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春高全国まで1カ月を切った頃、すっかり寒さが厳しくなって登下校の時間は少々辛い。
身体が固くなってしまうし暖房のために電気代は高くなるしで良い事なしだと思われる季節だが、冬のいいところをひとつ知った。空気が澄んで、星がきれいに見える事。
そして吉報が届いたのは、やはり雲ひとつない星空の下で、できたばかりの恋人と待ち合わせをしていた時であった。


「北せんぱいっ!」
「おお、お疲れ」


俺の姿を見つけて小走りで駆け寄ってくる姿、誰にも見せたくないなあと思うけど。今まで隣に居た部員達が「ほんなら俺らはこの辺で」と白々しく去っていくのが有難いような、やめて欲しいような。

白石さんは遠ざかる他の部員に会釈をしてから俺の前で立ち止まり、息も整わないまま話し始めた。


「あの、あのっ」
「どした、めっちゃ息切らしてるやん」
「あのっ」
「急がんでええから」


という俺の言葉は響いていないらしい。げほげほと咳をしてから、やっぱり落ち着くのを待たずに口を開いた。


「…あの、見つかったそうです」
「なにが?」
「望遠鏡!犯人!」


白石さんが目を輝かせて言った。


「…うそやん、ほんまか」
「はい、今日の昼間…で、犯人の家に私の望遠鏡あったらしいです」


先日盗まれてしまった天体望遠鏡。もう見つからないだろうと思われていた。例え犯人が捕まったとしても望遠鏡は売り払われている、もしくは金にならず棄てられているのではと。


「そうか…」
「今は警察署にあるみたいなんですけど、すぐ返してくれる言うてます。傷もついてなさそうやって」


不幸中の幸いと言えばいいのか、普段の彼女の行いが良かったのか。あれを乱暴に扱わず保管していた犯人に感謝さえ覚えた。白石さんがとても嬉しそうに笑っているからだ。


「よかったな」
「はい。多分安もんやから、売っても意味無いと思ったんやろなって感じですけどね」
「けど大事なもんやってんから。白石さんにとっては」


そう言うと、白石さんは満足そうに頷いた。望遠鏡を通して天体観測できない事が悲しかったのではなく、父親から譲り受けたものを失った事が大きかったのだと思う。父親は「気にすんな」と言っていたらしいけど。
よかったです、と笑う彼女の顔を見て警察に足を向けて寝られないなと感じた。


「…帰るか」
「はい」


星が綺麗に見えるということは、すっかり夜になっているということ。正々堂々恋人として白石さんを最寄り駅まで送るため、校門を出て二人で歩き始めた。
こうして歩けるのも夢みたいだなと思った矢先、白石さんが小さなくしゃみをした。続いてシュンと鼻をすする音。きっと寒いのだ。さっきまで全力で部活に取り組んでいた俺はあまり気にならないが。


「白石さん」
「はい?」
「ん」


俺は右手を差し出した。そうするのが当然だと考えたから。しかし白石さんは何故俺の手か自分に伸びてきたのか分からないらしく、固まっている。


「…手。」
「え、」
「つなご」
「えっ!?」
「…嫌なん?」
「ちが…」


白石さんは自分の手を出すかどうか迷っているようだった。まさか俺と手を繋ぐのが嫌なのでは、と思ったけど拒否される理由も見当たらない。
リュックサックをぎゅっと掴んだ手を離し俺の右手に重ねるかどうか、しばらくは手を出したり引っ込めたりの動作が続いた。正直、それを眺めるのもちょっと面白かったので俺は何も言わなかった。
そしてやっと白石さんの手が触れたとき、思わず声が出てしまった。


「つめた」


とても冷たかったのだ。気温は確かに低いけど、凍っているんじゃないかと思うほど。白石さんは慌てて手を引っ込めて、申し訳なさそうに言った。


「ご…ごめんなさい」
「謝る事ちゃうって」
「私、末端冷え性なんで」


末端冷え性という単語は知っているが、実際そんな人と手を繋ぐのは初めてだ。こんなに冷えてしまったのではこれから寒くなるのに大変だろう。今も充分冷え込んでいるのに。
しかし、手袋なんて便利なものはまだ持ち歩いていない。白石さんの冷えを手っ取り早く取り払うにはどうすればいいか、考えた結果はやっぱり手を繋ぐことだった。


「わ、」
「こうしたらマシ?」


引っ込められた白石さんの手を取って、五本の指を絡めて繋ぐ。するとビクリと飛び上がり、俺も思わず驚いてビクッとした。白石さんは声も無くうんうん頷いてごくりと唾を飲み言葉を発した。


「…っま…し…です、」
「ほんならコレでいこ」


やはり冷たい。けど、その温度よりも白石さんの手が想像より小さいことや柔らかいことなど、驚く要素は沢山だ。
指は細くてか弱い。もっと思い切り握りたいのに、力を込めたら折れるんじゃないかと思うほど。だから加減が大変だったけど、なるべくこの手を壊さないように握っていると、やっと息を整えた白石さんが言った。


「…先輩の手ぇ、あったかいですね」
「運動した後やからなあ」
「あ、そっか…」


バレー部の練習はとてもハードだ。うちの高校では一番厳しいかも知れない。おかげで血の巡りが良くなって、俺の身体はぽかぽかしている。


「…あと、緊張してるからかも知らんな」
「緊張?」
「好きな子と居てるんは緊張する。手ぇ繋いだりすんのも慣れてへんし」


好きな子、と改めて口にするのは照れくさいが。白石さんも嬉しかったのか照れてしまったのか、口をごにょごにょと動かしていた。


「…はじめてですか?女の子と手ぇ繋ぐん」


その質問を聞いたとき、なんと答えるか迷ってしまった。傷付けるのは嫌だ、嘘をつくのも嫌だ。そもそも俺は上手に嘘をつけるような人間ではない。


「……ちゃう」
「ああ…」
「ごめん、俺嘘つかれへんねん」
「いや…」
「けど、こんな緊張すんのは初めてやわ。不思議と」


女の子と手を繋ぐのは、何年かぶりのこと。初めての時は何も考えずに繋いだと記憶している。そして「思てたんと違う」と感じたのも。
普通、女の子と触れたらもっとドキドキするんちゃうか?と。

そうして昔の彼女とは別れたのだった。「彼女」というほどの存在でも無かったかも知れない。相手にとっても俺にとってもほんのお試しというか、良くも悪くもお遊び程度の付き合いだった。

だからこそ今、こんなに俺の心をいっぱいにする女の子が隣にいて、しかも俺の右手に彼女の左手がおさまっている。その事実にとても緊張しているのだ。


「きれいやな、空」


誤魔化すために見上げた空は相変わらず美しかった、兵庫県にしては。
しかし、この景色を「美しい」と思えるようになったのは白石さんのおかげである。更には頭上にきらめく星のうち、俺にも見つけられる星座が出来た。


「俺が居てるわ」


ペルセウス座を指さすと、ほんまや、と白石さんの声が明るくなった。いま手を繋いでる俺よりも、空に浮かぶ俺のほうが彼女の笑顔を引き出すのは上手いらしい。


「私もあそこに居てます」
「きれいやなあ」


白石さんを指すアンドロメダ座もきらきらと光っていた、とても眩く。
あれから詳しく聞いてみたところ、ペルセウスは生け贄にされそうになったアンドロメダ姫を助けたのだという。そしてめでたく結ばれて平穏に暮らしたらしい。素晴らしい働きじゃないか、空の俺。


「…先輩。また明日から、あそこで一緒に天体観測してくれませんか」


ゆっくりと歩きながら、白石さんが言った。もしかしてずっと言うタイミングを伺っていたのかも知れない。
いくら学校の敷地内とはいえ、夜、俺の部活が終わるまでをひとりで過ごされるのは気が引ける。時間も時間だし、気温はぐんと低くなるし。


「ええけど…」
「けど?」
「また帰るん遅なるやん」
「私は大丈夫です」
「あかんて。寒いし」
「ほんならそん時はまた、こうやって駅まで送ってってください」


こうやって、と言いながら白石さんは繋いだ手をぎゅっと強く握った。
女の子のほうからそんな事をされて、そんなふうに言われて、正気を保つ男が居るのだろうか。俺には分からない。俺には無理だ。気付けば俺は歩くのをやめ、立ち止まっていた。


「…北先輩?」
「夜まで一緒におって、俺がいつまでも手ぇ繋ぐだけで満足するとは限らんで」


ごくり。どちらかが息を呑むのが聞こえる。


「それでもええんか?」


白石さんは瞬きもせず俺を見上げていた。俺も負けじと見つめ返す。吸い込まれそうな瞳であった。でもまだ理性を吸い込まれるわけにはいかない。白石さんの返事を聞くまでは。もしかしたら拒否されるかもしれない。でも、その心配には及ばなかった。


「…おんなじ気持ちです」


ぎゅ、と再び手に力がこもる。この子、こんなに力が強かったのか。俺の手を、心を強く掴んで決して離そうとしない。それどころかどんどん引き寄せられていく。白石さんのほうへ。


「……ほんま敵わんわ、もう」
「なにがですか」


ついに俺たちは向かい合い、見つめ合う形となった。黒い瞳の奥が光っているのは、星が写されているからか。それとも潤んでいるのか。そんな目で見つめられた男が静かな夜の星の下、手を繋ぐ以上の触れ合いを我慢できるか?いや出来ない。


「知らんで」
「…だいじょぶです」


ごくり。今度は確実に、俺の喉が鳴る音。
繋いだ手と反対側の手を使い、風で揺らぐ白石さんの髪を耳にかける。くすぐったそうに目を細める白石さん。その時触れた彼女の耳はとても熱くて、霜焼けみたいに真っ赤になっていた。


「…熱いな」
「え、すみません…」
「末端冷え性ちゃうかったっけ?」
「だって…緊張、してるから…」


俺はたぶん、それ以上に緊張している。今からこの唇を奪おうというのだから。
落ち着いて、ゆっくり顔を近づければ大丈夫。白石さんの顔はもうすぐそこだ。二度、三度と瞬きをした白石さんは次に目を閉じる瞬間に、夢みたいな言葉を口にした。


「好きです。先輩」


キスの練習なんかしたことが無い俺は、このぶっつけ本番の一本勝負を上手くやり抜くことが出来ただろうか。白石さんの言葉に頭が真っ白になって全く覚えていない、ただただ幸せだったという事しか。

俺はとても小さな人間である。世界人口70億人ぶんの1人、丸い地球の日本という小さな国に住むしがない男子高校生。そんな俺が今日、好きな女の子と初めてのキスを交わしたことなんてこの銀河系の中ではほんの些細な出来事だ。
これから先もっともっと幸せなこと、辛いことがやって来るだろうけど。些細な俺たちの些細な壁や些細な幸せは、もうひとりの俺が空から見守っていてくれるだろう。
と、勝手にペルセウスへ責任を押し付けてしまった。星に願いを、って柄ではなかったはずなんだけど。

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