October 27th , Saturday
10月某日、さわやかな秋晴れ。
教室から見える外の景色は鮮やかで、大学受験で切羽詰まったわたしの心を潤してくれた。
あと少し勉強したら帰ろうか、それとも家で勉強しようか。自分の部屋は無音で快適だけれども、空けた窓から運動部の声とか風の音が聞こえてくるこの教室も悪くない。どうせあと半年も経たずに、三年間お世話になった学び舎とはお別れする事になるんだから。
それに、わたしが下校するのを渋る理由はもうひとつ。
「まだ残ってるの?」
きた。天童覚が軽快な足音で教室へ入り、通り道にある机をちょんちょん触りながらわたしへ近づいてくる。バレーシューズを履いたまま廊下を歩いてきたなんて、牛島くんに知られたら怒られるんじゃないかなあ?
「帰ろうかどうか迷ってたとこ」
「え。俺が邪魔しに来るから?」
「違うって」
彼らしい冗談に笑って返すと、天童くんはわたしの前の席へと腰を下ろした。
ここ最近、放課後に天童くんがやって来ては柔らかな時間が流れていく。それは午後のひと時だからとか、天気が良いからという理由じゃない。勉強勉強と自分を追い込んでいくこの時期に、この人が居る時だけは心穏やかになれるのだ。
だから家に帰ろうとはせず、わたしは教室にひとり残って勉強する事にしている。天童くんを待つ時間はどきどきするけれど、彼が去った後はとても気持ちよく勉強に取り掛かれるからきっと効率がいい筈だ、と言い聞かせて。
「ずっとひとりで勉強して飽きないの」
彼はわたしが何故ひとりで勉強しているのか、理由を知らずに聞いているのだろうか。
あなたが来るのを知っているからだよって言ったらどんな顔をされる?でもあまり迂闊な質問はできない。今、わたしは大事な大会を控えた天童くんの集中を削いではならないのだ。
「飽きるっていう発想は無かった…だって、勉強は自分の為になるじゃん」
「そお?真面目だね」
「うちのガッコはみんな真面目だよ。誰かさんは知らないけど」
「あ。俺の事ディスってるね?」
「ちーがーう」
誰かさんっていうのは勿論天童くんのことで、だって天童くんは授業をあまり真面目に受けていない。だからって成績が悪い印象は無いけど、大学はどこを受けるんだろう。前に志望校を聞いたら「今そこまで考えらんないや」と笑っていたっけな。
一学期の終わりにそんな会話をしていた時は、まだまだ高校生活は長く続くと思っていたけれど。
「卒業までもうすぐだよ。そう考えたら、もうちょっとここに居たいなあって思っただけ」
もうちょっと天童くんのそばに居たいなあ。という、本来の意味は風に揺れてどこかへ消えた。本人を目の前にしてそんな事言えないし、先述のとおり天童くんは部活に集中しなければならないから。
その部活を抜け出して、気分転換としてこの教室を選んでいる理由って何なの?それを聞くのも今はまだ、控えておいたほうがいい。
「…すみれちゃん、学校が好きなんだ」
「好きとか嫌いとか考えたこと無かったけどね。卒業間近にして初めて好きって思えたかなあ」
「ふうーん?」
自分の学校のことを好きか嫌いか、という概念は持ち合わせていなかった。家から通いやすいのと、この制服を着て道を歩けば「白鳥沢の生徒だ」と尊敬や憧れの眼差しを浴びるのは、悪くない。むしろ後者は誇らしい。
それに、単に勉強だけを頑張っていたわたしに話し掛けてくれる彼のおかげで、ちょっとだけ学校に来るのが楽しみになった。
せっかく放課後ふたりで話すのが日課になりつつあったのに、この時間はもう残り数ヶ月しか無いなんて。
「ねー、」
ふと、天童くんはわたしの教科書をぺらぺらとめくりながら言った。
「こんどの大会さ、俺、最後なの」
ぺらぺら、ぱたん。教科書の閉じられる音。
天童くんは男子バレー部だ。インターハイも勿論だけど、バレーボールと言えばやはり毎年1月に行われる春高バレーがその真骨頂を見せる舞台。今、彼はそれに向けての連出を積んでいるところ。最後の大会だから。
「…高校生活最後の大会、だよね?」
「んー、たぶん俺の人生で最後の大会」
「え」
「たぶん大学行ってもバレーやらないから」
天童くんはこの強豪バレー部でレギュラーに選ばれるほどの実力者。それなのに大学ではバレーを続けないなんて勿体無い気がする。ずっと前から続けてきた事をこの歳で辞める理由って何だろう。
「でも、好きなんでしょ…?」
「俺、思ったんだよね。俺ってバレーボールが好きなんじゃなくて、なんていうんだろ?やっぱり自分が好きなの」
彼の座る椅子が、ぎしっと軋む。前のめりになってわたしの机に突っ伏した天童くんは、顔だけを窓のほうへ向けて言った。
「だから、やりたいなって思える環境じゃないとやりたくないよ」
「……そっか」
外に何が見えるのだろうか。外の景色に何を見ているのだろうか。天童くんもわたしとは違う理由で、白鳥沢からの卒業を悲しんでいる。卒業がと言うよりは、三年間所属したバレー部を引退してしまうのが嫌なのだろう。
「すみれちゃんってバレーとか興味無さそうだよね?」
「え!」
びくりと身体が跳ねてしまって、手から赤いボールペンが落っこちた。
元々バレーボールにはあまり興味が無い。でもうちの学校が強豪だから、何度か試合を観たことはある。最後に観たのはいつだったか。
ただ、胸を張ってバレーボールが好きは言えないけれど、「天童くんがやってるから」というのを理由にしても良いのなら大いに興味ありだ。
「あ…あるよ!もちろん」
「ほんと?」
途端に天童くんの顔が明るくなって、机に預けていた身体を起き上がらせた。どきんと高鳴るわたしの心臓。今、彼はどうして嬉しそうに笑ったのだろう。わたしがバレーに興味があると言ったから?
「じゃあ今度の大会、観に来ない?」
「いいの?いきたい!」
「ほんとに!?」
さらに大きくなる天童くんの目。自分から「応援に行ってもいい?」と聞くのは恥ずかしくて、でもずっと興味があった。バレー部の練習は軽々しく見学する事は出来ないし、ちゃんとした試合は予定が合わずにあまり観に行けていない。特に、天童くんのことを好きになってからは。
もう一度「行きたい」という意味を込めて頷くと、天童くんはくすぐったそうに笑った。
「ふふふ、じゃあ俺いつもより頑張っちゃおう」
「いつもは頑張ってないの?」
「超頑張ってるよぉ、でも三割増しで頑張るって事!」
「そんなに?」
いつも超頑張っているのに、そこから更に三割増しだなんて疲れきって倒れちゃうんじゃ?でも、普段ひょうひょうとしている彼が、息が切れるほど動き回る姿を見られるなんて楽しみだ。
天童くんはどんな姿で走り回り、どんなふうに点を決め、どんな顔で勝利を喜ぶのだろう。わたしもその瞬間を同じ体育館の中で見届けられるなんて、楽しみだ。とっても。
◇
その日、わたしは仙台市体育館へと向かうはずだった。天童くんからの誘いを受けた時には必ず行こうと思っていた。けれどそれは叶わず、わたしは試合の結果をインターネットニュースで知る事となる。
「……うそだ…」
白鳥沢の職員室の中は、応援には行かず学校に残った先生達が落胆していた。
つい先程職員室に到着したわたしは、残念そうに溜息をつく先生の横に立ち尽くして、テレビから流れてくるハイライトの音声を聞いている。
『白鳥沢学園、決勝戦でダークホース烏野高校に敗れる!』アナウンサーの、白鳥沢敗北への驚きと相手校への期待に満ちた声。
白鳥沢学園バレーボール部は県予選の決勝で負けてしまった。
「惜しかったなあ…」
「牛島が居ても負けるかあ…」
テレビの電源を切り、職員室内がざわつき始めた。
同じ学年の牛島くんのことはわたしも知っている。とても強くて、彼のおかげでバレー部が活躍している事も。だから当然、今日も勝ってくれるのだと思っていた。わたしだけでなく、職員室に居る誰もが。
「…あ、白石。報告ありがとうな、もう帰っていいぞ」
「あ…はい…」
担任の先生にそう言われて我に返り、わたしは職員室を後にした。
どうしてわたしは今日、あの体育館の観客席ではなく、学校の職員室に来ていたのか。本当なら試合を観に行きたかった。でもわたしにはどうしようも出来ない事だった。
バレー部の決勝がわたしのAO入試の日程と重なっているなんて、どう頑張っても覆せない事だったのだ。
今日行われた入試の内容を報告するために、わたしは学校に来ていた。
決勝戦はわたしが帰りの電車に乗っている最中に行われて、結果はまだかまだかと何度もネットのニュース画面を更新した。そしてやっと出てきた試合の結果は白鳥沢の敗北。その瞬間を彼はどんな気持ちで迎えたのか。
バレー部のバスが間もなく到着するというのを聞いて、わたしは体育館のそばで待っていた。
でも彼らはすぐに集まって、当然だけど試合後のミーティングをしていて。とてもじゃないけど、たった今決勝に負けた人たちには近づくことが出来なかった。
どうか天童くんだけでも出てきて欲しい。顔を見たい。もう一度謝りたい。今日、観に行けなかった事を。
そう願いながら寒空の下、体育館のそばに座っていると、独特の足音が聞こえてきた。ちょっとだけ足を引き摺るようなだらしない歩き方は間違いなく彼のもの。
「天童くん…」
顔を上げると天童くんが立っており、体育館の外でたった一人座っているわたしを見て驚いた様子だった。
「…すみれちゃん?」
「あのっ、試合」
観に行けなくてごめんなさい。
そう言いたかったのにわたしが「試合」という単語を口にした瞬間、天童くんの顔はどんより暗くなった。わたしは言葉を続けることが出来ずに黙り込んでしまい、代わりに天童くんが口を開く。
「結果は知ってんの?」
「……」
「…ま、そうだよね」
ちょっとだけ笑ったような、けれど悲しむような、そんな顔で天童くんが言った。
「あの…観に行けなくて…ごめん、もう一度謝りたくて」
「いいよそんなの」
「でも」
「いいんだってば。負けたんだから」
天童くんの声がひとまわり大きくなる。わたしの言葉を遮るように「いいから」と両手を開き、戸惑うわたしの顔を覗き込んだ。負けたらいいって、何?どう考えても良くないよ。
「天童く、」
「むしろ、観に来なくて正解だったね」
彼の声は笑っていた。わたしに向けて笑ったのではなく、自らに向けて、変えようのない過去を誤魔化すように。
「…なんでそんなこと言うの」
「じゃあね」
「天童くん」
呼びかけても呼びかけても天童くんは振り返らない。わたしが彼を呼ぶ声は北風の音に掻き消されて、それとともに天童くんの背中は見えなくなった。
10月27日、土曜日。今日この日、天童くんとそのほかの三年生はバレー部を引退することになったのだ。