08


初めて白石さんと約束をした。しかもよくよく考えれば、バレー部の練習が終わる時間まで彼女を学校に縛り付けてしまうような内容で。普段は遅くなるなと言っているくせになんという自分勝手をしてしまったのだ。

恋というのは全てを狂わせてしまう。思考も行動も言葉も全部が自分ではないみたいで、でも約束の場所に彼女の姿を見つけた時どくりと波打つ振動は、確かに自分のものだった。


「お疲れ様です」


白石さんは倉庫の脇にある椅子に腰を下ろし、携帯ゲームか何かで時間つぶしをしていたようだった。どうやら膝をすり合わせている。そこでもうひとつ気付いたのは、今すでに気温が低くなっている事。


「…寒かったやんな。ごめん」
「大丈夫です、今きたとこです」


携帯電話の画面を切りながら、白石さんが言った。
今来たなんて嘘なんだろうと思う。ひとりでこんな時間まで時間を潰すのは一苦労だし、既に校舎の電気はほとんど消えているだろう。もう一度改めて謝ろうとしたところで、白石さんが口を開いた。


「先輩もそのまんまじゃ寒いでしょ、先着替えてきます?」
「あー、ああ…」


俺はまだ部活を終えたばかりの服装だった。確かにこの格好で長時間外に居るのは利口ではない。白石さんの待ち時間を更に増やしてしまう事になるけど、部室まで走る事にした。


「すぐ着替えてくるわ、待っとって」
「ハイ」


大急ぎで部室に到着すると、入口で何名かの部員とすれ違った。
「お先です」と頭を下げていく彼らに軽く挨拶をして中に入ると、そこには尾白アランただひとり。彼は俺が走って部室まで来た理由を知らないが、なんとなくは分かっているようだった。


「帰る?」
「…寄るとこあんねん。また明日な」
「そ。ほな明日」


部室の鍵を俺に投げて、尾白は先に退出した。俺が来るのを待っていたのかも知れない、悪いことをした。

手短に着替えを済ませて外に出ると、相変わらず肌寒い空気。しかしとても澄んでいた。女の子と天体観測をするには絶好の天気だなと思う。ちょっとした格好付けを出来るからだ。


「ごめんな、待たせてもうて」


白石さんの待つ場所へ小走りで戻ると、彼女はまたゲームでもしていたのか、携帯電話から顔を上げた。そして、俺が差し出したものをみて目を丸くする。部室棟の横にある自販機で、温かいコーヒーを2本買ってきたのだ。
男の見栄を張る機会を与えてくれたこの気温に、少しだけ感謝する。


「どっちがええ?」
「えっ?そんなん悪いです」
「悪いのは俺やから」


そう言うと、白石さんは2本の缶コーヒーを交互に見た。恥ずかしながら彼女の好みを知らないので、2種類買ってきたのである。無糖と微糖。女の子なら微糖を選ぶかなと思いながら。


「…じゃ、甘いほう」
「うん」


予想どおりに微糖を選んだ彼女に缶コーヒーを手渡すと、両手でそれを握りしめた。かじかんだ手を温めているかのように。


「あったかー」


こんなに可愛らしい姿を見られて良かった、という気持ちと、寒い中待たせるのはやっぱり良くなかった、という罪悪感が芽生える。缶コーヒー1本で相殺できるだろうか。


「…ごめんな。女の子に夜付き合せんの、最悪やって分かってんねんけど」
「いけますって。先輩、謝りすぎですよ」


しかし白石さんは笑って許してくれた。俺に気を遣ってくれている?というのは思い上がりかもしれない。彼女は元々天体観測が好きなのだから、寒い中こうして外に居るのは慣れているのかも。
俺が誘わなくたって、いつかは自分で立ち直り、天体観測を再開していたかもしれないのだ。だから俺は、自分の事を特別だと思ってはならない。


「……今日は、お気に入りのやつ喋ってええですか?」


俺が自分の気持ちを制御していると、白石さんが言った。そう言えば今夜は彼女に話を聞かせてほしいと頼んだのだ。


「おう。頼むわ」


白石さんは微笑んで頷いた。これじゃあ俺が彼女に元気づけられているみたいだな。望遠鏡を盗まれて落ち込んでいるのは白石さんなのに。しかし彼女の「お気に入り」を聞けるという事なので、それに甘えることにする。


「きれいなお姫様と勇者の神話なんですけど」
「女子が好きそな話やなあ」
「定番ですね」


そう言いながら、白石さんはポケットを漁り始めた。取り出したレーザーポインターに電源を入れ、緑の光が夜空に現れる。白石さんは迷わず目当ての星座を見つけ、それをビームで示した。


「あそこ、ペルセウス座です」
「…聞いた事ある」
「名前は有名ですよねえ」


白石さんはペルセウス座をビームで丸く囲いながら説明を始めた。どうやらペルセウスというのは神話に出てくる登場人物らしい。


「ペルセウスはまあ…色々あって化け物退治する事になったんですよ」
「えらい端折るなあ」
「あはは、そんで化け物いうんはアレです。メデューサって聞いた事あります?」
「…頭が蛇の女?」
「そうそう」


目を合わせたら石にされてしまうという恐ろしい魔物、というのだけ聞いたことがある。幼心にちょっとした恐怖を植え付けられた記憶があるな、と苦笑いした。


「で、まあ倒すんですよ」
「また端折った」
「あははっ、ここは大事なとこやないんです私ん中では」


このお気に入りの話、ペルセウス座のエピソードの中にも細かく白石さんの「お気に入り」の部分があるようだ。話したいように話してくれれば良いので気にしないが。むしろ好きな部分を喋っているおかげか、普段よりも活き活きとして見えた。


「…なんか今日は楽しそに喋ってくれるんやな」


ぽろりとこぼした言葉に、白石さんが動きを止めた。


「…今日は?」
「あ、いや…いつもが退屈そうに見えてるわけやないけど…」
「ふふ。たのしいですよ、いつも」


白石さんは肩を小刻みに揺らして笑った。好きな事をしているんだから、楽しいのは当然かもしれないが。でももし「楽しい」の理由が、俺が隣で聞いているからだとしたら?なんて考えてしまう都合のいい脳味噌。俺の脳はここまで自分勝手だったか?


「……どこまで喋りましたっけ、私」
「化け物退治したとこ」
「ああ、せや」


気を取り直して、白石さんが空を見上げた。


「その帰りにね、お姫様に会ったんです」


途端に彼女の声は先程よりもワントーン上がった、ここがおそらく一番お気に入りの話なのだろうと思う。


「そのお姫様が死にそうになってたとこをたまたま助けたんです」
「やるやん」
「でしょ」


白石さんは頬を染めて、まるで我が事のように嬉しそうだ。そんなドラマのような出会いをしてみたいのだろう。


「お姫様は、あそこです」


再び空に緑の光が現れた。ペルセウス座のすぐそばにある星座らしきものを光で囲い、お姫様として説明される。
この神話、どこかで聞いたことがあるかもしれない。名前がすぐそこまで来ている。お姫様の名前、何だったかな。


「名前は…」
「アンドロメダって、知ってます?」


やはり聞いたことのあるものだった、「お姫様」に相応しい美しい名前である。「名前だけ知ってる」と伝えると白石さんは夢見るような口調で言った。


「すてきやなあって思いません?」


そんな王子様みたいな人が現れるのを白石さんは待っているのだろうか。
同じ高校に通うごくごく普通の男である俺は、その器ではないのか。そう思うとすごく残念なのに、白石さんの幸せそうな顔を見ると肯定せざるを得ないのだった。


「…思う」


俺の苦し紛れの一言でも、白石さんは目を輝かせて「ですよね!」と喜んだ。
胸がちくちく痛むけど。少しでも白石さんの気持ちが明るくなるのなら、俺のちっぽけな恋心なんて今はどうだっていい。今日は彼女の気の済むまで話を聞かせてもらって、それで終わりだ。…とは言え俺が単に白石さんの話を聞きたいだけなのだが。


「……北先輩はアレですね、ペルセウスみたいですね」
「え、俺?」


突然話しかけられて、気の抜けた声が出た。しかもその内容が、先程まで話していた素敵な救世主の事だったから。俺がその救世主みたいだと言うもんだから。


「色々助けてくれてるやないですか」


動揺して何も言い返せないで居る俺に、続けて白石さんが言った。

これまで俺が白石さんを助けた事なんてあったろうか。あったとしても初めて会った日、治と侑に謝罪させた時くらいしか思い浮かばない。
それに、俺がペルセウスのようだといくら彼女に言われても、俺と彼とでは決定的に違う事がある。


「…俺はたまたま通りがかってるわけやないから」
「そうですけど…」
「偶然やなくて、狙ってんねん」


ペルセウスは化け物退治の帰り道、偶然アンドロメダと出会ったのである。
白石さんが運良く助けられたアンドロメダに憧れているのだとしたら、その相手は俺ではない。俺は偶然ここに居るわけでは無いからだ。


「……え?」


その意味を白石さんは、まだ図りきれていない。俺だってこのままずっと知られなくても良いと思っていた。でもこういう気持ちはある一定の温度まで達すると、制御出来なくなるのが厄介なのだ。


「白石さんがこの時間いっつも居るなって気づいてから、狙ってんねん。俺は」


ペルセウスならきっと、もう少しまともな言葉を選んだかも知れないが。俺の台詞を聞いた白石さんは暫くのあいだ静止した。

そこから先は俺もあまり覚えていない。確実なのはこの日、もう遅かったにも関わらず、俺と白石さんは別々に帰宅をしたということ。

アンチ・アステリズム