宮城県では桜の舞う卒業シーズンを迎える事が難しい。だから寒い寒い空の下、寒い寒い卒業式を終えたのが約10日前。
わたしの心にもぽっかりと穴が空いてしまって、そこに北風が吹きこんでくるかのような凍える日々を送っていた。たった一人でこんな寒い中過ごす事は出来ない。あの日みたいに瀬見さんのあったかい手が触れていないと、寒くて寒くて死んじゃいそうだ。


「はあー…緊張すんなあ」


時はさかのぼり2月14日の夜のこと、大学受験を翌日に控えた瀬見さんは、なんとバレー部の練習に顔を出しに来ていた。本人曰く「部屋にこもっていたら余計な事を考えてしまうから」、自ら身体を動かして心も身体もリラックスしたいのだそうだ。


「過去問もセンターも大丈夫だったんですよね?」
「一応な、一応」
「じゃあ大丈夫ですって!自信持ちましょう」
「んー」


瀬見さんは勉強が得意でも不得意でもないと言っていた。スポーツ推薦で入学した彼は、在学中はある程度の成績を保っていれば良かったのだ。だからいくら受験勉強を積み重ねても、自分が合格するのかどうかいまひとつ不安らしい。


「なあ、もっかい大丈夫って言ってくんね?」
「…?」
「テレビで言ってたんだよ、受験生に最も効く言葉はダイジョウブって言葉なんだってさ」


この受験の時期、テレビでは高校・大学受験に関する内容が沢山放送されている。確かに朝のニュースで「頑張れ」は禁句、「大丈夫」という言葉が最も受験生にとって嬉しいのだと言っていた気がする。

でもわたしにとって瀬見さんに声をかけるのは、単なる受験生への声かけとは違う意味があるのをこの人は気付いていないと思う。去年、白鳥沢に入ってバレー部のマネージャーを始めた時からずっと憧れている人なのだから。


「瀬見さんなら…大丈夫と思います」
「もう一声」
「だ、大丈夫ですよ」
「もいっちょ」
「何回言わせる気ですか」
「あはは、言われたら言われたぶんだけ大丈夫な気がしてくんだろ?」


わたしの言葉で受験が上手くいくならいくらでも言ってあげたい。という気持ちと、卒業なんかしてほしくないという気持ちが入り混じる。
本当は瀬見さんが卒業してしまうまでに言おうと思っていたのに、とうとう勇気が出なくて伝えられなかった。そして今日が恐らく最後のチャンス。バレンタインデーだ。


「…なあ」
「はい」
「お前、手…」


瀬見さんの視線の先には、膝の上に置いたわたしの両手があった。はっきり言って不格好。だって昨日の夜、瀬見さんへのバレンタインのケーキを焼く為に試行錯誤していたら火傷してしまったんだもん。
そのケーキはラッピングを施したままロッカーの中に入れてあり、渡すかどうかは決意出来ていないんだけど。


「しもやけ?」
「あー…いや、なんでしょう…いつの間にか赤くなってて」


火傷の痕を「しもやけ?」だなんて言う瀬見さんはあまり料理をしないんだろうなあと思えた。そして今日がバレンタインだっていう事も気にしてないんだろうし、わたしにどう思われているのかなんて事も考えてなさそう。


「貸してみ」
「えっ、あ」


それなのに、瀬見さんはわたしの手を取って彼自身の両手でぎゅっと包み込んだではないか?びっくりして手を引っ込めようとしたけれどわたしの力は弱かったみたいで、依然として瀬見さんの手の中に収まったまま。


「つめてー」
「…!?あ、の」
「やっぱコレ霜焼けじゃねえの」
「え…」


赤くなったわたしの手先を見つめながら、時折やんわり力を込めて握っている。そりゃあ今は真冬だしここは外で凄く寒いし、手が冷たいのは当たり前だ。でもそんな事をされたら熱くなってしまう。「なんで熱いの?」なんて聞かれたら誤魔化せる言い訳が浮かばない。


「……せ…瀬見さん」
「んー」
「あの、い、いつまで…手」


離してほしいっていう意味じゃないけど、凄く嬉しくて仕方ないけど。昨日、オーブンで火傷したときよりも熱いんじゃないかっていうくらい身体が温もって来た。瀬見さんはと言うと、ぎゅっと手を握ったまま離す素振りが無い。


「もうちょい。」
「も、もうちょいとは」
「俺が明日の受験ガンバローって気になれるまで?」
「いつですか」
「もうちょっと」


そのあとちょっとが1分なのか5分なのかによっては死活問題である。わたしの心臓はばくばくと波打って、このままでは数分以内に爆発しそうだ。
ロッカーに入れたケーキ、いつ渡そうか。そもそも今日渡すべきなのか。それをずっと朝から考えているのに、張本人が今わたしの手を握っている。


「あったけえなあ」


そう呟いた瀬見さんは本当にあったかそうな顔をしていたけど、冷えたわたしの手を持っているのに何故あったかいと感じたのか、わたしには分からなかった。





それから無事に入試を終えて、瀬見さんは志望校に合格した。そのあともちょくちょく部活に顔を出しては練習に参加してくれたり、新居が決まったという知らせをくれたり。
宮城県内の国公立大学に合格してくれた事にはホッとした。だって会おうと思えば会える距離だから。瀬見さんが卒業後もわたしに会いたいと思ってくれるかどうかは別として。

そんな事を考えるのは寂しかったり楽しかったりしたけれど、10日ほど前にとうとう卒業式を迎えてしまった。寮からは3年生の姿が消えて、体育館が広いと感じてしまうほど。人が少ないとこうも寒く感じてしまうのか。
ちょうど1カ月前のあの日みたいに、瀬見さんのあったかい手が触れていないと、寒くて寒くて死んじゃいそうだ。


「あ!」


と、ぼんやり考えていた3月14日。間もなく3学期を終えようとするわたしたちは普段どおりに放課後、体育館での練習を行っていた。そこへなんと、なんと、瀬見さんが様子を見にやって来たのだ。


「よー」
「お疲れ様です」
「お疲れ様でーす」
「でーす」
「挨拶を略すな挨拶を」
「瀬見さん引越しはいいんですか?」


今や最高学年の白布賢二郎と川西太一は瀬見さんの存在にいち早く気づいた。大学の近所へ引越しするのが面倒くさいな、と先日瀬見さんがぼやいていたのを白布くんは覚えていたらしい。


「まあ引越しつっても県内だし。男だから荷物もそんな多くないしな」
「へー。で、暇つぶしに来たと」
「暇つぶしじゃねーよ失礼だな」
「嘘です。早く練習入ってきてくださいね」


そう言って、白布くんと川西くんは体育館の中へと入って行った。川西くんが苦笑いを浮かべているが、今のは白布くんの精一杯の歓迎だったのだろう。


「…あいつ嘘つくのヘタ過ぎだろ、超傷ついたんだけど」
「あはは…」


そしていちいち白布くんの言葉を間に受けてしまう瀬見さんは、今日も普通にショックを受けていた。そういう素直で優しいところ、本当に素敵だと思う。瀬見さんがそんな人だからわたしたちは、もちろん白布くんも、彼を尊敬している。


「…あのう」
「何?」
「部室使います?鍵ありますよ」


瀬見さんは練習に参加するために来てくれている。シューズもしっかり持ってきたようだし、着替える場所を提供しなくてはならない。


「うん…あー…うん。行く。行こ」
「え?」
「付いてきて」
「え!」


瀬見さんの着替えに!?と飛び上がってしまったが、よく考えれば瀬見さんはもう「部外者」と呼ばれる人なので鍵を預けるわけには行かない。そう考えるとちょっと悲しい。


「…忙しいマネージャー連れ出して、白布に怒られるかなあ」


部室までの道のりを歩きながら、瀬見さんがへらりと笑った。


「…べつに私は忙しくないです」
「そうか?大変じゃね?」
「そんな事は…」
「ほんとかよ。大変だって顔に書いてあんぞ」


悪戯っぽく目を細めて、瀬見さんは自分の頬のあたりを指さした。
3年生が卒業して部員の数は減ったはずなのに、何故だかわたしの仕事は増えている。マネージャーをしていた先輩も居なくなってしまったから、ひとりで請け負う量は多くなってしまったのだった。そんなことを瀬見さんに気付かれていたとは。


「けど今日は…まあ…なんていうの。練習見に来たってのもあるけどさ、もういっこ用事があって…」


瀬見さんはごそごそと鞄を漁り始めた。まだ部室までは距離があるのにどうしたんだろう、とその様子を覗き込んでいると、顔の前に出されたのは何やら四角いもの。


「はい」


という瀬見さんの声と同時に、その四角いものがわたしの胸元へ近づけられた。よく見るとこれは茶色い箱だ、ベージュのリボンが巻かれているシックなデザインの。そして、蓋には有名なチョコレートブランドの名前が書かれていた。


「……なんですかこれ」
「それを聞かれると…」


受け取るのをためらっているわたしに、瀬見さんは頭をぽりぽりかいて説明を始めた。


「俺は白石から何か貰ったわけじゃないけど…なんていうか2年間のお返しっつーか?そういうのを込めたホワイトデーってやつ」
「……」


瀬見さんからのホワイトデーの贈りもの。わたしはバレンタインの日、渡す勇気が無くて渡せなかったのに。
結局あの日、ロッカーに入れたケーキはそのまま寮の自分の部屋へ持ち帰ったのだ。それはそれは惨めだった。渡して告白すればよかった、と何日間も後悔したのは記憶に新しい、むしろ今だって後悔している。


「…もしかしてお断り?」
「え!いや、違っ」
「なら早く受け取ってくれよ。恥ずかしくて死ぬ」


もう一度瀬見さんが、チョコレートの箱をずいっとわたしに差し出した。本当に受け取っていいものか。でもこれ以上瀬見さんの眉が下がるのは見たくないので、ゆっくり両手を差し出した。


「…ありがとうございます」
「うん」
「………」


まずい。受け取ったはいいけど、この後どうすれば良いか分からない。
「バレンタインあげてないのに、こんなの貰ってゴメンナサイ」と謝るべき?それとも「美味しくいただきます」と能天気に返すべき?どちらも難しい。わたしの頭には「この贈りものには特別な意味が込められているのですか?」という事しか無いのだから。でもそんな事、聞けるはずはない。平然としたふりをして、もう一度部室への一歩を踏み出した。


「…じゃあ…部室」
「ちょっと待って」


が、その一歩は瀬見さんによって引き戻される。チョコレートを持っていないほうのわたしの腕をがっちり掴んで、彼はその場に立っていた。


「手」
「て…」
「治ったの?」


瀬見さんの目はバレンタインデーのときと同じく、わたしの手先を見下ろしていた。
あの日わたしは火傷を負っていた。瀬見さんに渡すケーキを焼くため、慣れないオーブンを使ったから。でもそれを瀬見さんは単なるしもやけだと思っていた。


「…あれは…火傷でしたから」
「火傷?」


1ヶ月も経てばちょっとした火傷の痕は消えてなくなる。今や元通りになったわたしの指を、瀬見さんがもう一度じっと見つめた。


「瀬見さんにっ、バレンタインのお菓子作ってたら火傷したんです」


そして瀬見さんはついに指から目を離し、羞恥に耐えるわたしの顔へと向けられた。


「……バレンタイン…」


なにかを思い出すように、確認するかのように瀬見さんが繰り返す。瀬見さんにとっては思い出すのは難しいだろう。きっとバレンタインだというのを意識していなかっただろうから。


「…あの日はバレンタインだったよな」
「……知ってたんですか?」
「そりゃあ一応…」


なんだ、分かっていたんだ。分かっていたのに、わたしがケーキを渡すかどうかそわそわしていた事には気付かなかったと言うのか。それは受験前の緊張のせい?それとも、わたしに興味が無いせいですか。


「けど、そんなのお前一言も」
「渡すタイミングありませんでしたから」
「あっただろ」
「変なことして、瀬見さんが受験に集中できなくなっちゃったらいけないかとっ」


違う、それは言い訳である。本当は渡す勇気がなかっただけで、告白して振られるのが怖かっただけ。


「…なあ、手」
「え…」
「貸して」


そう言うと、瀬見さんはわたしの返事を聞く前に両手でわたしの手を覆った。先月と同じように、温めるみたいに。


「俺、これのお陰で入試頑張れたんだけど」
「……」
「意味わかってくれる?」


ぎゅうと力が込められる。あの日わたしは瀬見さんに「大丈夫」の呪文をかけて、それからどうしたんだっけ。わたしの手がしもやけなのか、と言って握ってくれたんだっけ。入試を頑張るためだなんて一言も言ってなかったような。


「…よく…分かりません」
「嘘だろ…」


瀬見さんはがっくりと肩を落とした。あー、とかうー、とか唸って言葉を探している。わたしの手を握ったままで。


「あん時さあ、超ナイーブだったわけよ。勉強してもしても自信つかなくて」
「……」
「そういう時って好きな子にパワー貰いたいもんじゃんか」
「すっ」


顔だけじゃなく身体全体が跳ね上がった。それでも動かなかったのは、瀬見さんによって固定されたわたしの手。思い切り引いてみてもビクともしない。瀬見さんが力強く握って、熱い目で訴えかけているからだ。そんな状態でたった今言われた言葉を理解するのは難しい事だった。


「す…せ…わ…わたっ」
「落ち着け」
「瀬見さ、わたしを…」
「…うん。好きだよ」
「す…えっ?なに」
「いや一回で聞き取れよ!好きだっつってんの」


そんなこと言われても容易ではない。「好き」というたった二文字なのに、瀬見さんの声でそれを言われてしまったのだから。入学してすぐに瀬見さんに恋をしてからの約二年、ずっと夢見ていた言葉。


「…だからバレンタインとか貰ってねーけど、自己満だよそれは」


瀬見さんが吐き捨てるように言ったのは、照れ隠しのためだろうか。そんな勿体無い顔を隠されるわけには行かない。それに、わたしも伝えなくてはならない。バレンタイン何も渡さなかったはわざとじゃないし、本当は渡したかったし、ずっと後悔していた事を。


「あの…わたし、バレンタインの」
「うん?」
「渡せなかったやつ、まだ持ってます」
「マジかよ」
「本当は渡したかったんで!寮の部屋に置いてるんです」
「え…それ大丈夫?衛生的に」
「え、衛生的にはだめですけど!わたしの気持ちは生きてます!」


思わず1ヶ月前に作ったケーキを大事に置いていることを喋ってしまった。夏場だったら悪臭でアウトである。でも心を込めて作ったから捨てるには惜しくて、どうしようどうしようと思っていたらホワイトデーになってしまっていた。
けど、この1ヶ月間なんてわたしが瀬見さんへの想いを抱いていた期間に比べたらほんの短い時間だ。


「…去年からずうっと好きでした」


去年の、入学式から数日後、マネージャーとして見学に来た時から。本当に最初の最初の頃から瀬見さんを好きで、でも部活中にそういうのを持ち込んだらいけない気がして我慢していたけど。
瀬見さんは信じられないような顔をしていて、とうとうわたしの手を離し、口元を隠していた。


「ずうっとかよ…」
「です」
「俺もっす…」
「!!う、そ」


解放された手でわたしも思わず口を覆った。わたしたちはお互いに自分の口を隠して目玉だけがぱちぱち動き、モールス信号みたいに瞬きを繰り返すだけ。


「…うわ…めちゃくちゃ嬉しいです」
「やべえ、俺も」
「ど、どうしよう…っバレンタインのやつ…寮から持ってきます」
「ゴメン腹壊すのはちょっと…」
「うっ」
「好きな子に殺されんのも嫌だしな」


1ヶ月前のケーキって食べたら死んじゃうんだろうか。でもわたしだって瀬見さんを自分の料理で殺してしまうのは御免なので、あれを渡すのは諦める。でも、ホワイトデーのプレゼントを貰いっぱなしは嫌だ。


「じゃあ…作り直します」
「うん。それでよろしく」
「卒業祝いってことにしてもいいですか」
「あー、引越し祝いがいいかな」
「分かりました…」


4月から大学生になる瀬見さんの引越し祝い。まだ高校生でアルバイトもしていないわたしには、お菓子を作って渡すくらいの事しか出来ない。我ながら情けない彼女…ってわたし、彼女になれたという事で間違いないのかな。さっきわたしを「好き」と言ってくれたのは幻聴じゃなかったですよね?


「あの…」
「だから作ったら、俺の新居まで持って来てくれる?」


また幻聴みたいな幸せな誘い。一人暮らしの瀬見さんの新居へ引越し祝いを持っていくという事は、つまり。


「それは…?」


そういう意味でいいんですか、と見上げると瀬見さんは「言わせんなよ」と唇を尖らせた。離れていたわたしたちの手が触れて、瀬見さんの手に包まれていく。大きくてあったかい。

3月半ばとはいえここは東北、瀬見さんの手が触れていないと寒くて寒くて死んじゃいそうだ。来年以降もこうして冬を超え春を迎えることが出来るのだろうか。バレンタインデー当日にケーキを届けることも出来るだろうか?

そんな夢を見ていたら、知らないうちに背後にいた白布くんの「まだですか?」という低い声で現実に引き戻されてしまった。

ハッピーエンドの匙の上

こちらの夢は白鳥沢の面々の「ホワイトデー」をテーマとして書かせていただきました。
odetteのララさん「五色工と恋人」
suiのioさん「白布賢二郎への片想い」
Switchのウヅキさん「川西太一からの片想い」
わたしは「瀬見英太と両片想い」という設定で書いています。