09 女の子に向かって自分の気持ちを伝える前には、きちんとシミュレーションすべきである。過去にそんな経験が豊富でなかったとしても、きっと頭の中で色々なパターンと対応を考えておく方がいい。
そう思っていたのにいざ目の前に好きな女の子が現れると冷静になれはしなかった。
自分の身体が、顔が熱かったのは、買ったばかりのコーヒーが熱々だったせいではない。
もしかしたらもう俺と会ってはくれないかもしれない。避けられてしまうかも。告白するにしたってもう少しまともな言い方があったと思うが、もう遅かった。
「そろそろ片づけんで」
「うっす」
夕方の練習を終えて、いつも通りに片付けの指示を出し自分も掃除を開始する。
トイレの鏡を指紋ひとつ残らないよう拭き取ると、自分の顔がくっきりと写っていた。今朝も同じ顔を自宅で見た。いつもと変わらぬ俺の顔。呆れるほど無表情だ。しかし本当はとても焦っている。昨夜のアレで、俺は白石さんにどう思われたのだろう。
昨日、白石さんに突然わけのわからない事を言ってしまった。
そのまま俺は普段なら彼女を駅まで送るはずなのに、それをせずに別々に帰宅した。何故そうなったのかは覚えていないが、それで良かったのだと思われる。あまり関わりを持たない上級生に急にあんな事を言われて、挙句に隣を歩かれるなんて、白石さんにとって迷惑だろうから。
「北さん」
すべての掃除が間もなく終えるかという頃、宮侑が俺を呼んだ。彼は体育館の入口に立ち、外を気にしながら俺を見ている。
もしかして、と思ったけど、昨日の今日で白石さんがそこに居るわけが無い。
「…白石さんと、もしかして何か約束されてます?」
しかし侑の台詞を聞く限りでは、白石さんが外に居るのではないかと思えた。しかも俺を待っているのではないかと。
「…してへん」
「あれ」
「居てるんか?」
「えー、はい。外の、向こうのほうに」
侑は外を指さした。自ら顔を出さなくとも分かる。侑はこんなくだらない嘘をつく人間じゃないし、彼の指差す方向は間違いなくいつも白石さんが居る位置であった。
「片づけやっときましょか」
俺はそんなに「すぐにでも行きたい」という顔をしていたのだろうか、侑が俺の持つ掃除用具を受け取ろうとした。
「…いや、」
「準備はいっつも北さんやってくれてるし。片づけぐらい出来ますわ」
ついこの間まで小生意気な下級生だったのに、今はじめて侑の事が可愛らしく見えた。侑は俺が返事をする前に、俺の手から掃除用具をそっと奪っていく。そして「あと片すだけでしょ」と、けろりと笑った。
「…わかった。ありがとう」
「いいえー」
侑は勘のいい男だ。侑だけでなく稲荷崎のバレー部員は試合中以外も色々なことを察することが出来る優秀なやつが揃っている、誇らしい。しかし今初めて少し、情けなくて照れくさい。
掃除を後輩に任せて靴を履き替え、いつも白石さんが天体観測をしていた場所まで真っ直ぐに歩いていく。そこにはしっかりと白石すみれが立っていた。
「来おへんかと思った」
これは俺の台詞である。昨日の事を考えれば、再び俺と顔を合わせるのは嫌なんじゃないかと思ったからだ。
「……来るかどうか迷いました」
白石さんは俺から目を離して、地面を見つめた。やはり昨日あれを口走ってしまったことは失敗だったらしい。
「昨日の話な、迷惑やったら無視してくれたらええで」
「できません」
しかし、白石さんは俺の言葉を遮るかのようにぴしゃりと言った。
昨日の俺はとても曖昧だった。ここに白石さんが居るのを知って毎日会いに来ていた事を伝えたけれども。何故わざわざ会いに来たのかは伝えていない。
でも白石さんはきっと分かっている。分かっているからこそ「来るかどうか迷いました」、なのだ。けれど迷った結果ここに来たという事は、俺に期待をさせる事になる。
「…あんな言い方しといてなんやけど…それ、きっちり答え聞かしてくれるって事でええんか?」
「………」
白石さんは頷きもせず、首を振りもせず、ひたすら地面を睨んでいた。ああ、きっと駄目なんだなと確信する。良い答えが貰えるという期待はそもそも持っていない。が、せめて白石さんに心労を与えないように終わらせたい。
このまま答えは言わなくていいと伝えるべきか悩んでいると、白石さんは口を開いた。
「私、北先輩が思ってるような人と違う」
「……なに?」
全く予想外のことが聞こえてきたので、俺の脳は受け止める用意が出来ていなかった。しかし白石さんの中ではしっかり用意された言葉だったらしく、そこから先は顔を上げて続けられた。
「先輩、前に言いましたやん。毎晩ひとりやのにちゃんと活動してて尊敬するわって。すごいなって言ってくれたん嬉しかったけど」
何故だか白石さんは泣きそうだ。俺がじっと見ている威圧感のせいだろうか?今から先輩を振らなければならないプレッシャーのせいか。
「そんな真面目と違うんです、私」
白石さんはもう一度、ゆっくりと下を向いた。
俺は確かに先日、白石さんの事を褒めた。褒めたというより純粋に凄いなと思ったことをそのまま伝えた。誰も居ないのにひとりで観測を続けるのは、いくら好きな事とはいえ辛い時だってあるだろうから。真面目に続けることは尊敬するな、と思っていたのだが。
なぜ今その事を「そんなに真面目じゃない」と否定されているのかが全く分からない。
「何が言いたいねん?」
我慢できなくなってこちらから聞いてみる。白石さんは話を続けようと息を吸ったが、やっぱり言えない、とでも言うように俯いて深呼吸をした。それが何度か続いたけれども俺はそこで待っていた。言おうとしてくれているからだ。そして何度目かの深呼吸の後、やっと白石さんが言った。
「…この時間まで残ってたら、北先輩に会えるんやなって知ったから。やから残ってただけなんです」
しかし、せっかく頑張って言ってくれたのになかなか脳に浸透してこないのは、これも予想を超えた内容だったからである。
「……それは…」
俺は白石さんの言ってくれたことを落ち着いて染み込ませなければならなかった。そうしないと今の言葉は全部、俺に都合のいい内容に聞こえてしまうのだ。
俺はもちろん毎度の練習後、白石さんが居るのを知った上でここに来ていた。決して偶然ではなく。その都度「遅い時間まで残るな」と伝えてきた。が、こんな時間まで残っていた理由が俺に会うためだったなんて誰が予想できただろう?
「それは…俺…喜ぶとこ?」
「…わかりません。だって私、真面目な子ちゃいますもん」
「そっちちゃうわ」
未だに地面と睨めっこする白石さんの肩を掴むと、白石さんはびくりと身体を震わせた。悪かったなと思ったけれど、手を引っ込めることは出来ない。どうしても気になることが先行してしまったから。
「白石さん、俺の事が好きって事?」
白石さんの首がほんの少し上を向いた。しかし目の前に俺の顔があることに気付いてまた顔を下げてしまう。おかげで声は聞き取りづらかったが、白石さんが小さな声で確かに言った。
「……すき。です」
「こっち向け」
「やです」
「向いて」
向いてくれないなら仕方ないと、握っていた肩に少し力を込めて揺らしてみた。びくっとして顔を上げた白石さんの目には既に涙が浮かんでいる。俺は本当に情けない男だ。白石さんははっきりと今「すき」だと言ってくれたのに。泣きそうになりながら。
「昨日はごめん。俺めっちゃ嫌な言い方してもうたわ、卑怯な言い方」
「…そんなん、思ってません」
「やから今ちゃんと言うな。聞いて」
また顔を逸らそうとする白石さんに、今ばっかりはどうか俺を見て欲しいと手に力を込める。俺の手で彼女の肩を砕いてしまわないか心配だ。でも力加減を調節するなんて事まで頭が働かない。代わりに口を働かせる、嘘偽りなく想いを伝えられるように。
「俺も白石さんの事が好き。むっちゃ好きやで」
白石さんは俺から目を逸らさなかった。逸らせなかったのかも知れない。俺が彼女の両肩から二の腕にかけて、ぎゅうっと力を込めて握っているからだ。
やがて自らの手を俺の手に重ねると、感触を確かめるように撫でながら言った。
「……夢と違いますか…?」
「信じられんの?」
「…だって…」
重ねられた白石さんの手に力が入る。その目にも力と輝きが宿ったかに見えた。涙のせいかもしれないが、瞳の奥の奥の奥のほうにしっかり俺が写っているのが確認できる。今、白石さんに真っ直ぐ見つめられているのだ。
「先輩、ペルセウスみたいに素敵やもん。王子様みたいやし、優しくって、いっしょにおったら安心する」
「…そんなええもん違うわ」
白石さんの大好きな神話に出てくる通りすがりの勇者、それが俺ならどんなに良いだろうか。偶然魅力的な女性に会って、運命的な救出劇を繰り広げることが出来るなら。
ここは地球で、日本という小さな国を無理やり47に分けたうちの、ほんの小さな地区である。稲荷崎高校の敷地内では神話のようなドラマチックな展開など起こり得ない。けれど、もしも白石さんが俺のことをペルセウスだと言うのなら、二人の間では神話が成立するのだろうか。
「俺がペルセウスなら、白石さんはアンドロメダゆう事でええねんな」
俺にとって相手となるお姫様候補はたった一人であった。白石さんは自分が物語の登場人物に見立てられるなんて思っていなかったのか、ええと、と言葉を濁している。けれどちっとも嫌そうじゃない。
「…神話の続きが知りたいんやけど、」
「はい…?」
ようやく身体の力が抜けた彼女の肩から手を離し、不用心にぶら下がった小さな手を取る。と、もう一度白石さんがぴくりと動いた。今度は顔を逸らさない。そのまま優しく手を覆ってみると、俺の手の中で白石さんの手が小さく動いた。
「お姫様を助けた後、結局ふたりはくっつくん?」
小さくて弱くて可愛くて、美しい。そして神秘的だ。女の子という存在は。
白石さんは俺の問いかけに対し返事をすることは無かったが、手を握り返してきたと言うことはきっと、そういう事で間違いないのだと思う。
メイド・イン・オラクル