入社して半年、やっと職場やスーツにも慣れてきたものの家に帰ると溜息しか出てこない。歩きなれないヒールの靴で、日々新しい事を覚えなければならないのは大変である。

でも社会人1年目ならこのくらいの事、みんなが経験している事だろう。そうして仕事を頑張って家に帰った時、疲れた私を癒してくれるのはやっぱり恋人の存在だ。


『御幸は調子がいいですねえ』


家に帰ると私は必ず野球中継を流す事にしている。現在守備についているほうにお気に入りの選手が居るからだ。


『堂々としてますね』
『いやあ、もう立派な戦力ですよ』


テレビから流れるレポーターや解説者の声を聞きながら自然と口角が上がっていくのを感じる。
今シーズンからスターティングメンバーとして出場する事になった御幸一也は、本日絶好調らしい。高校卒業と同時にプロの世界へ足を踏み入れた彼は私の恋人なのだった。


「し、あ、い、観たよ…っと」


寮に入っている一也と電話をすることはなかなか難しいので、毎日メールでやり取りをする事にしていた。試合を観た感想とか、今日の出来事を送ったりとか。すぐに返信が来ることは少ないけれど、時間が経ってでも必ず「ありがと」「そっちは仕事どう?」と返してくれるから助かっている。

でもやっぱり心配なのは女性関係だ。野球選手は女子アナウンサーや芸能人との関わりも多いし、そうでなくても一也は外見がいい。高校の時から女の子に人気で、何度も私は不安になって泣いたものだった。


『会いたい』


たったの四文字、送ろうかどうか迷ってやめた。プロ野球選手は一也のずっとの夢だったし、その邪魔をするような事はしたくない。せっかく下積みを経て、今年からスタメン出場できるようになったばかりなんだから。

今日も当たり障りなく、「そろそろ寝るね、明日も頑張ろ」と送って終わり。例え私の小さな悩みであっても、大きな舞台で活躍する一也に少しの影響も与えてはならない。御幸一也は私の彼氏である前に、球団の顔になりつつあるのだ。


『ごめん、忙しくって』


だから、私が3日前に送ったメッセージへの返答がこれだけだったとしても悲しんではならない。
そんな事は分かっているのに「どうして返事くれないの?」「メールくらい打てないの?」と疑問や不安が募っていた。

一也はいつも試合で活躍し、テレビの中から元気な姿を見せてくれる。でも私が見たいのはこんな誰にでも見せる顔じゃない。二人きりで居る時の優しい顔、いつから見ていないんだろう。会うなんて以ての外だ。
きっと一也は家族とだってまともに会えていないし、恋人の私がこんな事で我儘を言うのは良くないって思うけど。





「白石さん、泣くなら外に出て」


そんなある日、仕事でうまく行かないことがあり、トイレに駆け込んで泣いてしまった。

まだ1年目だから仕方ないけど「仕方ない」で終わらせたくない。第一線で活躍する一也みたいに、私もしっかりと頼れる社員になりたい。
そんな気持ちが空回りして今日の失敗が生まれたのでぐったりしてしまい、やっとの思いで家にたどり着いた。


「…ちょっとくらいなら大丈夫かな…」


話を聞いてほしい。弱みを全部さらけ出して、「大丈夫だよ」と慰めてほしい。親でも友だちでもなくて、大好きな恋人に。

今日は野球の試合は無い。時間も10時を回っているから練習も終わっているだろうか、と意を決して通話履歴から「御幸一也」の名前を探した。…全然残ってないや、最後に電話したのっていつなんだろう。


『もしもし?』


電話をかけるとすぐに一也が出てくれた。久しぶりに耳元で聞く声に疲れが一気に吹き飛んでいく。


「もしもし、私。いま大丈夫?」
『今?えーと…』


電話口ではがやがやと音が聞こえてきた。チームメイトと一緒に居るのだろうか。球団の人と過ごす時間はとても大切だ、と一也が言っていたのを思い出す。


『…悪い、今ちょっと難しいかも』
「そっか…」


やっぱり駄目なんだ。でも今、私のメンタルはボロボロだ。
今日はまだ水曜日だし、こんな状態で明日も明後日も仕事に行きたくない。私の話を長々と聞くのが無理なら、一言「すみれなら大丈夫だよ」と気休めでいいから言ってほしい。


「あのね、ちょっとだけ話が」
『えっ?……あ、いや大丈夫です。すぐ終わりますんで』
「………一也?」
『ごめん後で電話する』


そう言われた瞬間に、無慈悲な電子音が鳴り響いた。
ぼと、と携帯電話がソファの上に落ちる。ぼと、ぼと。続けて何かが落ち続けた。私の涙が、膝の上へ。


「………分かってるもん」


分かってるもん、一也が忙しい事なんて。ただの会社で働く私なんかよりも、たくさんの責任を負ってる事なんて。私に構う暇が無い事なんて。
分かっているのに我慢できない。特別弱ったこんな日ですら、私は恋人と電話する権利を得られないのか。





結局その日、また次の日、週末になっても一也から連絡が来る事はなかった。
もう電話を待つのは辞めにする。仕事が辛いことなんか自分で解決すればいい。いちいち恋人に相談していたらキリが無い。皆きっと一人で頑張っているんだ。

そうして翌週の月曜日、帰宅してテレビを観る気分にもなれずにベッドに横になっていた。今日も疲れた、一週間は始まったばかりだというのに。あと4日間も耐えられるかなぁ私。

そんなことを考えていたら瞼が重くなってきて、夕食を食べるのもメイクを落とすのも忘れて眠りに落ちてしまった。


「……ん」


数時間後、枕元で響く携帯電話のバイブレーションの音で目が覚めた。
知らないうちに眠っていたんだと慌てて飛び起きると、時刻は夜中の0時前。やってしまった。
続いて携帯電話に目をやると、またもや飛び上がりそうになった。一也からの電話だ。


「もしもし」
『おー、もしもし』


御幸一也の明るい声が聞こえてくる。今日は彼の周りに音はなく、ひとりで居るようだ。


『あれ、もう寝てた?』
「いや…」


やっと電話してくれた。その嬉しさと、今更電話してきやがってという苛々で上手く話せない。


「疲れて寝ちゃってた…今からお風呂入るとこ」
『今から?大丈夫かよ』
「へ…」
『肌ボロボロになっちまうぞー』
「………」


一也の声は至って明るい。いつも通りの一也であった。でも私がこんなに疲れて、寂しくって、一也との電話を我慢して過ごしているのに。久しぶりに話した内容がこれ?


『おーいどうした?』
「…何もない」
『そう?』
「そっちこそ何か用?」


ずっと声を聞きたかったのに、また電話するって言ったくせにもう5日も経っている。やっと電話を寄越したと思えば疲れた私を気遣う言葉も無い。さらに私は寝起きである。おかげで私の言葉には鋭い棘が宿ってしまった。


『何か用って何だよ…』
「私、疲れてんの。明日も早いの。こんな時間に用もないのに電話されんの迷惑だよ」
『…は?』
「この間、ぜんぜん話聞いてくれなかったくせに」


でも悪いのは一也だ。私の事を蔑ろにして、電話をかけ直す約束も守らない。やっと電話をくれたかと思えば肌ボロボロになるぞ、って。
そっちは綺麗なアイドルやアナウンサーのインタビューを受け慣れているから、目が肥えてるだろうけど。


『この間は…だって、先輩と一緒に居たから』
「かけ直すって言ったくせに全然電話して来なかったじゃん」
『だからそれは忙しくて』
「私が!仕事で落ち込んでるのに!メールの文字も打てないほど忙しかったっていうの!?」


突然声を荒らげた私に、さすがの一也も静かになった。と言うよりは驚いて返す言葉が浮かばないのか。でも後悔はしていない。今になって心配そうな声を出したって手遅れだ。


『…仕事、なんかあった?』
「もういい。私が失敗したんだから怒られるの当然だし」
『なあ』
「…ほんとは一也の声聞いて元気出したかったけど、いい。一人で頑張るから」
『一人でって』
「じゃ!」


力任せに通話終了のボタンを押して、携帯電話をベッドに叩きつける。見苦しい。こうやって物に当たる私は世界で一番見苦しく、情けない。


「……さいあくだよ」


悪いのは一也だなんて本当はこれっぽっちも思ってない。電話くれてありがとう、って言えればどんなに楽だったか。





そんな事があってから、もちろん元気なはずもなく。翌日の仕事もとにかく失敗しないように、しか考えられずにびくびくと過ごしてしまった。

恋人にも素直になれず、仕事も堂々とできないなんて。私、生きてる意味あるのかな。死ぬ勇気なんか無いくせにこんな事が頭を過ぎり、いけないいけないと首を振る。


「ん?」


そのとき、部屋のインターホンが鳴った。時計を見ると夜の9時前。宅急便や郵便局はぎりぎり配達を行っている時間だ。何か通販でも頼んでいたっけな?


「はーい」


何も考えずに玄関に出て鍵を開け、がちゃりとドアノブを回す。
と、立っていたのは郵便局員でも運送会社の人でも無かった。


「お前、ちゃんと覗き穴見たか?」
「っ!?」


開口一番そんな駄目出しをしてくる人物は御幸一也ただ一人。顔が見えないように被っていたキャップを脱ぎながら私を見下ろしていた。


「かっ…一也」
「お邪魔します」
「ちょ、」


開ける途中だったドアを一也が自ら開き、勝手に中に入ってくる。突然の事でまだ混乱している私はそれを制することが出来ずに、一也が玄関の中へと入り込んでしまった。


「ココ。何のために空いてるか分かってる?」


そして、閉めたドアに付いている覗き穴を指さした。
確かに今、私は覗き穴を確認することなく鍵を開けた。通販で荷物を頼んでいたかもしれないし、親から何かが送られてきたかも知れないから。でも一也は私がすんなり鍵を開けた事に対して不満の様子だ。


「な…な…なに、急に来たくせに。説教しに来たわけ」
「ちげーよ」
「じゃあ何?忙しいんじゃないの」
「話は終わってねえぞ、お前はいっつもインターホンが鳴るたびにホイホイ鍵開けてんの?」


言いたいことは分かる。一也が正しい事を言っているのも、簡単に鍵を開けたのが軽率だった事も。
でも先日あんな電話をして、久しぶりに会った途端に怒られるなんて何なんだ。そっちが連絡もなく勝手に家まで来たんじゃんか。


「…別にいいじゃん。こんな肌ボロボロの女の部屋、怪しい人なんか来ないよ」
「あのなあ…」
「一也こそ急に来て何、気分悪い」
「おい」


そこまで言うと、一也の表情はぴりっと一変した。
あ、まずかったかなと思った時には一也の手が私の肩を押し、閉まったドアに勢いよく押し付けられる。がたんという音とともに、背中に硬いドアの感触がした。


「いたっ、」
「聞けよお前」


抵抗する間もなく一也は私の腕を強く握り、押し返すことも振り払うことも出来ない状況だ。一也の目は冷たく私を見下ろしている。怖い。このまま何か暴行されるんじゃないかと思うほど。


「こんな事されたらどうする?逃げられるか?俺が変質者だったら即アウトだからな」


私の腕を掴みドアに押し付けたまま、一也が言った。ものすごい威圧感。目を逸らすのは許さないと言わんばかりの眼力に、震えながら謝るしかなかった。


「…ごめん…なさい」
「………」


まだ腕の力は弱まらない。が、一也の顔からは緊張感が抜けた。


「…ごめん」


そして、謝罪の言葉と同時にするすると一也の手が下がっていく。その手が私の指に触れた時、今度はぎゅっと手を握られた。


「一也…?」
「ごめんな。俺、ひどかった」
「え」


何が?と聞こうとしたけど、急に顔を胸元に押し付けられたので声が出なくなる。さっきまで冷たいドアが触れていた背中には一也の手が回されていた。


「すみれだって就職したばっかで頑張ってんのに…自分の事で浮かれてて」
「………」
「あの時の電話、辛かったんだろ?普段はメールして来るくせに、久しぶりに掛けてきたもんな」


あの日の、あの時の電話は私が会社で怒られ泣いてしまった時のもの。どうしても話を聞いて欲しくて、迷惑だとは分かりながらも電話をしたのだった。少しでいいから優しく話してくれればそれで満足だったのに、忙しいからと切られてしまい、それから電話のかけ直しも無かった。
それを謝るために今日、家まで押しかけてきたのだろうか?


「ごめん」
「……遅い」
「ごめんってば」
「許さない…」
「そこをなんとか」


なんだそれ。軽い御幸節の登場にばしんと背中を叩いてやると一也が唸った。「いてえなあ」と眉を下げて笑いながら身体を離し、私を抱きしめていた手がくしゃりと私の頭を撫でる。


「すみれが居なきゃ困るよ、俺」


だから許して?と首を傾げて私の顔を覗き込む御幸一也は、この方法が一番効果的であると分かっているに違いない。
悔しいのに嬉しくて、安心して涙が出てきた。ああまたメイク落としてないのに。


「………遅いよぉぉ」
「ごーめーんって。お詫びにこれ」


あやすように頭を撫でて、片方の手がポケットに突っ込まれた。出されたものを受け取ると、何かのチケットらしき紙。目を凝らして内容を読むと、信じられない文字が書かれていた。


「…ディナークルーズ…」
「監督がくれた。リフレッシュしてこいってさ」


一也の球団の人は、私という恋人の存在を知っている。もちろん公には知らされていないけど。だからここ何年も寮に入り、恋人としての時間をゆっくり過ごせていなかった私たちへの贈り物という事らしい。


「今週土曜。行くだろ?」


チケットをひらひらと揺らして一也が言った。そんなの、私の答えは決まっている。そんなに素敵なお誘いを断るわけがない。


「……行く」
「決まりな」
「うん…」
「お洒落して行かねえとなあ」
「そんな良い服持ってないよ」
「平気平気」


一也は豪快に笑うとチケットを財布に仕舞って、代わりにジャーンとクレジットカードを取り出した。それはまさか、まさか。


「土曜の昼間は買い物いくぞ」
「ええっ!」
「すみれは財布持たなくていいから」
「な、なにそれ。悪いよ」
「細かいこと気にすんな。いずれは同じ財布だろ?」


それにはさすがに言葉が出なくて、ぽかんと口を開けて一也を見上げるしか無かった。だって今、とても素敵な事を言われたような気がする。呆けた顔の私を見て、一也はまた豪快に笑った。


「………ナニソレ」
「何でしょうね?」
「なに今の、」
「さあねえ」


そうやってはぐらかしながら財布を仕舞い、一也が靴を脱いで部屋へ上がった。今気づいたけれど、大きなバックパックを持っている。今夜は泊まっていくつもりらしい。


「ねえ、今のって」
「まあゆっくり話そうぜ」


今夜はいっぱい時間があるんだからと、一也が部屋の中へ手招きした。
ゆっくり何の話をしてくれるのか、胸がどきどきそわそわする。心の準備が必要だったりする?まだ期待するのは早い?
玄関で二、三度深呼吸をしてから、私も部屋へと小走りで戻った。

マリアージュ・ソルフェージュ
お話のネタはgaletteの神無さんから頂きました。すれ違いからの家凸&叱られたいという、神無さんと私の性癖を詰め込んだ内容です。ありがとうございました!