07


日課となっていた天体観測はぱたりと無くなった。道具が無いのだから仕方ない。
それに、そもそも俺と白石さんは「今夜もあそこで」と約束をした事など一度も無かった。きっと今日も居るだろうな、と覗きにいけば必ず彼女がそこに居ただけの事で。

白石さんからの星空案内は途中で終わっており、今、ひとりで空を見上げてみてもどれが何なのか分からない。教えてもらった星座も、すぐに目当てのものを見つける事は難しい。
そしてただひとりで見ているだけではとても退屈で、目がちかちかしてきて、首も疲れてしまうのだった。
1億人を超える人口を誇る日本を無理やり47に分けたうちの、こんな目立たない細道で悩むひとりの男の進む道なんて星は示してはくれないのだ。


「まだ犯人見つからんらしいわ」


倉庫に入った泥棒事件から1週間。当日は相当盛り上がっていたものの、盗まれたものが他学年の天体望遠鏡とわずかな物だった事もあり、あまり話題に挙がる事はなくなった。
犯人はまだ見つかっていない。警察は近所のリサイクルショップなども調べているようだが、まだ売られた形跡は無いらしかった。


「…あ」


ある昼休みのこと、職員室に提出物を出しに行った帰りに白石さんと出くわした。彼女も職員室からの帰りらしく、同じ階段を降りようとした時に鉢合わせたのだった。


「北先輩、こんにちは」
「ちは…」


よそよそしい挨拶を交わして、次の言葉を探すが浮かんでこない。この1週間、白石さんに掛けてあげたい言葉は沢山あったにも関わらず。
いざ目の前に現れた彼女が俺の想像よりも気丈な雰囲気だったもので、虚をつかれた感じだった。


「なんか、校舎内で会うん初めてですね」
「ああ」


白石さんは暗い表情を見せることなく、立派な世間話をしてみせた。しかも笑顔で。しかしその顔は、俺が一緒に天体観測をしていた時のそれとは全く違った。


「…白石さん、大丈夫?」


「大丈夫?」という聞き方をして、素直に「大丈夫じゃない」と答えるには勇気が要る。そっちのほうが俺は安心だけれども、白石さんはまた笑顔で頷いた。


「はい」
「そっか」


本当は大丈夫なんて思てへんやろ、と言えるほどの仲なら良かったのに。白石さんが「大丈夫」と言うのをそのまま信じる振りをするのは胸が痛い。

階段の前で立ち止まったままだった俺たちはどちらからともなく歩き始め、階段を降り始めた。足音のおかげで気まずい沈黙が消えたせいか、白石さんはゆっくりゆっくりと口を開いた。


「運が悪かったんかも知れへんって。あのへん照明も少ないから狙われたんかもって言うてました」


恐らく警察や先生に聞いた情報だと思われる。泥棒が何を盗もうとしてあんな隅っこの倉庫に侵入したのか分からないが、証明も隠しカメラも無いあの場所は盗みに入りやすかったらしい。
そして体育倉庫には似つかわしくない、古いけれど大切に保管された天体望遠鏡を発見したのだ。白石さんの父親からの譲りものを。


「もう天体観測、やらんの」


聞いてみると、白石さんは声もなく首を振った。望遠鏡が無いのだから当たり前だ。


「……そういう気にならんくって…」


ぽつりと呟いた彼女の声に生気は無く、少しかすれていた。

俺が毎晩あの場所で白石さんの隣を陣取っているのには理由がある。
はじめは双子の粗相がきっかけだったが、そのうち俺自身の勝手で白石さんの天体観測に付き合わせてもらっていた。彼女が星空を見ながら話す声は楽しそうで、決してうるさいとは感じない柔らかい速度とトーンを保っている。

時折心地よくて眠気を誘われるような気持ちいい感じだったが、それが今後無くなってしまうのは大いに問題だ。俺にとっては勿論のこと、恐らく白石さんにとっても、静かな場所で星を見る時間が無くなるのは良くないはずだ。


「…白石さん、頭ン中に星座の位置はだいたい入ってるて言うてたな」
「え…?はい」


階段を降りきった渡り廊下で、白石さんは顔を上げた。


「ほんなら、望遠鏡なくてもええから俺にもっと教えてくれんか」


白石さんは俺と同等か、もう少し大きめの目をぐりんと開いた。冷静な俺だったら白石さんと同じように、自分自身の台詞に疑問を持ったと思う。


「……教える?」
「なんでもええわ。白石さんの話したい事。好きな星座とか、有名なやつでも、前に聞いた事でもなんでも」


大切にしていたものを盗まれた上に戻ってこない可能性が高いのだから、「元気を出せ」なんて軽々しく言えはしない。が、夜、空を見て、俺に語りかけている時の白石さんは生き生きとしていた。望遠鏡が無かったとしても元気な声が聞けるかも知れない。


「…ありがとうございます」
「なんで礼言うねん」
「元気づけよう思てくれてるから」


白石さんは弱々しく笑った、望遠鏡が盗まれた朝のように。
俺には感謝される事なんかひとつも無い。白石さんの元気な声が聞きたいというのは彼女の為ではなくて、俺自身の我儘だからだ。


「…ちゃうねん。そんなんちゃうねん、元気づけるとかやないねん」


俺が白石さんの前みたいな声を聞きたいだけで、決して「元気づけたい」という美しい理由ではなかった。


「…じゃあ……?」
「俺の勝手、ゆうか…」


まさしく俺が白石さんの明るい声を聞きたいだけの、勝手な理由でしかない。そんな自分勝手な事を思わず口走ってしまうほど、俺は冷静さを欠いているのだ。白石さんを前にすると普段の俺ではなくなってしまうのだった。情けない事に。

でも白石さんは、そんな俺の要望を受けてくれるらしい。2年生と3年生の校舎の分かれ道に差し掛かった時、立ち止まってこう言った。


「…ほんなら先輩、今日の夜いけますか」


白石さんが俺に訊ねた。それに対して俺の答えはひとつに決まっている。


「……いける」
「やりましょ。久しぶりに」
「ほんま?」
「はい。ビームはありますんで」


彼女の言うところのビーム、すなわちレーザーポインターは俺のお気に入りのだった。ポケットに忍ばせていたらしきそれを顔の横で振ってみせると、白石さんはにこりと微笑んだ。


「…ほんまにええんか?」
「何でです?」
「俺の部活、終わるまで待たせる事になんで」
「ああ、そんなん。宿題でも何でもやって待ってます」


帰りのホームルームが終わってから約2〜3時間、図書室で待つとは言われても、そんな勝手を言っていいのだろうか。いつも俺は「早く帰れ」「暗いから送る」と言うくせに、俺の勝手で白石さんを遅い時間まで残してもいいのか?
でもそんな事が二の次になってしまうほど、俺の心は高揚した。


「……なら、また」
「はい。放課後に、いつものとこで」


そう言って、俺と白石さんはそれぞれの教室へと戻っていった。

稲荷崎高校のバレー部に所属してからの3年間で初めて感じてしまったのだった、「早く部活が終わればいいのに」と。これは誰にも言わずに墓場まで持っていかなければならない。

貧弱なぼくらの
インナーワールド