October 15th , Monday


いま、わたしはふたつの大きな問題を抱えている。
ひとつは約10日後に控えたAO入試の事。アルバイトもしたことが無いわたしは面接自体が初めてで、どんな雰囲気で質疑応答がなされるのか不安で不安で仕方ない。
でもそれは進路指導の先生が何度か練習をしてくれたし、本番までにまだまだ練習を重ねる予定だからきっと大丈夫。

けれどもうひとつの問題は、わたしの力ではどうする事も出来なくて。


「すみれちゃーん」
「わっ」


昼休みも使って進路指導室へ通っていたわたしが教室へ戻って来ると、天童くんが明るく出迎えた。その顔を見て元気が出る気もするし、一気に落ち込む気もする。だってわたしはまだ天童くんに、大事な事を言えていない。


「どこ行ってたの?」
「し…進路指導室だよ」
「あーそっかあ、大変だね」
「うん…」


高校三年生のわたしたちは、れっきとした受験生。しかも白鳥沢学園は県内屈指の進学校。進路指導の先生たちはとても頼もしくて、色々なアドバイスをしてくれる。
部活をしていないわたしは受験に集中しているけれど、天童くんはまだバレー部を引退していない。受験モードのわたしをどこか他人事のように「大変だね」と言ったけど、突然思い出したかのように声のトーンを上げた。


「ねえ見てこれ、指怪我しちった」
「え!」


わたしの顔の前に、天童くんの骨ばった手が現れる。ひらひらと振られる手の、細長い指にはいくつかの白いテーピングなのか包帯なのか、とにかく何かが巻かれていた。
間もなく大事な試合を迎える天童くんが怪我をしたなんて大変だ!思わず目の前の手をがっしり掴んで、何本かのテーピングされた指を見た。


「だいじょうぶ!?」
「んなわけないよ、痛いよ」
「でっ、でも試合」
「ふふふ。こうしてりゃ平気」


天童くんはくすくす笑って、テーピングされた指をくいくいと軽く曲げてみせた。
怪我をする機会が少ないわたしにとって、両手の指へ同時にこんなものが巻かれているなんてショッキングである。でも彼いわくこれは日常茶飯事で、もう治っていたとしても怪我防止のために巻いている事もあるのだそう。


「なんだあ…びっくりさせないで」
「すみれちゃんのビックリした顔が見たくってぇ」
「もう…」
「安心してよ、来週の本番はちゃーんとカッコイイとこ見せるからね」


あ。そう言えば。


「…どったの?」
「え、いや」


早めに言わなくては。せっかく誘ってくれた試合の日が、入試と重なってしまっていた事を。でも丸くてくりくりした目で首をかしげて、不思議そうに顔を覗き込まれるとなかなか言い出せなかった。


「なんでもない…」


ついつい嘘を吐いてしまった。天童くんは「フーン」と鼻から抜けるような返事をしたけれど、その目はじっとわたしを見つめている。目を合わせられない。ダメだ早めに言わなきゃ。
でもここは教室の中で今は昼休み、間もなく次の授業が始まってしまう。ゆっくりと落ち着いて、しっかり理由を話して謝りたい。


「あのっ、天童くん」


五限目の用意をするために席に戻ろうとした天童くんへ声をかけると、彼はぴたりと立ち止まった。


「放課後、部活行く前、ちょっと…話したいことが」


そして、謝りたいことが。天童くんは再び目をくりっと丸くしたけれど、ウン、と言いながら目を細めた。





午後の授業とホームルームが終わるまで、話をどのように切り出そうかとそればかり考えていた。受験生のくせにこんな事で頭をいっぱいにするなんて、先生やお母さんに怒られるかな。「こんな事」と言うのは天童くんに失礼かも知れないけど。
と、あれこれ考えているうちに天童くんがわたしの席までやって来ていた。


「話したいことってなあに」


天童くんは前の椅子の背にお尻を乗せて、ゆらゆら揺れていた。教室内にはまだ他の生徒が居るから、あまり聞かれたくないなあ。
ちらりと周りを気にしたわたしに気付いたのか、天童くんが「下駄箱まで歩く?」と提案してくれた。


「…試合、来週末なんだよね?」
「ウン。そうだよ」


やっぱり試合の日程に間違いは無い。もしかしたら日程が変更になったり、天童くんの間違いだったりしないかなと思ったけれどそれは望めないようだ。廊下を歩く自分の足音が、「早く言え」と急かしてくるかのようだった。


「わたし…来週末…入試があるの」


瞬間、天童くんの歩く速度がほんの少し遅くなったように感じた。でもそれは一瞬のことだったし、もしかしたらわたしの気のせいかも知れない程度。


「……そう」


天童くんは前を向いたまま、足を止めることなく言った。明らかに彼の声が低くなり、わたしまでヒヤリと背筋が凍る。


「ごめん…」
「なんで謝んの」
「だって、ずっと言えなかったから」


本当なら、日程が重なっていると分かった時点で言わなきゃならなかったのに。「今度の試合観に来て」と言われた時点で詳しい日にちを聞いて、何か重要な予定と重複していないかを確認するべきだったのに。


「観に行くよって言ったら、天童くんすごく喜んでくれたから…嬉しくて、日程のことが頭から飛んじゃってて…」
「いいよ。仕方ない」
「仕方なくない」
「じゃあ入試蹴って来てくれんの?」


ぴたりとわたしの足が止まる。二つ返事で「行く」と言ってしまった過去の自分を恨んだ。
天童くんはわたしが立ち止まったことに気付かず数歩先へ進んだけれど、すぐに違和感を感じたらしくこちらを振り返った。そして、罪悪感でいっぱいのわたしを見ると、天童くんはハッとしたように身体ごとわたしを向いた。


「ゴメン…」
「天童くんが謝ることじゃ…」
「あーもう、サイテーだね俺」
「そんなことないよ」


天童くんは何も悪くない。わたしに試合を観に来て欲しいと言ってくれたこと、とても嬉しかった。わたしが観に行くなら普段の三割増しで頑張るよ、と言ってくれたのも。
だから謝らなきゃいけないのはわたしのほうなのに、天童くんはわたしを気遣うかのように言った。


「すみれちゃん、すっげえ勉強してんじゃん。来週はそれを発揮する日」
「……」
「俺は来週、バレーの練習を発揮する日」


わたしの話をする時はわたしを指差して、自分の話をする時は自身の顔を指して、天童くんがゆっくりと言う。


「で、成果を報告し合ったらいーよ」


ネ?と、天童くんが首をことりと傾げて笑った。

来週末の土曜日に、わたしと天童くんは違う舞台でこれまで積み重ねてきたものを披露する。本当なら天童くんの晴れ舞台を観に行きたかったし、天童くんは「来て欲しい」と思っているんだろうに、即座に話を置き換えてくれた。ふたり頑張った成果を来週末、報告し合おうと。


「…そだね…」
「うんうん」
「そうする」
「そうそう」


さっきまでどんより暗かったわたしの表情が普段通りに戻ったのを確認して(天童くんが戻してくれたのだが)、天童くんは下駄箱に向かって再び歩き始めた。


「どーせ県予選通ったら年明けに春高があるんだし。そん時に来てくれたらいいよん」
「うんっ、あ…でもわたし、AOダメだったらその時期勉強漬けだから…大丈夫かな」
「いやそこは頑張ってよ」
「は、はい」


年が明けてからの一月、去年も白鳥沢バレー部が出場した大きな東京の舞台。天童くんから直々に、東京まで観に来るように誘いを受けた。
そうか、まだわたしが天童くんの試合を観る機会は残っているのだ。
それなら来週末、必ず入試で力を発揮しなきゃなあ。