだろうなとは思うんだけど」


貴大くんに嫌われたくはない。でも自分が貴大くんと釣り合っているのか分からない。他の男の子に話し掛けられて、わたしは付き合っている人がいるからとハッキリ言える度胸もない。
そんなに都合のいい事があるだろうか?自分でも分かる、言われなくても理解してる。最低だって思う。いい加減に直さなくては本当に嫌われてしまう。


「ごめん。ちゃんと断る」
「うん。や、断るっつーか…俺らが付き合ってるって知ったら何も言ってこねえだろ?」
「それは…」


そうすればわたしだけでなく、貴大くんにも迷惑がかかる。いつも明るくて人気者の貴大くんが、わたしみたいな人と付き合っているのは、きっと言わないほうがいい。


「…内緒にしてたい。ごめん」


付き合い始めた時からお願いしていたこの秘密。嬉しかったのに、自分に自信のないわたしはどうしても周りに知られたくなかった。





火曜日の放課後は貴大くんが部活に行くのを見送ってから帰る事にしている。昨日の帰りはあのような話をしてしまったけど、いつも教室を出る前に「じゃあね」とこっそり手を振ってくれるのが嬉しくて、今日も貴大くんが部活に出発するまでは教室に居ようと思っていた。


「白石さーん!」


…が、貴大くんではなくて別の声がまたわたしを呼ぶ。鈴木くんだ。おかげでわたしと貴大くんの両方ともが動きを止めて、鈴木くんへと視線を向けた。


「今日当たんなかったわ俺!セーフ」
「あっ、うん…オメデトウ…?」


そう言えば今日の数学で当たるかも、と言っていた彼は特に当てられていなかった。今日は先生が出席番号順ではなくて、気まぐれで 別の当て方をしたからだ。


「けどさぁ明日こそ当たりそうなのよ」
「へ…へえ」
「今日は予定どう?」


鈴木くんは昨日と同じように、わたしの前の席へ座った。身体ごとわたしのほうを向き、一挙一動も見逃すまいとしているかのように、戸惑うわたしの顔を眺めている。


「今日、ていうか…私は…ちょっと、そういうのは」
「どういうの?」


近付いてくる鈴木くんの顔。机に上半身を乗り出してくるおかげで、わたしは少し身体を後ろに仰け反らせる。
「どういうの」って言われても、そんなふうに誘ってくるのは辞めて欲しいとしか言えない。けど、それすらもはっきりと言えない。言わなきゃ、と口を開きかけた時、鈴木くんがこれまでよりもかすれた声で言った。


「ね、そろそろわかって?勉強とか口実だから」
「…え」
「白石さんの大人しそうな感じ、俺けっこう好きなんだ」


好きなんだ。
わたしのことを「好き」と言ってくれた男の子は産まれてこのかた二人だけ、この鈴木くんと、貴大くんだけだ。
でも、たった二文字の同じ言葉でも、全く違う響きを持っていた。


「ご…ごめん。」
「ええ?」
「わたし…」


わたしは貴大くんが好き。貴大くんと付き合っているから、だから応えられない。
そう言えば良いのに言えなくて、鈴木くんはわたしが小さな声で話すのを聞き取るためにどんどん近づいてくる。違う、来ないで、そうじゃない。わたしは貴大くんのことが好きなんだ。だからゴメン、と言うべきなのにわたしは。


「ちょっと」


何も言えず、机ひとつを挟んでの静かな攻防が繰り広げられていたとき。
それを遮ったのは最も心地よい声で、しかし、少しぴりりとした雰囲気を纏った彼だった。花巻貴大くん。内緒で付き合っているわたしの恋人である。


「すみれ、帰ろうか?」
「え」
「なんで花巻…え、すみれって?」


鈴木くんだけでなく、放課後の教室に残っている何人かの生徒は皆こちらを見ていた。
このクラスでわたしを「すみれ」と呼ぶのは数名の女の子だけだ。それにわたしと貴大くんは、クラス内では特別密接な関わりを持たないようにしている。それは、わたしの要望。でも貴大くんはどうやら不服だったようで。


「俺、こいつと付き合ってっから」


座ったままのわたしの肩を抱きながら、貴大くんが言った。クラスの中に響き渡るように。


「…花巻くん!?」
「貴大って呼べよ。二人の時みたいに」
「え、お前らマジなの?」
「マジだよ悪いか?」


貴大くんがみんなの前でわたしと付き合っているのを発表した。驚いて貴大くんを見上げるわたしを彼は見下ろして、どうだと言わんばかりの表情だ。


「…ほんと?白石さん」


鈴木くんは貴大くんに肩を抱かれたわたしに、聞くまでも無さそうだけど、と付け加えた。
鈴木くんと貴大くんの顔を交互に見ていたわたしはもう頷くしかない。こくりと肯定したわたしの頭を今度は撫でて、貴大くんが言った。


「そういう事ですから!まぁコイツがハッキリしねえのも悪かったけど。アタックすんのはヤメテね」


そこまで言われれば鈴木くんも頷くしかなく、更にはゴメンと一言謝った。鈴木くんは悪くない、もちろん貴大くんも悪くない。貴大くんの言うとおり、わたしの態度が曖昧だったのが悪いのに。


「貴大く…」
「行こ」


貴大くんがわたしの腕を引いて立ち上がらせた。既に荷物をまとめ終えていたわたしは慌てて鞄を掴んで、クラスみんなの視線を背中に感じながら教室を出る。みんなに知られた。貴大くんと付き合っていることを!


「…なんで?」
「なんで?俺が聞きたいよ」


廊下を歩く間も貴大くんはわたしの手を離さない。いつもより少し強いその力と言葉尻は、わたしに罪悪感を持たせるには充分だった。


「すみれ、俺に引け目感じてる?」


他の誰にも聞こえない程度の声で彼は言う。
引け目を感じずには居られない。貴大くんのような人がわたしを好きでいてくれるだけで夢みたいなのに。恋人で居られるなんて幸せな事なのに。
人気者のあなた、地味なわたし、どう考えたって釣り合ってないから。


「……だって…貴大くんは…わたしとは正反対だもん」
「どういう事だよ…」
「こんな、地味なのと付き合ってるとか…いいイメージつかないよ…」


貴大くんと付き合っていて、わたしが何かを言われるのは百歩譲って構わない。けど、もしもわたしのせいで貴大くんが周りに変に思われたら?引け目や負い目を感じるのは当然の事じゃないだろうか。


「………それ?」
「え…」
「それが理由ですか」
「へ。」


間抜けな声を出したのはわたしのほうだった。いつの間にかわたしたちは下駄箱を通り過ぎており、廊下の突き当りに辿り着いていた。貴大くんが立ち止まり、たいそう不満そうにわたしを見下ろしている。


「俺べつにイメージがどうとか気にしてねーし」
「……」
「すみれが俺と付き合ってたら俺のイメージ、ダウンすんの?」
「だってそれは」
「むしろアップじゃねーの!?こんな良い子と付き合えてる俺は幸せじゃねーの?自慢できねえの?不幸なの!?」


普段の温厚な貴大くんからは想像出来ないほど早口で、大きな身振り手振りで訴えてきた。
でもその内容は決して威圧感のあるものじゃなく、それが本音ならわたしにとっては喜びでしか無いようなもの。信じられないほど嬉しいこと。夢みたいなことだからすぐには返事をすることが出来なくて、そんなわたしを見た貴大くんはぎょっとしていた。


「……や、悪い、ちょっと言ってる事おかしかった」
「そ、そんなことは」
「とにかくだなぁ…マジでもう、そんなもん気にしなくて良いから」


先程までわちゃわちゃと振られていた彼の手が、わたしの両肩へと置かれる。その重みに、温かさに驚く。気付けば貴大くんの目はいつもの優しい色に変わっていた。


「俺は胸張ってすみれのカレシだって名乗りたい。名乗らせて下さい」


ぎゅっと力が込められて、大きな手で肩を強く優しく握られた。それよりももっと強い気持ちのこもった目で貴大くんがわたしを見つめている。
わたしの彼氏を名乗るいうことは、付き合っているのを皆に知られるということ。今まで誰にも言わずに過ごしてきたけれど、もう隠さないということ。


「……いいの?」
「そうじゃなかったら告白してない」
「………」


あ、今とても懐かしい事が頭を過ぎる。貴大くんと付き合うまでの事が。

同じクラスの花巻貴大くん。名前の漢字に「花」が付くなんて可愛らしくて良いなって思ったのが最初のこと。笑った時に目が細くなって、くしゃっとなるのが愛らしいなって思ったのが次のこと。真剣な顔でわたしに告白してくれた声の低さにドキンとしたのが、その次のこと。
そして、それは今もずっと。


「いいよな?もう」


貴大くんはあの時からずっと、こんな小さなことは気にしていなかったのだ。わたしだけが思い悩んでいたのだろう、でも貴大くんは「そんなことで悩むなよ」と無理にわたしを説得しなかった。
その優しさに甘えたいたのかも知れない、自分じゃ何もせず助けを待つだけの悲劇のヒロインみたいに。


「……うん。ごめんなさい」
「謝らない!!悪くねえから!誰も悪くねーから」
「う、うん」
「んじゃ仲直りな?」


肩から手を離し、掴んでいたせいでくしゃっとなったわたしの制服を優しく撫でて直してくれる貴大くん。やっぱりこんなに良い人がわたしのことを好きだなんて嘘なんじゃ?そう考えるのは仕方の無いことだ。でも今それを言ってしまえば「まだ疑ってんの?」と、貴大くんは唇を尖らせてしまうかも知れない。

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